法然親鸞一遍 (新潮新書 439)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106104398

作品紹介・あらすじ

"悟り"ではなく、"救い"の道を-。仏教のベクトルに大転換をもたらし、多くの支持を得た日本浄土仏教は、いかにして生まれたのか。念仏を選択し、凡人が救われる道を切り拓いた法然。「その念仏は本物か」と問い続け、「悪人」のための仏道を説いた親鸞。「捨てる・任せる」を徹底し、遊行の境地に達した一遍。浄土宗・真宗・時宗の三祖を比較し、それぞれの「信心」に迫る。法然と親鸞が一遍でわかる、究極の一冊。

感想・レビュー・書評

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  • 鎌倉時代。それまでの「悟り型仏教」に対して、「救われ型仏教」である浄土仏教を日本において根付かせ、主流にまで発展させた浄土宗の祖・法然、浄土真宗の祖・親鸞、時宗の祖・一遍の三人の思想を比較検討しながら、その特色を知る内容になっています。

    悟り型仏教は、俗世間を離れて修行をし、自分の力で悟りを得て救われようとする仏教です。いわゆる「自力」の考え方です。一方、救われ型仏教は、たとえば法然の言うところであれば、南無阿弥陀仏と唱えることで阿弥陀様が救ってくださる、という「他力」の考え方です。「他力」には修行はいらないのです。阿弥陀様を思って、生涯にわたって念仏を唱えて救いを求める気がありさえすれば(これを「多念」といいます。「一念」という考え方もあり、こちらは一度念仏を唱えればどんな悪事を働いても救われるとしたので倫理的に乱れてしまい、法然は戒めの言葉を残しています)、阿弥陀様の力で極楽浄土へいけるという考え方なのでした。

    ちょっと脱線しますが、この「他力」の考え方や姿勢がいまや、日本人の「日本人らしさ」を形作っている根っこのところにまで及んでいるとは考えられないでしょうか。最後は神様がなんとかしてくれる、仏様がなんとかしてくれる、誰かがなんとかしてくれる、というような心性としてです。なんだかありそうに思えるのですが。

    さて。まずは法然という人が大人物なのでした。著者も法然を、巨人、と呼んでいるくらいです。それまでの仏教は同一性の強いものでした。なんでもいっしょくたです。あれもこれも実は一緒なんだ、というように。「色即是空」もそうです。法然は仏教に二項対立を持ち込みます。正邪、善悪、というような、つまり二元論です。そうすることで、教えをシンプルにしました。二項対立に分類していくことで、突き詰めていったのです。突き詰めていって、最後には、南無阿弥陀仏だけとなえればよい、出家などしなくともよい、といったところにたどり着きます。それがなにを意味するかといえば、世俗の人たちを救うことができるようになったのでした。要するに、出家して修行するなどという人生に余裕のあるような人ではない世俗の弱者の人たちこそ救われなければならない、と法然は考えたのでしょう。そのために、仏教を二項対立の論理で切り拓いたのです。仏教が、ほんとうの意味で民衆に開かれた瞬間だったといえそうです。

    続いて親鸞。親鸞は法然の弟子で、法然の教えをさらに哲学的に考えていった人です。そこには永遠に吹っ切れない迷い、自分への疑いがあります。非僧非俗なんていう宙ぶらりんな立ち位置に自分を置きずっと悩み続けますが、それはどうやら彼がとても誠実に仏教に挑んだためなのでした。そこには、無宗教的な現代での内省の仕方に通じるものがあるような、先鋭さがある気がしました。認知的不協和に苦しみながら、法然の思想をより専門的に深めていったのが親鸞です。

    最後に一遍です。現代において時宗は少数派です。しかし、法然、親鸞、と続いて、一遍が浄土仏教を完成させたという学者もいるそうです。反対に、浄土仏教を堕落させたと考える学者もいるそうですが、著者はどちらかというと前者の考え方で、さらには、法然、親鸞、一遍を同一線上で語ること自体が違うのではないか、との立場で考察を進めていくのでした。念仏を唱えながら踊りを踊る「踊念仏(日本の芸能の端緒ともいわれます)」が有名な一遍は、法然がそれ以前の同一的世界観の仏教に二元論を持ち込んで広めた浄土仏教を、同一的世界観に回帰させつつも浄土仏教自体は維持します。アクロバティックなのです。また、聖俗の逆転をしたという特徴もあります。聖俗の逆転とは、出家者こそ一番ランクが低く、世俗の身でいながら往生するのがもっともランクの高い者だとしたことです。これは、従来の考え方とは逆なのでした。

    そういった三人を一人ずつ見ていき、最後に比較するのですが、読んでいてなかなか難しい論理展開のところもあります。なぜならば、仏教の昔の著作からの引用があるのですが、その論理展開が難しいからです。昔の人も難しいことを考えていたものだなあ、と感慨深さもありながら、読解となると著者に頼るほかないところがありました。

    というところですが、特に注意を引かれたところを以下に引用します。

    _____

    河合隼雄は『中空構造日本の深層』の中で、一神教を基盤とした西欧の中心統合構造では相容れない要素を周辺に追いやるので正と邪や善と悪が明確化されていくのに対して、中心を形成しない構造は対立するものを共存させ適当なバランスをとりつつ配置される、と論じています。(p65)
    _____

    西欧型の中軸構造は、それに沿わないものを周縁に追いやる、排除する性質で、一方の日本の中空構造は、それこそすり合わせをしていく構造になっているんです。ここで推察するように考えが及んだのは、日本の自動車産業のすり合わせ技術についてでした。日本のすり合わせ技術は世界に誇るピカイチさだとテレビだったか本だったかで知っていますが、そういった日本の技術力の元にあるすり合わせのメンタリティはこの中空構造からの影響なのかもしれない、と思えたのです。これも、先ほどの「他力」の話と同じく、日本人の心性としての部分について思い当たったことです。

    そんなわけで、久しぶりに仏教の本を読みました。またそのうちに、今度は悟り型仏教のほうに触れてみたいです。仏教は魂の科学だとして、科学者が仏教者にいろいろ尋ねていたこともあるとかないとか。科学と符合するものがそこにあったとして、それって古人の内省力の比類なき強靭さを証明するものだったりすると思うんです。すごいものですよね、人間って。

  • 日本の浄土教の思想的な特徴を概説する。特に法然の革新性を強調している。日本の仏教が概ね、明確な座標軸をもたずバランスを重視する「中空構造」であるのに対して、法然は最も重要な要素を選択し絞り込む「中軸構造」の仏教をはじめたとする。その思想を受け継いだ親鸞は、「ダメな自分」の自覚をもとに、無量寿教などの教典において、回向する、願うなどの主語をことごとく「私」から「阿弥陀仏」に読み替えることで、法然の思想を実存的に深めていったとする。そして同じく法然の思想を受け継いだ一遍は、念仏に土着のカミや密教、禅などあらゆる要素を飲み込ませ、すべてを吸収すると共にすべてを捨てる、「中空構造」的な念仏宗をつくりあげたとする。

  • 比較という手法で、より各人の思考や社会的影響に肉薄した本。学術的なのに分かりやすい画期的な本。
    筆者は個人的には親鸞に一番共感しているように思われるが、描き方が極めて各人に対して公平で公正である。

  • まず、いろんな情報が盛り込まれ、うまくまとめられていて、勉強になると思います。仏教は、惑業苦を戒定慧へ転換する(37)とか。教学としては、親鸞による経典の独創的な読み替えの問題とか。そのう上でのことですが・・・・。

    福井文雅のいう比較思想の方法として、①比較対象の歴史的関係があるものと②ないものという区別を日本の学者は意識しないということをいう。しかし、そういながらも、それらを併用している著者は、はたしてきちんと区別できているのかどうか。それは、あまりうまくいっていないように思う。所詮、方法的に正確性など期待されない新書である。変に学問的に基礎づけようとすると、逆にあらがでる。そのいい例である。

    また類型概念をいたずらに増やしていくのもいただけない。序盤で、悟り型(仏教)、救い型(キリスト教)、つながり型(神道)の三概念を出したかと思うと、ただちユング研究の河合隼雄の中軸/中空の類別を引用(66)したりと。後者は法然の箇所で出てくる。

    方法のブレないし併用は議論を複雑にする。よほど神経を使ってやらないと混乱することになる。結局は最後のところで中軸/中空を出すのだから、方法は河合のもの1つに見定めて、それを序文できっちり書くようにすべきである。

    教行信証の略称がダメな理由がいまいち説得的ではない(80)。信を強調したのは後の覚如だとか、親鸞は行=信と考えたとかいっているけど。

    突然、親鸞とキルケゴールの比較とか始めなくていいよ(162)。

    メモ
    戒-定-慧
    教-行-証
    至心に廻向したまへり

  • NHK 100de名著で放送された歎異書が面白くて、釈撤宗の本を探して読みました。
    歎異書は親鸞のみでしたが、本書で、法然と一遍についても学べて、また違う観点でも勉強になりました。特に、一遍の全てを捨てて、自由な感じが、悟ってるな〜、という感じでした。めっちゃ素人感想です。
    個人的には、この三者の中で、親鸞が一番共感できる面白い。いつまで経っても悟れない自分がいることを認識した上で、それでも救われる、それだからこそ救われる、と悟ったようで、でもそんな悟った自分は怠慢で悟ってなどいなく、みたいに永遠続くのが、なんとも哲学者らしい。

    内容はもっと仏教の解釈やら宗教比較をして、しっかりした考察も述べられているのですが、正直あんまり頭に入ってないです。
    何回か読まないとわからないですね。

    カラスの子の歌に日本の美学が詰まっている、という考察は素敵でした。
    無条件に帰る場所がある、おかえりなさい。
    これが日本の仏教に通じるところがある。
    仏教って素敵ですね〜

    南無阿弥陀

  • 少しだけ、わかるようになたかも・・・?
    まだまだだけどねぇ。

  • 私にはまだまだ理解できないので評価は今後。
    親鸞は、けっこう面白い人かも。

  • 勉強になった!

  • 法然・親鸞・一遍を比較しつつ、三者の特徴を浮かび上がらせている。
    宗教論における比較の使い方などもわかったのは思わぬ効果。

    三者のなかでは親鸞に重点が置かれている。
    とはいえ、法然・一遍の部分が薄く放っていない。
    それぞれの信仰上における解釈を著作を引用しつつ解説しているので、わかりやすい。特に、あまりスポットが当たらない一遍の主張の部分を知れることができたのがよかった。

  • 2012/06/29-17:25 やはり宗教は難しい

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著者プロフィール

1961年大阪生まれ。僧侶。専門は宗教学。相愛大学学長。論文「不干斎ハビアン論」で涙骨賞優秀賞(第5回)、『落語に花咲く仏教』で河合隼雄学芸賞(第5回)、また仏教伝道文化賞・沼田奨励賞(第51回)を受賞している。著書に『お世話され上手』(ミシマ社)、『不干斎ハビアン』『法然親鸞一遍』『歎異抄 救いのことば』など。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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