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Amazon.co.jp ・本 (208ページ) / ISBN・EAN: 9784106104640
作品紹介・あらすじ
人は死んだらどこへゆく――。イタコの前で号泣する母、息子の死を問い続ける父……。死者に会うため、人は霊場を訪れる。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこに在る。「恐山の禅僧」が問う、弔いの意義。
感想・レビュー・書評
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南先生が永平寺から恐山に赴任してからの7年間の間に見て、聞いて、考えたことを一般人への講演としてまとめたもの。
恐山は死者を弔い出会う所として最も有名な地であり、そこは今までの仏教教理が及ばない場所である。
本来、仏教では特に原典に近い禅宗では死後の世界は語らず。とするのが公式見解となる。
しかしながら目の前には、死者に関わらないと崩れ落ちそうな人がやってくる。
この事態にどのような解釈を考えれば良いか。
そんな事を主眼に置きながら、死者の弔いに訪れる人々との交流を通じて、生きることの本質、この世に生を受けたものとして背負い事について深く洞察している。
仏教に興味が無くても、人生について考えたい人におすすめの一冊。
強く心揺さぶられた内容は多すぎて割愛。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
南和尚の書いた恐山の本でしたが、死者とどう向き合うか?が書かれていて教えてがありました。合掌
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至極真っ当なことが書いてある本。逆に言えば、今の仏教界ってまともではないとも言える。正面から死を考える筆者は素晴らしいが、いささか今の自分には重い。
軽やかに生きたいがそれができるのは幸せだからか。 -
南直哉(みなみじきさい、1958年~)は、早稲田大学第一文学部卒業後、サラリーマンを経て、1984年に出家得度した曹洞宗の禅僧。曹洞宗大本山永平寺で約20年の修行生活を送り、2005年より恐山菩提寺院代(住職代理)。
著者は、自分が抱えてきた問題である「死」について解決するすべを見つけるために仏道を志したと言うが、仏教の教えをあくまでも道具と捉えるスタンスは、僧侶としては異質で、周りから、「お坊さんらしくない」、「信仰がない」、「斯界のアウトサイダー」と言われると明かしている。
その著者が本書では、「死」と「死者」について、また、その文脈の中で恐山のもつ意味について語っているが、自らが「一本の理屈の筋がきれいに通ったものではない・・・あえて言えば、「思ったこと」である」と書いているように、正直なところ、一度通読しただけで十分に消化できたという感覚は持てなかった。
その中で、印象に強く残った、著者の「思ったこと」は以下のようなものである。
「人間は、「あなたが何もできなくても、何も価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい」と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできません。・・・赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれるとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです」
「霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には、「自分はどこから来てどこに行くのかわからない」という抜きがたい不安があるわけです。この不安こそがまさに、人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのです」
「故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです。一番の供養は「死者を想い出すこと」なのです」
「死者に会いに行ける場所であると同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作ることができる場所でもある。それゆえに人はひきつけられる。恐山とは、そのような場所なのです」
そして、2011年3月の東日本大震災の後に書かれたあとがきで、著者は、大震災以後の社会はこれまでの延長線上にはないとし、「霊場恐山は、いかにそこにありえるだろうか。私にいま、結論はない」と述べているが、「死」と「死者」について考えることに終わりはなく、自らそれを深めていかねばならないという思いを強くするのである。
(2016年7月了) -
法話調で、でも全然お坊さんぽくなくてめちゃくちゃ読みやすかった。知性は最終的には哲学・宗教に向かうのかもしれない。つまり人生が一番の難題だから。
死そのものが何であるか…社会における死の扱い、弔い、死者の死を受け容れること…大切な友達のことを想いながら読みました。 -
宗教というより、死とどう向き合うか、に重点が置かれている。
南さんの考えをもう少し聞いてみたいというのと、曹洞宗の教えとは?というのに関心を持った。
死とは生者のもの。 -
記録
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読み進むうち、涙がこぼれて仕方がなかった。自分にはまだまだ時間が必要なのだろう。
近いうちに、恐山に行こうと思う。
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某番組で恐山を取り上げ、案内役として著者が登場し、いわゆるお坊さん、ぽくない雰囲気に興味を抱いた。
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イタコとは全く関係ありませんといいながら、イタコの不思議な力の実例?について紙面を割いているのはよくわかりませんでした。また時間をおいて読み返してみようと思います
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どんな他者であれ本来的に了解不能なもの。誰だって他者のことはわからない。他者は懐かしくて怖い。ましてや死者はもっと懐かしくて怖い。
死者に会いに行ける場所である場所と同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作る事が出来る場所。
供養とは死者の問題ではなく、残った者の問題。
どのようにするかは残った者に任せるのが良い。
弔いという行為がないと別れは別れにならず、死者として存在できない、つまり残った者と新しい関係を結ぶことができない。 -
・もし友達でも何でも、赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれたとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです。金なんぞ問題じゃない。そんな人がもし五人もいれば、人生納得して死ぬべきですよ。そんな人はなかなかいません。あるとしたら、とても苦しい時間と経験を分け合った人だけでしょう。状態が上向きで追い風の友だちなんて、条件が変わればあっさりと裏切ります。苦しくて切ないときに隣にいてくれた人というのは、大事にすべきです。(p62)
・友人であれ夫婦であれ家族であれ、生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかしそれが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶とともに残存し、消えっこないのです。(中略)その関係性や課せられた意味はなくならない。息子がこの世に生きているかどうか、物理的に存在しているかどうかは関係ありません。(p132) -
イタコさんは恐山に属しているものだと思っていたので
違うことが分かってびっくり。
これからのお葬式の在り方について。
葬儀という儀式は、仏教の経典とは結びつかない。
形式的な儀式でお金を稼ぐのではなく
“あのお坊さんに送ってもらいたい”と思われる
お坊さんにならなくては。
のくだりに、納得。
南さんご自身は、どんな悩みを解決したくて
宗教の道に進まれたのか気になる。
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著者の講演は良かったが、本だと伝わって来ない。
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