恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

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  • 新潮社
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レビュー : 48
  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106104640

作品紹介・あらすじ

死者は実在する。懐かしいあの人、別れも言えず旅立った友、かけがえのない父や母-。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこにいる。日本一有名な霊場は、生者が死者を想うという、人類普遍の感情によって支えられてきた。イタコの前で身も世もなく泣き崩れる母、息子の死の理由を問い続ける父…。恐山は、死者への想いを預かり、魂のゆくえを決める場所なのだ。無常を生きる人々へ、「恐山の禅僧」が弔いの意義を問う。

感想・レビュー・書評

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  • 何の理由も意味もなく、無力なままでただボロッと生まれてくる。
    このボロッとという表現がよかった。
    ああ、そーだよなーって。
    なんかしっくりきた。
    んでもって、その無意味で無力な存在を
    ただそれでもいい、それだけでいい、と受け止めてくれる手、
    それが必要なんだ、ということ。
    たしかに、「あなたが、ただそこにいるだけでいい」
    そう言ってくれる人がいてくれれば、本当にそれだけでいいと思えた。
    もし、私が子供を産んで、育てることになるとしたら、
    そのメッセージだけは伝えられたらいいと思う。
    まあ、そう思えれば、だが。
    でも絶対的な自己肯定ってゆーのは確かにそのへんから生まれてくる気もする。
    理由とか意味とか、取引とか全く関係なく、ただ存在するだけで
    認めてくれるとゆーこと。
    魂は、そうやって、認め、認められ、自分の中で育っていくもの。
    うーん、このへんはちょっとふに落ちるような、おちないような。
    だったら、関係性をもたない人間には魂はないってこと、なのだろうか?
    人間性が浅いってこと?
    私関係性めっちゃ薄いんだけど、そーすると魂も薄いのかなあっとちょっと不安。いやいや、でも自分の中での熟成ってのもあるはず、うんうん。
    あーでも、なんかちょっと分かるような気も・・・。
    まあ、結局分かんないもんなんだから、分からなくていいんだよな、うん。

    死は確かにいつも側にある気がする。
    でも現実味はなくて。それがくれば全部終わってくれると思うと、
    怖いのと同時に憧れもある。
    ちょーめんどくさがり屋な私としては、
    生きてることだってめんどくさいとゆーか。
    好きなこともたくさんあるし、楽しいこともあるけど、それだけじゃないし、
    思い通りにならないこと、辛いこと、なんとなしのこころともなさもある。
    偶々今、この時に生まれ、生きてるけど、そうじゃなくても別によかったわけで。ぐるぐる考えるとどっちかってゆーと生より死によっていく。
    それはきっと楽したいだけなんだけど。
    ただ、死が本当に終りなのか、とゆー問題もある。
    そこで全てが終わって、後、何もないのなら、それでいいんだけど、
    そうじゃない可能性だってやっぱあるわけで。
    そうすると、生きることも死ぬこともそう大差ない気もしてきて・・・・。
    お釈迦様は正しい。
    考えても考えても答えの出ないことは、きっと考えるだけムダなのだ。
    それよりはどうせならもっと楽に生きる方法を。
    そーゆー手段として仏教を利用する、というのは確かにいい方法かも。


    存在する死者、は私にはまだいない。
    その死者と、死は違うというのは確かにそうだと思う。
    ただその死者はあくまで生き残っているものにとっての存在だ。
    だが、南さんの話をきくと、そのリアリティたるや、ぼんやり生きているものより圧倒的に強い。
    存在の欠落。
    ただいるだけでいいという存在を失った時、恐山がその意味をもつ。

  • 著者の講演は良かったが、本だと伝わって来ない。

  • 至極真っ当なことが書いてある本。逆に言えば、今の仏教界ってまともではないとも言える。正面から死を考える筆者は素晴らしいが、いささか今の自分には重い。

    軽やかに生きたいがそれができるのは幸せだからか。

  • 「「先生の御著書はすべて拝読しています」と言うから、まともじゃないと思いましたね」wwwかなりアウトサイダーというか、先鋭的なお坊様のようですね。脱サラし曹洞宗総本山永平寺で20年修行し恐山の院代をされている、というのもなかなかドラマチックです。お話は厳しく理性的。ちょっと読みにくい。表記のぶれくらいは揃えようよ編集仕事しろ。

  • 南直哉(みなみじきさい、1958年~)は、早稲田大学第一文学部卒業後、サラリーマンを経て、1984年に出家得度した曹洞宗の禅僧。曹洞宗大本山永平寺で約20年の修行生活を送り、2005年より恐山菩提寺院代(住職代理)。
    著者は、自分が抱えてきた問題である「死」について解決するすべを見つけるために仏道を志したと言うが、仏教の教えをあくまでも道具と捉えるスタンスは、僧侶としては異質で、周りから、「お坊さんらしくない」、「信仰がない」、「斯界のアウトサイダー」と言われると明かしている。
    その著者が本書では、「死」と「死者」について、また、その文脈の中で恐山のもつ意味について語っているが、自らが「一本の理屈の筋がきれいに通ったものではない・・・あえて言えば、「思ったこと」である」と書いているように、正直なところ、一度通読しただけで十分に消化できたという感覚は持てなかった。
    その中で、印象に強く残った、著者の「思ったこと」は以下のようなものである。
    「人間は、「あなたが何もできなくても、何も価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい」と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできません。・・・赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれるとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです」
    「霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には、「自分はどこから来てどこに行くのかわからない」という抜きがたい不安があるわけです。この不安こそがまさに、人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのです」
    「故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです。一番の供養は「死者を想い出すこと」なのです」
    「死者に会いに行ける場所であると同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作ることができる場所でもある。それゆえに人はひきつけられる。恐山とは、そのような場所なのです」
    そして、2011年3月の東日本大震災の後に書かれたあとがきで、著者は、大震災以後の社会はこれまでの延長線上にはないとし、「霊場恐山は、いかにそこにありえるだろうか。私にいま、結論はない」と述べているが、「死」と「死者」について考えることに終わりはなく、自らそれを深めていかねばならないという思いを強くするのである。
    (2016年7月了)

  • 恐山の住職代理である僧侶が恐山の本質を説いた本。「死」について考えるうえで、様々な洞察を与えてくれる。
    恐山は、「もう一度会いたい 声が聞きたい」「また会いに来るからね」という生者の死者への想いによって支えられてきた「パワーレス・スポット」だという。死者は実在する。それは、幽霊や死後の世界があるというのではなく、死は生者の側にあり、生者の抱える欠落なのである。

  • 恐山への参拝を前に手にとった一冊。

    死者は存在するという一節は非常に印象的だった。これは幽霊的な話ではなく、残された者に色々な意味合いで死者が存在しているということ、またその思いに何らかの答えの一つを導き出せうる場所が恐山であり、それが1200年続いてきた理由ではないか、という部分に非常に納得がいった。

    実際に恐山の宿坊に宿泊すると南先生の説法を聞くことができたが、非常に面白い話で、近所の生臭坊主も多少は見習ってほしいところ。

  • 著者の南直哉さん、私はつい先月初めてその存在を認知した次第です。YouTubeで仏教関連の動画を漁る中で宮崎哲弥と対談しているのを偶々見ました。面白いセンスの坊さんだなぁという印象があります。
    とはいえ、実はこの本自体にはそれ以前に一度お会いしております。しかも、恐山現地で(笑)

    恐山には一昨年行きました。もっとも、家族と下北半島の旅行ついでに立ち寄った感じなので、両親共々、当初はさっと見て帰るつもりだったんです。
    ただ、私だけ、どうしてもそこに居たくなりました。ここでははっきり書けませんが、実は内緒で一人「死者」を抱えておりまして、売店で風車を購入して恐山に死者を預けて参りました(あぁ、でもこう書くと分かる人にはバレますね……お察し下さい)。この本はその売店で見かけました。タイトルだけちらと見て「今この本読んだらつまんないんだろうな」と思って買いませんでした。
    で、買わないまま順路に従って一通り境内を練り歩いてきました。今考えれば正解だったかもしれません。何の先入観無しにじっくり見て回ることが出来たから。で、見た感想は一言で言えば「テーマパークみたい」。
    恐山ほど「行ってみたらこんなところだった!」感がハンパないところもないかと思います。「聞くと見るとでは大違い」と仰る直哉さんの言に私も大変頷きます。そして、「案外整然としてつまらない」というバックパッカーの感想も確かに頷けるんですよね。ちゃんと順路があって、順路に従って歩くと、まるで「死後の世界体験ツアー」とでも言うかのように、死んでからまた母の胎内に宿って産まれるところまで一巡り出来るような構造になってるんですよ。境内が。それはそれで確かに整然とし過ぎていてつまらないと思いますね。確かに「賽の河原」等々、立て札がこれ見よがしに解説しているようで時に邪魔くさく感じすらします。でも私は巡りながら同時にテーマパークを歩くような妙な楽しさを感じ、知的好奇心そそられる意味での面白さも感じましたけどね。もちろん、弔いの想いも別に抱えつつですよ?……

    そんなことを思い出しながらの読了でした。いやぁー、あの時買わなかったことはやはり若干後悔していただけに、また最近になって古書店でこの本に巡り合った時に、つい買っただけのことはありました。私が読んだ新書の中では一二を争う大変素晴らしい名著でございます。と同時に、一度行った身ということもあり、お陰様で心が軽くなった本の一冊でもあります。

    この本は恐山についての知識を提供するというのもそうですが、どちらかというと「恐山を通して死を考え、死者と向き合う」ほうに力点があります。非常に語りにくいテーマだと思うのですが、それでも語る言葉の節々には、何年も考え抜き悩み抜いた直哉さんの思考と実践の過程がしっかり伺えます。そこに私はとても、読んで良かったと感じるのです。そして、恐山にやってくる人たち、彼ら彼女らの悩み苦しみの話を読む毎に、私は何とも落ち着いてくるんです。悩んでるのは私だけじゃなかったんだなぁ、という安らぎとも言えましょうか。

    もう一度、恐山に行きたくなりました。

  • イタコガ恐山とは直接関係がないなど知らないことが多かった。

  • 1200年続く霊場、恐山。いつか行きたいところ。開山期間は5/1-10/31。結界門、宇曾利湖、四つの外湯、イタコ、無記、7/20-24大祭、地蔵会、地獄谷、賽の河原、極楽浜、魂呼び、あなたがそこにいてくれるだけでうれしい、パワーレススポット、永平寺のダースベイダー、獅子吼林サンガ、恐山には死者が実在する、一番の供養は死者を想い出すこと。

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著者プロフィール

禅僧。福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代(住職代理)。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店勤務を経て1984年に曹洞宗で出家得度。約20年の修行生活ののち、2005年より現職。著書『語る禅僧』(ちくま文庫)、『自分をみつめる禅問答』(角川ソフィア文庫)、『「正法眼蔵」を読む』(講談社選書メチエ)、『なぜこんなに生きにくいのか』(新潮文庫)『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)『善の根拠』(講談社現代新書)、『禅と福音』(春秋社)、『「悟り」は開けない』(ベスト新書)他多数。

「2017年 『死と生 恐山至高対談』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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