恐山 死者のいる場所 (新潮新書)

  • 新潮社 (2012年4月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (208ページ) / ISBN・EAN: 9784106104640

作品紹介・あらすじ

人は死んだらどこへゆく――。イタコの前で号泣する母、息子の死を問い続ける父……。死者に会うため、人は霊場を訪れる。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこに在る。「恐山の禅僧」が問う、弔いの意義。

感想・レビュー・書評

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  • 南先生が永平寺から恐山に赴任してからの7年間の間に見て、聞いて、考えたことを一般人への講演としてまとめたもの。
    恐山は死者を弔い出会う所として最も有名な地であり、そこは今までの仏教教理が及ばない場所である。
    本来、仏教では特に原典に近い禅宗では死後の世界は語らず。とするのが公式見解となる。
    しかしながら目の前には、死者に関わらないと崩れ落ちそうな人がやってくる。
    この事態にどのような解釈を考えれば良いか。

    そんな事を主眼に置きながら、死者の弔いに訪れる人々との交流を通じて、生きることの本質、この世に生を受けたものとして背負い事について深く洞察している。

    仏教に興味が無くても、人生について考えたい人におすすめの一冊。

    強く心揺さぶられた内容は多すぎて割愛。

  • 南和尚の書いた恐山の本でしたが、死者とどう向き合うか?が書かれていて教えてがありました。合掌

  • 至極真っ当なことが書いてある本。逆に言えば、今の仏教界ってまともではないとも言える。正面から死を考える筆者は素晴らしいが、いささか今の自分には重い。

    軽やかに生きたいがそれができるのは幸せだからか。

  • 何の理由も意味もなく、無力なままでただボロッと生まれてくる。
    このボロッとという表現がよかった。
    ああ、そーだよなーって。
    なんかしっくりきた。
    んでもって、その無意味で無力な存在を
    ただそれでもいい、それだけでいい、と受け止めてくれる手、
    それが必要なんだ、ということ。
    たしかに、「あなたが、ただそこにいるだけでいい」
    そう言ってくれる人がいてくれれば、本当にそれだけでいいと思えた。
    もし、私が子供を産んで、育てることになるとしたら、
    そのメッセージだけは伝えられたらいいと思う。
    まあ、そう思えれば、だが。
    でも絶対的な自己肯定ってゆーのは確かにそのへんから生まれてくる気もする。
    理由とか意味とか、取引とか全く関係なく、ただ存在するだけで
    認めてくれるとゆーこと。
    魂は、そうやって、認め、認められ、自分の中で育っていくもの。
    うーん、このへんはちょっとふに落ちるような、おちないような。
    だったら、関係性をもたない人間には魂はないってこと、なのだろうか?
    人間性が浅いってこと?
    私関係性めっちゃ薄いんだけど、そーすると魂も薄いのかなあっとちょっと不安。いやいや、でも自分の中での熟成ってのもあるはず、うんうん。
    あーでも、なんかちょっと分かるような気も・・・。
    まあ、結局分かんないもんなんだから、分からなくていいんだよな、うん。

    死は確かにいつも側にある気がする。
    でも現実味はなくて。それがくれば全部終わってくれると思うと、
    怖いのと同時に憧れもある。
    ちょーめんどくさがり屋な私としては、
    生きてることだってめんどくさいとゆーか。
    好きなこともたくさんあるし、楽しいこともあるけど、それだけじゃないし、
    思い通りにならないこと、辛いこと、なんとなしのこころともなさもある。
    偶々今、この時に生まれ、生きてるけど、そうじゃなくても別によかったわけで。ぐるぐる考えるとどっちかってゆーと生より死によっていく。
    それはきっと楽したいだけなんだけど。
    ただ、死が本当に終りなのか、とゆー問題もある。
    そこで全てが終わって、後、何もないのなら、それでいいんだけど、
    そうじゃない可能性だってやっぱあるわけで。
    そうすると、生きることも死ぬこともそう大差ない気もしてきて・・・・。
    お釈迦様は正しい。
    考えても考えても答えの出ないことは、きっと考えるだけムダなのだ。
    それよりはどうせならもっと楽に生きる方法を。
    そーゆー手段として仏教を利用する、というのは確かにいい方法かも。


    存在する死者、は私にはまだいない。
    その死者と、死は違うというのは確かにそうだと思う。
    ただその死者はあくまで生き残っているものにとっての存在だ。
    だが、南さんの話をきくと、そのリアリティたるや、ぼんやり生きているものより圧倒的に強い。
    存在の欠落。
    ただいるだけでいいという存在を失った時、恐山がその意味をもつ。

  • 南直哉(みなみじきさい、1958年~)は、早稲田大学第一文学部卒業後、サラリーマンを経て、1984年に出家得度した曹洞宗の禅僧。曹洞宗大本山永平寺で約20年の修行生活を送り、2005年より恐山菩提寺院代(住職代理)。
    著者は、自分が抱えてきた問題である「死」について解決するすべを見つけるために仏道を志したと言うが、仏教の教えをあくまでも道具と捉えるスタンスは、僧侶としては異質で、周りから、「お坊さんらしくない」、「信仰がない」、「斯界のアウトサイダー」と言われると明かしている。
    その著者が本書では、「死」と「死者」について、また、その文脈の中で恐山のもつ意味について語っているが、自らが「一本の理屈の筋がきれいに通ったものではない・・・あえて言えば、「思ったこと」である」と書いているように、正直なところ、一度通読しただけで十分に消化できたという感覚は持てなかった。
    その中で、印象に強く残った、著者の「思ったこと」は以下のようなものである。
    「人間は、「あなたが何もできなくても、何も価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい」と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできません。・・・赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれるとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです」
    「霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には、「自分はどこから来てどこに行くのかわからない」という抜きがたい不安があるわけです。この不安こそがまさに、人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのです」
    「故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです。一番の供養は「死者を想い出すこと」なのです」
    「死者に会いに行ける場所であると同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作ることができる場所でもある。それゆえに人はひきつけられる。恐山とは、そのような場所なのです」
    そして、2011年3月の東日本大震災の後に書かれたあとがきで、著者は、大震災以後の社会はこれまでの延長線上にはないとし、「霊場恐山は、いかにそこにありえるだろうか。私にいま、結論はない」と述べているが、「死」と「死者」について考えることに終わりはなく、自らそれを深めていかねばならないという思いを強くするのである。
    (2016年7月了)

  • 著者の南直哉さん、私はつい先月初めてその存在を認知した次第です。YouTubeで仏教関連の動画を漁る中で宮崎哲弥と対談しているのを偶々見ました。面白いセンスの坊さんだなぁという印象があります。
    とはいえ、実はこの本自体にはそれ以前に一度お会いしております。しかも、恐山現地で(笑)

    恐山には一昨年行きました。もっとも、家族と下北半島の旅行ついでに立ち寄った感じなので、両親共々、当初はさっと見て帰るつもりだったんです。
    ただ、私だけ、どうしてもそこに居たくなりました。ここでははっきり書けませんが、実は内緒で一人「死者」を抱えておりまして、売店で風車を購入して恐山に死者を預けて参りました(あぁ、でもこう書くと分かる人にはバレますね……お察し下さい)。この本はその売店で見かけました。タイトルだけちらと見て「今この本読んだらつまんないんだろうな」と思って買いませんでした。
    で、買わないまま順路に従って一通り境内を練り歩いてきました。今考えれば正解だったかもしれません。何の先入観無しにじっくり見て回ることが出来たから。で、見た感想は一言で言えば「テーマパークみたい」。
    恐山ほど「行ってみたらこんなところだった!」感がハンパないところもないかと思います。「聞くと見るとでは大違い」と仰る直哉さんの言に私も大変頷きます。そして、「案外整然としてつまらない」というバックパッカーの感想も確かに頷けるんですよね。ちゃんと順路があって、順路に従って歩くと、まるで「死後の世界体験ツアー」とでも言うかのように、死んでからまた母の胎内に宿って産まれるところまで一巡り出来るような構造になってるんですよ。境内が。それはそれで確かに整然とし過ぎていてつまらないと思いますね。確かに「賽の河原」等々、立て札がこれ見よがしに解説しているようで時に邪魔くさく感じすらします。でも私は巡りながら同時にテーマパークを歩くような妙な楽しさを感じ、知的好奇心そそられる意味での面白さも感じましたけどね。もちろん、弔いの想いも別に抱えつつですよ?……

    そんなことを思い出しながらの読了でした。いやぁー、あの時買わなかったことはやはり若干後悔していただけに、また最近になって古書店でこの本に巡り合った時に、つい買っただけのことはありました。私が読んだ新書の中では一二を争う大変素晴らしい名著でございます。と同時に、一度行った身ということもあり、お陰様で心が軽くなった本の一冊でもあります。

    この本は恐山についての知識を提供するというのもそうですが、どちらかというと「恐山を通して死を考え、死者と向き合う」ほうに力点があります。非常に語りにくいテーマだと思うのですが、それでも語る言葉の節々には、何年も考え抜き悩み抜いた直哉さんの思考と実践の過程がしっかり伺えます。そこに私はとても、読んで良かったと感じるのです。そして、恐山にやってくる人たち、彼ら彼女らの悩み苦しみの話を読む毎に、私は何とも落ち着いてくるんです。悩んでるのは私だけじゃなかったんだなぁ、という安らぎとも言えましょうか。

    もう一度、恐山に行きたくなりました。

  • 法話調で、でも全然お坊さんぽくなくてめちゃくちゃ読みやすかった。知性は最終的には哲学・宗教に向かうのかもしれない。つまり人生が一番の難題だから。
    死そのものが何であるか…社会における死の扱い、弔い、死者の死を受け容れること…大切な友達のことを想いながら読みました。

  • 宗教というより、死とどう向き合うか、に重点が置かれている。
    南さんの考えをもう少し聞いてみたいというのと、曹洞宗の教えとは?というのに関心を持った。
    死とは生者のもの。

  • ふむ

  • 記録

  • 読み進むうち、涙がこぼれて仕方がなかった。自分にはまだまだ時間が必要なのだろう。
    近いうちに、恐山に行こうと思う。

  • 大学のレポートのため選んだ文献で、堅苦しさがなく読みやすかった。お坊さんの語り口だが、社会問題や寺・僧侶の将来像まで書かれていて面白かった。
    魂の話は少し仏教的で難しかったが、恐山が「器」であることや死者が生者に与えるもの、死は生者の側にあることなどは新しい考え方で興味深かった。いつかその時が来たら、私も恐山に行ってみたい。

  • 某番組で恐山を取り上げ、案内役として著者が登場し、いわゆるお坊さん、ぽくない雰囲気に興味を抱いた。

  • 3.92/371
    内容(「BOOK」データベースより)
    『死者は実在する。懐かしいあの人、別れも言えず旅立った友、かけがえのない父や母―。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこにいる。日本一有名な霊場は、生者が死者を想うという、人類普遍の感情によって支えられてきた。イタコの前で身も世もなく泣き崩れる母、息子の死の理由を問い続ける父…。恐山は、死者への想いを預かり、魂のゆくえを決める場所なのだ。無常を生きる人々へ、「恐山の禅僧」が弔いの意義を問う。』


    『恐山: 死者のいる場所』
    著者:南 直哉
    出版社 ‏: ‎新潮社
    新書 ‏: ‎208ページ
    発売日 ‏: ‎2012/4/17

  • イタコとは全く関係ありませんといいながら、イタコの不思議な力の実例?について紙面を割いているのはよくわかりませんでした。また時間をおいて読み返してみようと思います

  • どんな他者であれ本来的に了解不能なもの。誰だって他者のことはわからない。他者は懐かしくて怖い。ましてや死者はもっと懐かしくて怖い。
    死者に会いに行ける場所である場所と同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作る事が出来る場所。
    供養とは死者の問題ではなく、残った者の問題。
    どのようにするかは残った者に任せるのが良い。
    弔いという行為がないと別れは別れにならず、死者として存在できない、つまり残った者と新しい関係を結ぶことができない。

  • 想いが厖大すぎてきちんと消化できなかった。死者への想いか…。読んでて何かじわっときた。どうして東北に恐山があるのか分かったような気がしたし、死がある意味も分かったような気がする。この本を読んでストッと何かがわたしの心のなかに落ちてきた。少し救われた。

    「人が死ぬとな、」「はい」「その人が愛したもののところへいく」(63、64ページ)
    「人は思い出そうと意識しなくても、死んだ人のことを思い出すだろう。入っていくからだ」(64ページ)

    いろんな種類の本を読んできたけど、妙に納得できてしまった。読んでよかった。再読しないといけない本。こころに沁みる。

  • ・もし友達でも何でも、赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれたとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです。金なんぞ問題じゃない。そんな人がもし五人もいれば、人生納得して死ぬべきですよ。そんな人はなかなかいません。あるとしたら、とても苦しい時間と経験を分け合った人だけでしょう。状態が上向きで追い風の友だちなんて、条件が変わればあっさりと裏切ります。苦しくて切ないときに隣にいてくれた人というのは、大事にすべきです。(p62)

    ・友人であれ夫婦であれ家族であれ、生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかしそれが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶とともに残存し、消えっこないのです。(中略)その関係性や課せられた意味はなくならない。息子がこの世に生きているかどうか、物理的に存在しているかどうかは関係ありません。(p132)

  • イタコさんは恐山に属しているものだと思っていたので
    違うことが分かってびっくり。

    これからのお葬式の在り方について。
    葬儀という儀式は、仏教の経典とは結びつかない。
    形式的な儀式でお金を稼ぐのではなく
    “あのお坊さんに送ってもらいたい”と思われる
    お坊さんにならなくては。

    のくだりに、納得。

    南さんご自身は、どんな悩みを解決したくて
    宗教の道に進まれたのか気になる。

  • 著者の講演は良かったが、本だと伝わって来ない。

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著者プロフィール

1958年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店に勤務。1984年、曹洞宗で出家得度、同年、大本山永平寺に入山。以後、約20年の修行生活を送る。2003年に下山。現在、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代。著書に、『語る禅僧』(ちくま文庫)、『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『「問い」から始まる仏教――私を探る自己との対話』(佼成出版社)、『老師と少年』(新潮文庫)、『『正法眼蔵』を読む――存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ)、『出家の覚悟――日本を救う仏教からのアプローチ』(スマラサーラ氏との共著、サンガ選書)、『人は死ぬから生きられる――脳科学者と禅僧の問答』(茂木健一郎氏との共著、新潮新書)など多数。

「2023年 『賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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