人は死ぬから生きられる 脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書)

  • 新潮社 (2009年4月15日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (192ページ) / ISBN・EAN: 9784106103070

AIがまとめたこの本の要点

プレミアム

みんなの感想まとめ

深いテーマを探求する本作では、脳科学者と禅僧の対話を通じて、心の本質や生きる意味についての考察が展開されます。特に、「クオリア」という概念を中心に、内面的な体験や感覚の質、そして無常の思想が語られ、科...

感想・レビュー・書評

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  • 私には難しい本だった。そもそも「クオリア」という言葉の意味もよく分からなくて‥。Wikipediaによると、”
    心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のこと”。やっぱり分からない。
    でも科学者と仏教者の対話という観点ではとても面白かったです。

    • reader93さん
      だいさん、解りやすい説明をありがとうございました。 クオリアとは像を描くこと、そして他人と同じではなく、個人的なものなのですね。あらゆるもの...
      だいさん、解りやすい説明をありがとうございました。 クオリアとは像を描くこと、そして他人と同じではなく、個人的なものなのですね。あらゆるものに対しての感じ方、という事なのでしょうか。
      2014/09/20
    • だいさん
      そうです。
      茂木さんはそれを、クオリアと呼んだ。概念とか、本質とか、なんと表現してもいいですが、いま、感じた(感じている)その感覚が「その...
      そうです。
      茂木さんはそれを、クオリアと呼んだ。概念とか、本質とか、なんと表現してもいいですが、いま、感じた(感じている)その感覚が「そのもの」です。
      もやっとしていたら、わかりかけている証拠だと思いますので、他の「なにか」で練習してみると、この感覚が研ぎ澄まされるのではないですか?
      クオリアを、違うと知りつつ、分かり合うことが、禅問答にもつながってきませんか?
      2014/09/20
    • reader93さん
      だいさん、なるほど、瞬間瞬間に感じている「感覚」なのですね。今まで深く考えたこともありませんでした。それに、自分の持つ感覚が「普通」の、また...
      だいさん、なるほど、瞬間瞬間に感じている「感覚」なのですね。今まで深く考えたこともありませんでした。それに、自分の持つ感覚が「普通」の、また「当然」の感覚だろうと無意識に思っていたかもしれません。個々で違うものだというのを意識してみると、いろいろな物の見方が変わりそうですね。
      ありがとうございました。
      2014/09/21
  • 死や絶望があるからこそ、生きられるという感覚や今の自分があるという感覚。

    なるほどと思わせられることばかり。
    とてもおもしろかった。

    私は自由というのは「航海する人」だと思う。「航海する人」は目的地を自分で決め、 そこから逆算して航路が生じる。そして自分が今どこにいるか、現在地を知っている。 「目的地·航路・現在地」、この三つを知っている人が、自分の力で海を渡って行ける人です。ところが、この三つのどれかを欠くと漂流してしまう。目的地がわからない、航路を知らない、現在地がわからないという状態。この人は自由でも何でもない。何もできないし、どこへも行けない。それを避けるには、目的地を決めて航路を選択せざるを得ない。つまり自己のあり方を決めなければいけない。けれど、これは苦しい。

    その負荷から自由になりたいというのは、よくわかる。仏教でよく誤解されるのは、「あれもない。これもない。ないものもない」と全部解体して「はい、ゴール」と。 そう思う人がいっぱいいる。けれどそうじゃない。一回ばらして、もう一回自力で作り上げるっていうのが、仏教の修行なんです。ここがよく誤解されるところです。だから苦しいんです。だから修行なんです。ところが中には、それが悟りで真実だという人がいる。その先どうするのかは何も示されない。

    生の最初から思い通りにはなっていない。思い通りにならないから辛いんです。ですが、人類はすべて最初から思い通りに生まれた人はいない、ということをもっと自覚するべきでしょうね。
    苦痛が取り除かれていく現代社会について批判的に論じていますが、苦というものが除外されていくことの危険が今日リアルにわかりましたね。苦は生きることの本質と結びついているから、それを取り除いたら結局生きていないことになる。

    僕も相当病んでるのかもしれない(笑)。でも、生きていること自体が病んでいる状態ということには、激しく同意します。やっぱり生は、まがまがしいものだと思う。 南 よく恐山で、霊魂があるかないかなんて話は仏教にとっては根本的な問題でも何でもないという話をします。じゃあ、何が仏教として一番大切なのか――。

    おそらくお釈迦さんは、生きていて嬉しくて楽しくて結構なことより、辛くて悲しくて切ないことの方が多いというのが、仏教において物を考える前提であると言いたかったんじゃないかなと思うんです。もちろん、毎日が楽しい人はそれで結構。だけど仏教は、辛くて寂しくて苦しいことの方が多いという前提で話を始めるんだと言っている。 でもね、にもかかわらず死を選ぶことなく、寿命があるまでは必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持って生き切るにはどうするのかというのが、我々、仏教者のメインテーマだと思う。

    仏教は安心立命を説くわけではない

    希望というものは持つものではなく、絶望の中でひらめくものではありませんか。

    持てる希望なんて所詮、一時的な質入れにしかならない。本当の希望というのは、絶望させることができる力のこと。その意味で、親鸞の「自然法爾」と、キリストの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」は、ほとんど一緒だと思う。

    クオリアのことを考えていたときに思ったのですが、例えば、明るさというのは相対的なもので、部屋の照明が明るく見えるのは周囲が暗いからで、昼間だったらそこまで明るさを感じませんよね。希望の光とか言うけど、周りが暗いから明るく見えるわけで、そういう意味では、底知れぬ暗闇つまり絶望を知っている人じゃないと希望の光りは見えない。

    最初から希望と絶望が区別されているわけではなくて、親鸞は選択の余地なく絶望する。そこには戦略も何もない。そして、それがどんどん深くなっていくわけです。 でも生きているから絶望できるのであって、絶望の底で何かをひらめく。これを仮に希望と呼ぶことができるのではないですか。

    「蓮を咲かせる泥になりたい」

    南 先ほども言ったけど、中学生で「諸行無常」という言葉に出会ったとき、「あ、 助かった」と思ったんです。助けてほしいと思っていたわけじゃないけど、これを言った人と俺は似たような人間かもしれないと、嬉しかったというか本当に助かった。まさに思ってもいなかった光だったんです。今にして思えば青臭いけど、その当時はとても切実な、生きるか死ぬかの問題でしたからね。しかし人は余儀なく絶望したとき、その絶望に耐え切ったときに何かと運命的に出会うことがある


  • 生の最初から思い通りにはなっていない。思い通りにならないから辛いんです。ですが、人類は全て最初から思い通りに生まれた人はいない、と言うことをもっと自覚すべきでしょうね
    人間が考え方を変えるには、生き方を変えるしかない。人間は、頭で自分の考えを切り替える事は、ほぼできないんですね。生活を変えない限り絶対にダメだと思います。根本的には変わらない

  • プロフェッショナルの二人だから成り立つ対談なのでしょう。半分くらいで読むのにだれてやめた。

  • 近づきたいけど近づけない世界観

  • 09/4刊 新潮社 新刊案内

  • 脳科学者の茂木健一郎と、禅僧の南直哉が、3回にわたっておこなった対談を収録しています。

    南の語る内容は、彼のこれまでの著作と同様、彼自身の解する仏教の立場からまっすぐに届けられてきますが、これにたいする茂木の発言は、脳科学者の立場からなされているものとはいいがたいように感じます。ある意味では、南のことばをうまく引き出す役割を果たしているといえるかと思うのですが、「脳科学者と禅僧の問答」というサブタイトルを裏切ってしまっています。

    あるいは、もはや科学者ではない、一人の人間としての茂木の姿を見ることができるところにおもしろさを感じる読者もいるかもしれません。

  • 茂木さんは,もう脳科学者の看板を下ろして,ちゃんとフリーライターとして自由にすればいいと思う.面白いけど,胡散臭く感じる.フリーライターがその人となりで南さんの思いをうまく引き出している.面白かった.

  • 「無記」という言葉に出会えただけでも、自分にとっては価値があった。この境地というか「悟り」ははるか彼方の感覚なんであろうけれど、問い続けていった先に、これ以上先は問わないとできる気持ちの持ちようって何なんだろう。この本を入口に、仏教について学びたいと純粋に思った。常に目の届く範囲においておこうと思う。

  •  「人はなぜ生きるのか」人間の永遠のテーマである。古来、哲学者や宗教家、教育者、科学者たちはこの問いに対して、答えを求めてきた。本書は、脳科学者の茂木健一郎と、禅僧の南直哉の問答が繰り広げられている。
     面白いのは、そのテーマに対し、「答え」より「問い」が重要であると言うことである。すなわち、そんな答えは考えても存在しない。ブッタでいう「無記」である。言っても意味がない。仏教では、生きていることは病であり、苦である。だから信じればすくわれるだぐいではない。死というものに向き合い、安心のない生を生きていくだけである。
     脳科学も進歩し、脳の構造や組織の役割が分かってきたが、それだけでも、なぜ生きるのかという答えに迫ることができない。主体者が意識し、認識をすることで生に関することに迫れるが、死が起こってからではその主体性がないため、そこに科学の限界が生じる。なので、科学的にも確かな答えを出すことはできない。
     生きることに答えはない。生きていれば病気もするし、不幸なことも起こるし、哀しいことにも直面するが、時に嬉しいこともある。決して安心、安全なものはなく、永遠に続くものはなく、あらゆるものは時代とともに流れていく。今はすでに過去なのである。そういうことを理解して、生まれたからには、「生きる」ということを引き受けて、問いも持って、ただ毎日を過ごしていくことが大切であるという。

  • 茂木健一郎と南直哉の3回に渡る対談を書き記した形式で、脳とは?死とは?とクオリアやお互いの哲学を元に語り合っている。
    なぁなぁとした対談ではなく攻撃的でなかなかどうして笑ってしまった。

    南という方を初めて知った本。
    禅僧についてのイメージが間違ってたのかもしれないが
    宗教家ぽくないという感想を持った。救世の気持ちはあるのだろうか。
    二人ともとても個人的な、根源的な欲求から脳について本気で考えてるんだと思う。但しだからこそ、今後の展開で民衆(私)は救われる手筈が見つかるかもしれない。

  • 人生は一言でいうと「苦」だということ
    楽も苦のうち

  • む…難しい…

  • 攻めの姿勢の対談本だった。
    南さんが苦、ととらえるものを、茂木さんが快楽ととらえているところが面白い。そのように違った捉え方をしているかと思えば、方法論は同じだったり、またその逆があったり。
    二人ともが、真っ直ぐに自分の考えを開示し、真っ直ぐに相手へ質問をしているからこそ、内容の濃く、深い対談になっているのだと思う。
    ニーチェの星の友情とはまさにこの二人の間にあるもののことであろうと思えた。
    じっくり咀嚼しながら何度も読みたい本。

  • 茂木健一郎をこれ程までに捉えた対談者はいなかったであろうと思える南直哉。恐るべし。とてもスリリングだった。

  • 脳科学者と禅僧の対談を中心とした構成となっている。

    脳科学者の考えていることが、原始仏教の考え方に近いところを見ると、結局考えることを突き詰めると同じところを示すということか。

    個人的には恐山の話が面白かった。

  • P.76、5行目からのくだりに「なるほど!」と感銘を受けた
    自分が普段考えている事をうまく言葉で表現できないでいたが
    まさに私が考えていた事とはこういうことだ。

     私はまだ生きてはいるが、私の過去は、すでに死者たちと同じ場所にある。
     (中略)ただ、私の大脳皮質側頭葉に残るか細い記憶が「その時」と今を
     結びつけるだけである。

    スッキリした。茂木さん、ありがとう。

  • 『人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答』を読みました。脳科学者として有名な茂木健一郎さんと、禅僧としても文筆家としても著名な南直哉さんとの対談集です。

    私、結構対談集を読むのが好きなんですよ。
    違う分野に携わる第一人者同士が会話をしたらどうなるのか、気になります。なんというか、その会話から新たに生まれるものだとか、一見相反して見えるものに共通している何かだとか、たぶん、そういうものに興味があるんですよね。
    脳科学と禅がコラボするなんて、なかなか面白そうじゃないですか。そこから何が見えてくるのか、どんな言葉が導き出されるのか、興味深いです。

    二人の対談を読んでいるうちに、茂木さんって一体何がしたいんだろう…という常日頃テレビで拝見したり本を読んだりして感じていた疑問が、茂木さんって一体何者なんだろう…という存在そのものに対する疑問にまで深まってしまったような気がします。
    何というか、計り知れないお人ですね。
    クオリアから偶有性に至る考えを論理的に展開してきたかのように見えながら、実は偶然に任せてそのときそのときの出会いからパッとある考えをひらめく感覚の鋭さみたいなものを持っているようです。
    南さんが茂木さんに対してしきりに出家を勧めているのも面白かったです。

  • 結局、よく分からなかったです。しかし、分かりようがないと言えばないのです。なんで生きているとか、なんのために生きいるとか誰も知らないのたがら。

  • [ 内容 ]
    我々はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか-。
    人類誕生以来、問われ続けてきたアポリア(難問題)に、脳科学者と禅僧が挑む。
    死はすべての者に平等に訪れる。
    けれど誰もが望んでこの世に生れてくることはできない。
    つまり、「私」に根拠はないのだ。
    だからこその苦、だからこその人生。
    それでも、その苦しみを引き受け、より良く生きるための方法はある。
    無常の闇に射す一筋の光明を探すため、存在を賭けた脳と仏教の真剣勝負。

    [ 目次 ]
    星の友情(茂木健一郎)
    1 無記の智慧(坐禅とクオリア 説明不足の仏教 悟りが最終目的ではない ほか)
    2 脳の快楽、仏教の苦(裸になれる場所 恐山の日常 「信じる」とは何か ほか)
    3 人生は「無常」である(クオリア、仮想、偶有性 「疑団」の破裂 偶有性の反意語 ほか)
    悦楽する知(南直哉)

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著者プロフィール

脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘教授。「クオリア」をキーワードに、脳と心の関係を探究しつづけている。1962年、東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。理学博士。
著書『脳と仮想』(新潮社、第4回小林秀雄賞受賞)『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房、第12回桑原武夫学芸賞受賞)『脳とクオリア』(日経サイエンス社)『脳内現象』(NHK出版)『感動する脳』(PHP研究所)『ひらめき脳』(新潮社)ほか多数。

「2013年 『おぎ・もぎ対談 「個」育て論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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