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Amazon.co.jp ・本 (576ページ) / ISBN・EAN: 9784106039270
作品紹介・あらすじ
昭和に遊び、昭和に抗った「過激な個人主義者」荷風の生涯! 関東大震災から急激に復興したモダン都市東京、カフェーの女給や私娼などの新しい女たち、テロとクーデターに奔走する軍人……。激変する時代に何を見て、この「最後の文人」は反時代的傑作『濹東綺譚』を書き始めたのか? 『断腸亭日乗』など永井荷風の全作品を徹底的に読み込み、昭和をまるごと描き出した文芸評論の到達点!
感想・レビュー・書評
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川本三郎。荷風本を何冊も書いている批評家である。この本は氏の集大成と言っても良いだろう。私は川本の『マイ・バック・ページ』に批判的なので最初は図書館で借り受けたのではあるが、暫く読み進めるうちに、これは持っておかなくてはならない本だ、と思い返し贖うことにした。前編のみで567頁あるが、荷風評伝として、この間始まった全文庫化『断腸亭日乗』注釈として、無駄な文は一切無かった。今年82歳のはずの元全共闘世代、最後の華だと思った。
本書レビューの基本は上記の如し。以下拙覚書なり。全文約7千字弱。荷風に興味なくば、あとは無視するに如くは無し。
・震災時の「この度の災禍は実に天罰なりと謂ふべし」発言について、川本は云う。
思想的関心のものではないし、国家社会への関心からのものではない。荷風のは「彼の孤独な美的規範から噴出した激語」と言い、罰せられるべき対象には自分も含まれている。彼には、自分を無用者・余計者という思いがある。江戸の戯作者と同じという。定家と同じ。それは同時に世俗から超然とした貴族精神のあらわれでもある。
←私は震災時の日記は「かなり冷たい」と思っていたが、やっと納得いった。
・震災により浅草の衰退が始まった。震災復興は食の復興と共にあった。
←日乗だけでは、震災の風景は見えてなかった。
・永井荷風(本名、壮吉)。明治12年(1879)12月3日生まれ。森鴎外(1862)、夏目漱石(1867)、島崎藤村(1872)の弟の世代。明治42年出版「歓楽」「ふらんす物語」は大逆事件の影響下、刊行と同時に発売禁止になった。これにより、権力を前にして荷風は文学の無力さを思い知った。
←30歳時。それは思想に大きな影響を与えただろう。
・母は若く美しかった。らしい。文芸への窓でもあった。
←日乗での荷風の母親への想いがやっとわかった。
・荷風はフランスで個の強さを学ぶ。「新帰朝者日記」に「(自分の西洋崇拝は物質文明に対してではなくて)個人の胸底に流れている根本の思想についてである」と書いている。これが進みすぎて、この強さが女性を不幸にもする。2度の離婚。「新しい日本人」「変わった人間」になろうとする。
←やはり「ふらんす物語」を読もう。
・荷風は「決して世を捨てた戯作者ではない」。日乗では、随所に政治・社会への関心を示した。「小説から締め出されるものを、日記に掬い上げようとした」
←戯作者に「身をやつした」自由人たる荷風が、日乗によって鍛え上げられたのだと私は思う。
・荷風の漢詩文の素養には年季が入っている。最初、父に就いて学び、その父の手紙を持って岩渓裳川(いわたにしょうせん1855-1943)門下に入る。また、大人になっても漢詩文を学ぶことをやめなかった。震災以降の諸行無常の世、荷風を救ったのは硬質な漢詩文の文だった。
←全て同意する。
・大正15年10月から昭和3年2月にかけて、荷風は成島柳北の日記を写した。向島に住み、自宅を濹と言い表していたので、荷風は新しい小説を「濹東綺譚」と題するほど柳北に傾倒していたのは、ジャーナリスト柳北が好きだったのかと思いきや、豈測らん、漢詩人たる柳北だった。結果、日記文体は柳北に似る。
←向島の柳北家跡地を訪ねたことがある。柳北に「吉備日乗(航黴日記)」ありとな。読んでみたい。
・曝書をして日を過ごすと「なんとも知らず独無限の詩味をおぼえて止まざるなり」(大正14年8月30日)曝書とは本の虫干しのこと。勿論その間、久しぶりに蔵書を手に取る。
←私もやろうかしら。
・金銭に関して荷風は敏感、慎重。この点に関して、決して世を捨てた隠士ではない。三菱銀行預金が一万円を超えたので、「利殖のため」東京電燈(東京電力前身)の株百株ほど買った。一万円は現在では、3、4千万円に当たる(大正14年1月)。
・当初、円本ブームを批判していた荷風は一転改造社全集に入る。昭和3年、印税成金で五万円を定期預金と成している。
←この頃、大衆小説全集を刊行され、荷風は「流行りなのか」と驚いている。荷風は齢50を越えて昭和の大衆の時代を生きることになる。
・震災後、荷風は私娼に惹かれた。震災後、玄人の素人化が起きた。小説の中で玄人の女性を描き続けてきた荷風は、この変化に敏感だった。私娼は分散していた。大正14年に出会ったお浪については詳しく書かれている。「淫婦でありながら、家庭的、性質善良にて愚鈍ならず」。川本は、荷風は彼女たちを「世間の枠の外で生きている私娼を清濁含めて肯定しようとしている」と評価している。
大正14年暮れより次年7月までは「お富」に夢中になる。30歳ほどであったが、美しさにおいて随一だったらしい。小説「かし間の女」の菊子に少なからず投影されている。
・この頃、中洲病院(中央区日本橋の中洲、清洲橋袂にあり)に通い、隅田川が近くなる。昭和3年8月24日、新大橋近くに草稿を捨てている。「身辺整理をしていたのか」とは川本。
←ではなく、かなり際どい政府批判の書ならば、小説的には面白い。
・昭和3年3月15日、3.15事件、共産党・労農党運動家千数百名を治安維持法で逮捕。更に6月最高刑を死刑に。
←荷風は沈黙を守った。大逆事件の時に黙したのと同じ。5月6日、新聞報道を横目に見ながら、お歌に経営させている待合室で、芸妓たちとお喋りするのを、「天保のむかしにありが如き心地」という。非常に興味深い。
・親しい友人をつくろうとしなかった荷風にとって、数少ない友人に歌舞伎役者・2世市川左團次(明治13・1880-昭和15・1935)がいる。昭和初年まで、荷風の芝居への情熱は左團次に拠る。昭和3年小山内薫死去。荷風も次第に小説に傾倒し、左團次との付き合いは少なくなる。日乗には追悼の句「つきぢ川涙に水もぬるむ夜や、行雁や月はしづみて夜半の鐘、散りぎはは錦なりけり蔦紅葉」
・昭和初年前後から東京にはカフェが流行り始める。カフェ通いが終わった昭和5年の翌年、荷風は女給君江が主人公の「つゆのあとさき」を発表する。荷風の好きな市谷本村町に住んでいる。昭和5年には歌がいるのに芸者さん子と深い仲にあった。君江のモデルは、荷風を悩ませたタイガ女給お久という説が強いが、著者はさん子の存在も大きいという。この頃、小津安二郎も銀座を歩いていた。
・食品サンプル事始めを日乗に書いている(昭和10年7月3日)「ある人の説に東京市中の飲食店にて其店頭に硝子張の棚を設け、料理したる飲食物を陳列し、一皿ごとに定価をつけるやうになりしは大阪市中の洋食また支那料理屋に始まり、三越其他百貨店の食堂この風を学び、遂に蕎麦屋汁粉屋にまで及びしなりと云ふ。銀座通地震前には見ざりし奇風なり」
ここで「ある人」とは、世俗の風俗に通じた友人の神代帚葉のことだろう。食品陳列が、大阪から始まったというのも面白い。確か、現代でも回転寿司は、大阪から始まっているが、大阪で始められたものが、東京に攻めのぼってくる。(218p)
←家風の東京風俗を記録しようとする眼は、多分歴史家、民俗学者も唸らせたことだろう。著者は、サンプル陳列により女性の外食風景が珍しくなくなったという。お子様ランチが三越デパートに登場したのもこの頃だったらしい。
・昭和6年、愛妾関根歌が仔犬を拾う。ポチという。直ぐに病死し、ペット墓に埋め更にペットショップで仔犬を購っている。昭和初め、世の小説にはポチ頻発。フランス語プティ(小さい)から来たという。夏目漱石「硝子戸の中」、明治44年唱歌にも登場、二葉亭四迷「平凡」、有島武郎「火事とポチ」。ポチは仔犬を7匹産む。引き取り六軒探し、1匹シロを引き受ける。10月、半年後無理があり他家に引き受って貰うが、逃げて行方不明に。昭和初め、犬は放し飼いが普通だったようだ。忠犬ハチ公も放し飼いだから、渋谷駅まで行けたのだ。
・近代の東京は、古い下町と新しい山の手という二つの異なる文化圏が対立、せめぎあいながら発展してゆく。そして関東大震災のあと東京は、下町も山の手も、ともに拡大してゆく。
・家風は関根歌と同時に「園香」(山路さん子、山児)も身請けしてある。多分このことで歌は別れていった。その関係で、探偵岩井三郎を雇っている(料金30円)。(日本初の探偵、明治29年創業)。どうやらその事で、さん子とは別れる。昭和9年には私娼黒澤きみの身辺調査も依頼す。
←宮部嬢の杉村三郎の名前は、此処から取ったのではないか?
・昭和6(1931)年9月満州事変勃発。
事実認識として「暗い昭和」として始まったのではなかった。国民は満州事変を熱狂して迎えた。実際には事変で失業者が減った(←ドイツに似ている)。しかし、テロは続いた。(昭和5年浜口総理、昭和6年井上前蔵相、三井社長団琢磨、昭和7年5.15事件)
←昭和4年の同級生支那公使佐分利の自殺も、殺されたのではないか?とこの時、荷風は思ったかもしれない(川本氏によれば殺害可能性はかなりあるという)。小説に出来そうな話。
・深川散策記事は第18章から。小名木川沿に芭蕉古碑を見つけた(昭和7年)事詳し。
・19章は荒川放水路。岩淵水門辺りに現在、荒川治水資料館(知水は誤植か)。昭和28年映画「煙突の見える場所」で有名になった「お化け煙突」を、既に昭和15年11月に日乗で着目、記している。
・「堀切橋より四木橋を望む」風景(昭和7年1月22日)は、小津安二郎「東京物語」で、この土手が出てくる。東川千栄子が孫と遊ぶ場面。小津は熱心に荷風を読んでいた。
・満州事変、荷風は「満州戦争始」と書いている(1931.9.25)。荷風は「世間の風潮再び軍国主義の臭味を帯ぶること益々甚しくなれるが如し」(1932.2.11)また、道路の噂として朝日新聞が好戦に転じた経緯をほぼ正確に記した(同)。「吾国は永久に言論学会の楽土には在らず」(1932.3.4)。荷風は世間体のため「万一の用意」のために日の丸旗を買った(1935.2.3)。
←日本は15年で急速に軍国主義に傾斜したが、現代日本は果たして何年でそれが可能であろうか?
・21章は砂町特集。
・オペラ座通い
荷風は川上典夫を通してオペラ座と深く関わるようになってゆく。
日乗昭和13年2月27日「午後川上典夫来り話す。誘はれで浅草に至りカツフェージャポンに飲む。夜11時川上と共にオペラ館の舞台稽古を見る。館主田代旋太郎作者堺某小川丈夫俳優清水金一其他の人々と歓話して二時ごろに帰る」。荷風はこれ以後、親しくオペラ館に出入りするようになる。
3月5日、「午後光生社主人渡辺氏と共に浅草オペラ館に赴き楽屋及舞台を撮影す。渡辺氏は写真撮影の後先に去りしが、余は留まりて木村時子の部屋に招がれて雑談に刻を移す」。かねて気にかけていた木村時子と楽屋で会っている。さらに「閉場間際に文芸部員淀橋小川の二氏俳優清水等と共に出で、カフェージャポンに飲み、更に料理まるやと云ふ家に上りて笑語一時に至る」。すつかりオペラ館の作者や俳優たちと親しんでいる。3月16日に「薄暮オペラ館楽屋を訪ふ。写真撮影」とあるように、荷風はオペラ館に行く時には、愛用のカメラを持参し、踊子たちの写真をよく撮った。荷風はその頃、「写真を撮ってくれるおじいさん」と踊り子たちから呼ばれていた。有名な作家とは認識されていなかったようだ。この体験は「勲章」(昭和21年)に結実する。また、荷風が岡山疎開した時に行動を共にした菅原・永井カップルは、この前後に出会っている。荷風は菅原音楽でオペラ「葛飾情話」(荒川放水路が舞台)を3月16日から3日で書き上げ5月に上演した。その時の主演が永井智子だった。しかも、このあと永井智子主演で映画「浅草交響曲」の脚本まで書く(幻に終わる)。戦争と無縁のお話は、時局に合わなかったようだ。
←13年のオペラ座の成功が、荷風作家人生にとっては、ひとつの頂点のように思えたのかもしれない。晩年だと思っている荷風にとっては、若い菅原・智子カップルと都落ちするのは、ひとつの絵巻のようなものに映るのか?
この後、時局は戦争色が濃くなって行く。
・この頃、兵隊に取られることも多くなる。踊り子の知り合い丘道子の夫「村田某の招集令受けたりとて、道子涙にくるるさま見るに忍びず」(昭和13.7.1)道子については(13.4.15)にも記述。戦後「草紅葉」の踊り子「栄子」のこと。
←他人の荷風だから見せた素の顔なのだろう。
・14年2月、オペラ座上演「花と戦争」で、脚本家等家宅捜査まで受ける。前年の荷風作よりよっぽど時局寄りだったのに。
・昭和14年6月30日に、金の国勢調査に対抗して、唯一の金の愛蔵品の煙管と煙管筒を吾妻橋から投棄する。
←この調査、偽り違反すると、金500円の罰金とは知らなかった。障子に目あり、確かに偽れば不安だろう。全国民がいい諾々と従ったのにやっと納得いった。昭和15年には、軍人宅で隠していた金製品が泥棒に盗まれて発覚したと新聞沙汰になったことを荷風が日乗に記している。「正直ものは損する世の中と知るべし」。これに似たようなことが、この現代もう直ぐ起こらなければいいのだが。
・昭和14年6月21日
「頃日世の噂によれば軍部政府は婦女のちぢらし髪(パーマネントウェーブ)を禁じ男子学生の頭髪を五分刈のいが栗にせしむる法令を発したりと云ふ」。
←石川智識の小説「エレガンス」において、美容師が嘆いていた世の中は既に6年前からだった。荷風は、この状況下に踊り子たちの、何吹く風という風潮に賛意を示し、19年密かに書き戦後発表した「問はずがたり」によって、「非国民の女」雪江を登場させている。
・「エレガンス」警察庁撮影係で実際にもバリバリ忠君愛国の石川光陽においてさえも、「好きだ」と思わせていた永井荷風の小説の、戦中ブームがあったことを知った。
「実際、この頃には荷風の本、正確には岩波文庫に入ったいくつかの作品がよく売れた。ひとつには昭和十二年に岩波書店で刊行された『濹東綺譚』が版元も驚くほどの売れ行きを見せたことがある。八月に初版三千部(「日乗』八月二日)だったのが、その後、増刷が続き、『日乗』九月十三日では、わずか一ヶ月で五千部に達している。読者は次第に息苦しくなってゆく時代にあって、『濹東綺譚』の玉の井に、浮世離れしたような隠れ里を見たのだろう。そこには、時局に汚されていない世界がある。気をよくした岩波書店は荷風の旧作「腕くらべ」『おかめ笹』『珊瑚集』『雪解』を次々に文庫化していった。これがまたよく売れた。とくに昭和十五年に売れた。そのことは荷風が『日乗』に細かくその増刷ぶりを記述していることからも分かる。
例えば、『日乗』三月十日。
「岩波書店三月勘定左の如し。
1.「おかめ笹 」二千部 金八拾円也
1.「珊瑚集」一千部 金弐拾円也
1.「雪解」二千部 金四拾円也
〆て金壱百四拾円也」
←時既に戦時下。実に光陽は、光陽でさえ、「濹東綺譚」に、川本三郎と全く同じ理由で魅了されていたのである。
・昭和14年12月、銀座食堂で「半つき米」の飯に驚き、周りは「皆黙々としてこれを食い毫も不平不満の色をなさず」ことに更に驚く。昭和15年7月「米穀通帳」の配布。マッチや炭の不足。近衛内閣「新体制」人気。(←まるで高市内閣のよう)ファシズムとポピュリズムの一致。
←日乗に現代との相似を此処迄見るようになるとは、読み始めるまで予想していなかった。
・昭和16年2月4日
「(荷風はオペラ座の朝鮮踊り子たちが自国の歌を歌えないことに心から憤慨し)「言ひがたき悲痛の感に打たれざるを得ざりき」と書く。明らかに日本の植民地政を批判している。
だから続けてこう書く。老いた身としてはかなり激越である。「余は日本人の海外発展に対し歓喜の情を催すこと能はず。寧ろ嫌悪と恐怖とを感じてやまざるなり」。仏印をはじめ南への進攻、いわゆる「南進」が叫ばれる時代にあって荷風は冷静であり、まともである。さらに日米開戦が身近に感じられるようになっている折り、思い切ったことを書き記す。
「余て米国に在りし時米国人はキューバ島の民の其国の言語を使用し其民謡を歌ふことを禁ぜざりし事を聞きぬ」。そのあとが驚く。「余は自由の国に永遠の勝利と光栄との在らむことを願ふものなり」。この時代に、アメリカの勝利を願う「非国民」は荷風ぐらいしかいなかったのではないか。」(558p)
←「昭和16年にアメリカの勝利を願った荷風さん」という煽り文句で、ひとつのWEB記事ぐらいは書けそう。
←この頃、初めて荷風の日記を書いていることが公になった。そのため、一部を切り抜き、外出の際には日記を下駄箱の中に隠したらしい。しかし、6月15日、その姿勢を「慚愧し」その時のまとまって時局批判を書く。これは、日乗レビュー本文で引用したい。
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カフェの日本史から女給が気になり、女給を主人公にした永井荷風の『つゆのあとさき』を読んでみたところ、そこに書かれた昭和初期の銀座をはじめ、市ヶ谷、神楽坂など東京の描写が良かったので、ガイド本的にこちらを読んでみました。
荷風の日記『断腸亭日乗』と彼の作品をベースにたどる昭和史。
今年の小林秀雄賞を受賞。
前篇だけで500ページを超えてるので読み終えるのに時間がかかりましたが、めちゃくちゃおもしろいです。
たとえば、私も気になった『つゆのあとさき』で主人公・君江が数寄屋橋の朝日新聞社にあがるアドバルーンを見上げる場面。
アドバルーンが広告に使われるようになったのが大正時代で、朝日新聞社の建物が建てられたのが震災後の昭和二年。震災後に復興したモダン都市東京の風景だったことがよくわかります。
君江が住んでいる市ヶ谷本村町、銀座のカフェ、ここらへんも現在の地名や変遷が解説されていて、『つゆのあとさき』に書かれていた「市ヶ谷停車場」は外濠線という市電の駅だったことを知ったり。
荷風は実家が裕福だったこともあり、慶應の教授をちょっとしていた以外は定職を持たず、生活のために作家をしているわけでもないんですね。
9時頃に起きて、床のなかでショコラを飲み、クロワッサンを食べ、昨夜の読み残しの詩集を読む。隅田川あたりを散策し、銀座や神楽坂でビフテキを食べる。なんという高等遊民生活。
『日乗』に書かれた荒川放水路の散策が詳しく載っており、Googleマップで荷風の足取りを確認しながら読むと、当時の風景が再現されて、これもすごくおもしろい。隅田川あたりは一度歩いてみたいです。
荷風の中学の同級生だった外交官・佐分利氏が富士屋ホテルでピストル自殺した事件など、富士屋ホテルの洋館に泊まったことがあるんですけど、どの部屋だったんだろう。
左利きなのに右手にピストルを持ってるとか、遺書がなかったことから松本清張がこの自殺説に疑問をもってるのもおもしろい。
荷風は女性とまともに恋愛をする気がなく、芸者、私娼、女給と、その時々でビジネスライクに付き合ってきたのかと思っていたんですが、川本さんの解説によると、むしろ女性らしさ、そのものを愛し続けた人であったようにも思えます。
といっても、『日乗』の有名らしい「つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし」という女性リストには笑ってしまうんですが。16名の名前が書かれていて「此他臨時のもの挙ぐるに遑あらず」。
昭和100年といいますが、100年で東京の風景はまったく変わったようでもあり、じつはあまり変わっていないようでもあり。
私も荷風のように東京を歩いて、消えていった昭和の面影を探してみたいです。
以下、引用。
3
ニ〇一四年にノーベル文学賞を受賞したフランスの作家パトリック・モディアノは受賞講演で「偉大な作家たちの何人かはひとつの都市と結びついています」としてバルザックとパリ、ディケンズとロンドン、ドストエフスキーとサンクトペテルブルグ、そして荷風と東京を挙げた。
19
関東大震災によって、自分を育んでくれた「江戸文化の名残」も「明治の文化」も消滅してしまった、その深い悲しみを謳っている。荷風の昭和は、震災による喪失感から始まっている。
21
巨大なビル(泉ガーデンタワー)の片隅に「偏奇館跡」(ニ〇〇ニ年、港区教育委員会)の小さな碑が建てられているのが、かろうじての救い。
34
荷風は数寄屋橋から鍛冶橋へ出る。数寄屋橋も鍛冶橋も、戦後、埋立てられてしまう外濠に架かっていた。現在、橋はとうにないが、交差点にその名が残っている。
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神楽坂は明治になって繁華を見せるようになったが、とくに震災で大きな被害を受けなかったために震災後、隆盛した。
46
その伸びゆく銀座を牽引していったのがデパート。
松坂屋がまず大正十三年に銀座に進出したのを皮切りに、大正十四年に松屋、昭和五年に三越、と大手デパートが次々に銀座に開店、近代的なデパートの出現は東京の人間の生活意識を大きく変えてゆくことになる。
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荷風文学の特色のひとつは、たおやかさ、女性らしさにある。女性文化への憧憬にある。荷風が芸者やカフェの女給、私娼を好んで描いたのは、好色だからというよりも、彼女たちが持つたおやかさ、優しさ、肉体の美しさ、かぐわしさを愛したからに他ならない。その女性らしさは、猛々しく、武張った男性文化の対極にあるものだった。
64
随筆「葛飾土産」(昭和二十ニ年)では、コスモスが東京の人間に称美されるようになったのは大正の改元のころ、ダリヤはそれより前と書いている。
明治二十五年(一八九ニ)創業の東京六本木にあるゴトウフローリストで、バラやカーネーションなどの洋花を取り扱うようになったのは大正八年頃のこと。
65
大正八年一月一日、「九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り、一片のクロワサンを食し、昨夜読残の疑雨集を読む」。『疑雨集』は明末の詩人、王次回の詩集。それを床のなかで「シヨコラ」を飲み、「クロワサン」を食べながら読む。フランス時代に知った彼らの朝の習慣に倣っている。ハイカラである。
115
神楽坂の田原屋は、震災で焼けなかった神楽坂のなかでも有名な高級洋食店。
荷風は一人で「白ブドウ酒」を傾けながら「分厚いビフテキ」を食べていた。食べ終ると、テーブルに五十銭銀貨をボーイのチップとして残し、立去った。ダンディだ。
122
『日乗』昭和十一年一月三十日。
つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし。
此他臨時のもの挙ぐるに遑あらず
128
本田和子『女学生の系譜 彩色される明治』(青土社、一九九〇年)によれば、この女性言葉は「よくってよ」「だわ」から取って「テヨダワことば」と呼ばれ、明治の女学生が流行らせて、やがてそれが広く使われるようになったという。
131
女優について注を付けると、日本では、江戸時代に女性が舞台に立つことが禁じられていたので、女優は存在しなかった。
明治になって、ようやく女が舞台に立てるようになった。
144
昭和二年に、荷風が銀座のカフェ、タイガーの女給お久(古田ひさ)と関係し、ために多額の金を要求されたトラブルを思い出させる。
146
広津和郎『女給』
銀座のカフェの女給を主人公にした小説
185
野口孝一『銀座カフェー興亡史』
文学作品のなかに登場した、カフェで働く女性の早い例に、谷崎潤一郎『痴人の愛』(大正十三年ー十四年)ナオミこと、河合奈緒美がいる。
189
昭和四年に中央公論社から出版された今和次郎編『新版大東京案内』によれば、当時、東京にはカフェは六千百八十七軒、女給は一万三千八百四十九人いたという。東京市の人口が二百三十万人ほどの時代である。
192
単身者は、荷風がそうだったように家庭の外で食事をする機会が増える。現代の日本で外食産業が隆盛なのは、全世帯の三分の一が単身者になっていることと無縁ではない。
単身者は家の外で遊ぶ機会が多いから、劇場や映画館など遊興の場が増える。都市とは、家庭の機能が次々に外化されてゆく場である。都市と家庭は反比例する。日本の都市に喫茶店が多いのも、喫茶店が家における居間や書斎、あるいは応接間の役割を果しているからだろう。
都市は単身者が作る。
198
気球は明治時代に軍隊によって偵察用に使われるようになった。それが次第に広告、宣伝に転用されるようになった。
当初は「広告気球」と言っていたが、昭和になって「アドバルーン」と呼ばれるようになった。advertisement (広告)のadとballoon (気球)を付けた和製英語である。
199
朝日新聞社の建物は、震災後の昭和二年に建てられた。窓から見える泰明小学校は昭和四年に建てられた、いわゆる震災復興小学校。数寄屋橋も同年に新しく架け替えられた。
201
荷風は随筆『日和下駄』のなかで、「私は四谷見附を出てから迂曲した外濠の堤の、丁度その曲角になっている本村町の坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中でのもっとも美しい景色のなかなか数えている」と、本村町の坂上から神楽坂、小石川方面を眺める風景を絶讃している。
202
野口富士男は回想記『私のなかの東京』で、戦前、飯田橋から外濠に沿って市ヶ谷、四谷を走り、四谷から芝のほうへ出る外濠線という市電があったことを記している。
「つゆのあとさき」でも荷風は、この市電に触れている。「本村町の電車停車場はいつか通過ぎて、高力松が枝を伸している阪の下まで来た。市ヶ谷駅の停車場と八幡前の交番との灯が見える」。
207
カフェの女給が女優になる。他方では、映画女優がカフェを開く。
野口孝一『銀座カフェー興亡史』
219
これは渋谷でのことだが、大正十四年、東京生まれの評論家、森本哲郎は回想記『ぼくの東京夢華録』(新潮社、一九九五年)のなかで、小学生の頃、母親に連れられて、東横百貨店に行った時の楽しい思い出を書いている。まず屋上に行く。「その屋上から、色とりどりのアドバルーンが空に揺れているのを見たときの気分は、まさしく夢見心地だった」。屋上にはブランコやジャングルジムがあり、ちょっとした遊園地になっている。
222
あんみつは昭和のはじめに生まれたのだから。銀座の甘味処「若松」(創業明治二十七年、ニ〇ニ三年十二月三十日をもって閉店)の二代目主人、森半次郎が考え出した。
257
「朝日新聞」によれば、佐分利氏は中国から帰国中で、箱根の富士山ホテルに前夜投宿、翌朝(二十九日朝)、ベッドの上にてピストルで頭部を撃ち、こと切れていたのをホテルの従業員が発見した。
334
「マネキン」は現在でいうファッション・モデル。フランス語のモデルを意味する「マヌカン」に由来するが、「マヌカン」では、「客を招かない」になってしまうので、「招き猫」にかけて「マネキン」と造語された。
341
一九二六年に発表されたアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』には、イギリスの小さな村で、医者の仲間が集まって麻雀を楽しむ場面がある。
429
「彼氏」は昭和初期に徳川夢声が「彼女」に対して使ったのが最初という。
481
地下鉄の浅草駅には、とんがり帽子のような塔が名物となった地下鉄ビルが昭和四年に完成。
設計は南海鉄道のビルなどを作り「ターミナル建築の権威」といわれた久野節。鉄道の駅とデパートが一体化するターミナルビルは大阪の阪急ビルが最初だが、東武はこれを参考にした。発着駅を二階にしたのが特色で、ビルを出た電車は大きくカーヴをしながらそのままの高さで隅田川を渡る。この鉄橋は川の景観を眺められるようにトラスを車両の窓より低くしてある。
508
当日のプログラムで永井路子さんは明かしている。この歴史小説家は、実は、美貌のオペラ歌手、永井智子の実の娘だったのである(父親は、永井智子の最初の夫、来島清徳)。
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荷風先生の日記本体に加え、同時代の他の文人その他の記録をほりかえしてどういう時代だったかを見る、っていうやつで、川本先生の荷風研究の到達点ですな。
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【本学OPACへのリンク☟】
https://opac123.tsuda.ac.jp/opac/volume/734613 -
東2法経図・6F開架:910.268A/Ka15k/1/K
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