「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106102486

作品紹介・あらすじ

「私」とは何か?「世界」とは何か?人生の終末期を迎え、痴呆状態にある老人たちを通して見えてくる、正常と異常のあいだ。そこに介在する文化と倫理の根源的差異をとらえ、人間がどのように現実を仮構しているのかを、医学・哲学の両義からあざやかに解き明かす。「つながり」から「自立」へ-、生物として生存戦略の一大転換期におかれた現代日本人の危うさを浮き彫りにする画期的論考。

感想・レビュー・書評

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  • この本に救われた。

    大好きな祖父がボケ始めたのは、私のせいだ。
    14年前、私のつくったストレス状態が、脳梗塞を招いたのだ。
    退院した祖父は痴呆症状を徐々に悪化させていった。
    しばらく伯母の家にいたのだが、
    手に負えなくなり、施設に入ることになった。
    会いに行くと、祖父が帰りたいと言って涙を流すので、
    母は祖父に会いたがらない。
    私が実家に帰っても、
    祖父に会う時間は数日間のうち1時間もなかった。
    最期の10年間、一緒にいた時間は半日もない。
    そのほとんどが、祖父が死んだ病院に入院してからの時間だ。

    祖父は、私のことを覚えていなかった。
    他人というより、祖父の姿をした宇宙人のような気がした。
    私のことを思い出して欲しいなんて
    贅沢なことは思わなかったけど、
    一度でいいから通じ合いたいと思っていた。


    祖父が亡くなってから、この本を知った。
    いわゆる痴呆老人は、なぜ徘徊するのか。
    なぜおかしなことを言うのか。
    なぜ妄想にとりつかれているのか。
    たくさんの「なぜ」が丁寧に紐解かれていった。
    これまで読んだ本にはない新しい視点だった。


    祖父は宇宙人ではなく、
    最後まで祖父だったんだとわかった時、
    心がスッと楽になった。

    たくさん謝りたいことはあるけど、
    祖父なら許してくれるはずだ。
    祖父は私のことが好きだったのだし、
    最後まで祖父は祖父だったのだから。

  • 親が認知症、こどもが不登校、配偶者が精神障害などなど、そんな彼らに振り回されてイライラする自分と、一方で優しく大切にしたいと思う自分。静かに爆発しそうな心を抱えている方、その置き所を模索しているような方に読んで欲しい。

  • ただの認知症解説の本ではありません。痴呆を入口として自己のあり方、日本文化へと広がっていきますので読み手は後半考えさせられますね。第5章あたりから。終末期医療で無力感を感じるときに。噂には聞いてたけどこの著者はスゴイ方です。

  • 新書やビジネス書を読むときは、面白いと思った箇所に
    付箋を貼ったりするのだけれど、これほどたくさんの付箋
    を貼った新書はこれまでになかったと思う。気づきを与えて
    くれた点や、思わず唸って納得したりする点が随所にあって、
    得るものが多かった一冊。

    この本の内容をタイトルだけで推測するのは早計。なぜなら、
    扱う範囲は「痴呆老人」にとどまらなくて、「認知能力の低下
    に対する怖れ」という事象をキーワードに、現在の日本と
    日本人が抱えている問題にまで及んでいるのだから。
    アプローチは、医学的見地をベースに、哲学や宗教の考え方
    を絶妙にブレンドしたもの。哲学や宗教の部分は少し難しい
    けれど、このブレンドのおかげで説得力が増しているのは
    間違いない。

    第一章 わたしと認知症
    第二章 「痴呆」と文化差
    第三章 コミュニケーションという方法論
    第四章 環境と認識をめぐって
    第五章 「私」とは何か
    第六章 「私」の人格
    第七章 現代の社会と生存戦略
    最終章 日本人の「私」

    付箋を貼った箇所の中でいちばん印象に残ったのは、第七章
    で「ひきこもり」について触れた部分。

    元々、日本の育児法は伝統的に他者とのつながりを重視
    するものだったけれど、20世紀後半になってこの国は「自立」
    した人間を育てるという方針に舵をきった。そこで何が起きたか
    というと、疑問を解くため、あるいは判断をするための判断
    基準を求める子どもに対して、親や教師は回答を与えずに
    「自分で考えなさい」と返すようになった。まだ自己決定に
    必要な能力を育んでいない子どもはそこで悶々として、
    自己決定をしなければいけない場面から意識的に遠ざかる
    ようになってしまった。これが「ひきこもり」の始まりだ、
    というのが筆者の指摘。
    そして、こんな事態を防ぐには、「判断基準というものが
    どこにあるのかを子どもに教え込む作業が、前もって、
    または同時進行的に行われなければならない」と説く。

    この作業をきちんと行う重い責任が大人たちにはある。

  • 痴呆だけにとどまらず、様々な面で示唆にとんだ内容に新たに購入しなおしました。

  • 「認知症とはこれこれこういう病気です」ということを記載するアプローチではなく、多重人格者や引きこもりなど、うまく社会とつながれない人との対比から記載されていたので、とても興味深く最後まで読み進めることができました。

     認知症を病気と捉えるか否か。家族の中で、老人が尊敬される歴史を持ち、その存在がしっかり根付いていれば、認知症は老化現象の一形態として自然と受け入れられるものなのだなと思いました。現代ではなかなかそこまで出来ないとしても、アメリカのように認知症を自立性が失われた状態として適切なケアが受けられないケースを考えると、日本は温かく丁寧な対応してくれる施設が多くあり、まだ救いがある状態なのかなとも。

     認知症の人が穏やかに過ごすためには快の回路をたくさん残してあげること、最重要だなとやはり感じた(家族仲がうまくいっていない?家族が面会に来たり、自宅に一時帰宅したりした後で、患者が不安定になるという事例を読んで)。ただ、5分おきに同じことを何度も問い返されたり、文句ばかり延々と言われたりという相手に快の回路を作る対応をするのは難しいとも感じる。最後の章に記載されていた「神の自由な世界に一歩近づいた存在」として対峙できればきっと良い対応ができるのだろう。ただ、ゆったりした時間の流れが許される社会でないと厳しいなと思う。

  • 認知症であると診断された肉親などを持つ方々だけでなく、多くの人に読んでもらいたい本だと思いました。老人だけでなくひろく人間というものに必要なものがなにかを教えてくれます。
    この本を読んでいるのといないのとでは、身内に認知症患者やその他引きこもりや統合失調症などの精神疾患患者が出た時のショックの度合いや接し方が絶対に違うと思います。立ち返ればごく基本的なことですが、その一見誰にでもわかるようなことを手に入れられないときに人は心を病んでしまうものなのだろうなと思います。もしも親が認知症だと言われたら、もう一度この本を手にとって読み返してみたいと思いました。

  • 人は必ず老いていく。

  • 福祉の本だと期待して購入したが、哲学の本だった。本書に収められている、痴呆老人を眺め続けた筆者ならではの視座は、高齢化社会を迎えるにあたって確かに見直すべきものの一つであると思う。ただ、いかんせん文章が冗長で読みにくい上、科学の徒が書いたにしては論理の展開が軽率に過ぎる。面白い論考が載っているだけに、その辺が実に惜しい本だと思う。

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著者プロフィール

1935年生まれ。東京大学医学部卒。77年ハーバード大学公衆衛生大学院修了。東京大学名誉教授。医学博士。79年から長野県佐久市の「認知症老人・寝たきり老人」の宅診に関わるようになる。その後国立環境研究所所長を経て、現在は東京都立松沢病院と桜新町アーバンクリニック非常勤医。著書に『人間の往生』『終末期医療』『痴呆の哲学─ぼけるのが怖い人のために』『「痴呆老人」は何を見ているか』『病から詩がうまれる─看取り医がみた幸せと悲哀』『環境世界と自己の系譜』『いのちをもてなす』など多数。

「2014年 『講座スピリチュアル学 第2巻 スピリチュアリティと医療・健康』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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