恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106104640

作品紹介・あらすじ

死者は実在する。懐かしいあの人、別れも言えず旅立った友、かけがえのない父や母-。たとえ肉体は滅んでも、彼らはそこにいる。日本一有名な霊場は、生者が死者を想うという、人類普遍の感情によって支えられてきた。イタコの前で身も世もなく泣き崩れる母、息子の死の理由を問い続ける父…。恐山は、死者への想いを預かり、魂のゆくえを決める場所なのだ。無常を生きる人々へ、「恐山の禅僧」が弔いの意義を問う。

感想・レビュー・書評

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  • 至極真っ当なことが書いてある本。逆に言えば、今の仏教界ってまともではないとも言える。正面から死を考える筆者は素晴らしいが、いささか今の自分には重い。

    軽やかに生きたいがそれができるのは幸せだからか。

  • 何の理由も意味もなく、無力なままでただボロッと生まれてくる。
    このボロッとという表現がよかった。
    ああ、そーだよなーって。
    なんかしっくりきた。
    んでもって、その無意味で無力な存在を
    ただそれでもいい、それだけでいい、と受け止めてくれる手、
    それが必要なんだ、ということ。
    たしかに、「あなたが、ただそこにいるだけでいい」
    そう言ってくれる人がいてくれれば、本当にそれだけでいいと思えた。
    もし、私が子供を産んで、育てることになるとしたら、
    そのメッセージだけは伝えられたらいいと思う。
    まあ、そう思えれば、だが。
    でも絶対的な自己肯定ってゆーのは確かにそのへんから生まれてくる気もする。
    理由とか意味とか、取引とか全く関係なく、ただ存在するだけで
    認めてくれるとゆーこと。
    魂は、そうやって、認め、認められ、自分の中で育っていくもの。
    うーん、このへんはちょっとふに落ちるような、おちないような。
    だったら、関係性をもたない人間には魂はないってこと、なのだろうか?
    人間性が浅いってこと?
    私関係性めっちゃ薄いんだけど、そーすると魂も薄いのかなあっとちょっと不安。いやいや、でも自分の中での熟成ってのもあるはず、うんうん。
    あーでも、なんかちょっと分かるような気も・・・。
    まあ、結局分かんないもんなんだから、分からなくていいんだよな、うん。

    死は確かにいつも側にある気がする。
    でも現実味はなくて。それがくれば全部終わってくれると思うと、
    怖いのと同時に憧れもある。
    ちょーめんどくさがり屋な私としては、
    生きてることだってめんどくさいとゆーか。
    好きなこともたくさんあるし、楽しいこともあるけど、それだけじゃないし、
    思い通りにならないこと、辛いこと、なんとなしのこころともなさもある。
    偶々今、この時に生まれ、生きてるけど、そうじゃなくても別によかったわけで。ぐるぐる考えるとどっちかってゆーと生より死によっていく。
    それはきっと楽したいだけなんだけど。
    ただ、死が本当に終りなのか、とゆー問題もある。
    そこで全てが終わって、後、何もないのなら、それでいいんだけど、
    そうじゃない可能性だってやっぱあるわけで。
    そうすると、生きることも死ぬこともそう大差ない気もしてきて・・・・。
    お釈迦様は正しい。
    考えても考えても答えの出ないことは、きっと考えるだけムダなのだ。
    それよりはどうせならもっと楽に生きる方法を。
    そーゆー手段として仏教を利用する、というのは確かにいい方法かも。


    存在する死者、は私にはまだいない。
    その死者と、死は違うというのは確かにそうだと思う。
    ただその死者はあくまで生き残っているものにとっての存在だ。
    だが、南さんの話をきくと、そのリアリティたるや、ぼんやり生きているものより圧倒的に強い。
    存在の欠落。
    ただいるだけでいいという存在を失った時、恐山がその意味をもつ。

  • 記録

  • 読み進むうち、涙がこぼれて仕方がなかった。自分にはまだまだ時間が必要なのだろう。
    近いうちに、恐山に行こうと思う。

  • 大学のレポートのため選んだ文献で、堅苦しさがなく読みやすかった。お坊さんの語り口だが、社会問題や寺・僧侶の将来像まで書かれていて面白かった。
    魂の話は少し仏教的で難しかったが、恐山が「器」であることや死者が生者に与えるもの、死は生者の側にあることなどは新しい考え方で興味深かった。いつかその時が来たら、私も恐山に行ってみたい。

  • 某番組で恐山を取り上げ、案内役として著者が登場し、いわゆるお坊さん、ぽくない雰囲気に興味を抱いた。

  • イタコとは全く関係ありませんといいながら、イタコの不思議な力の実例?について紙面を割いているのはよくわかりませんでした。また時間をおいて読み返してみようと思います

  • どんな他者であれ本来的に了解不能なもの。誰だって他者のことはわからない。他者は懐かしくて怖い。ましてや死者はもっと懐かしくて怖い。
    死者に会いに行ける場所である場所と同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作る事が出来る場所。
    供養とは死者の問題ではなく、残った者の問題。
    どのようにするかは残った者に任せるのが良い。
    弔いという行為がないと別れは別れにならず、死者として存在できない、つまり残った者と新しい関係を結ぶことができない。

  • 想いが厖大すぎてきちんと消化できなかった。死者への想いか…。読んでて何かじわっときた。どうして東北に恐山があるのか分かったような気がしたし、死がある意味も分かったような気がする。この本を読んでストッと何かがわたしの心のなかに落ちてきた。少し救われた。

    「人が死ぬとな、」「はい」「その人が愛したもののところへいく」(63、64ページ)
    「人は思い出そうと意識しなくても、死んだ人のことを思い出すだろう。入っていくからだ」(64ページ)

    いろんな種類の本を読んできたけど、妙に納得できてしまった。読んでよかった。再読しないといけない本。こころに沁みる。

  • ・もし友達でも何でも、赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれたとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです。金なんぞ問題じゃない。そんな人がもし五人もいれば、人生納得して死ぬべきですよ。そんな人はなかなかいません。あるとしたら、とても苦しい時間と経験を分け合った人だけでしょう。状態が上向きで追い風の友だちなんて、条件が変わればあっさりと裏切ります。苦しくて切ないときに隣にいてくれた人というのは、大事にすべきです。(p62)

    ・友人であれ夫婦であれ家族であれ、生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかしそれが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶とともに残存し、消えっこないのです。(中略)その関係性や課せられた意味はなくならない。息子がこの世に生きているかどうか、物理的に存在しているかどうかは関係ありません。(p132)

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著者プロフィール

1958年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店に勤務。1984年、曹洞宗で出家得度、同年、大本山永平寺に入山。以後、約20年の修行生活を送る。2003年に下山。現在、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代。著書に、『語る禅僧』(ちくま文庫)、『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『「問い」から始まる仏教――私を探る自己との対話』(佼成出版社)、『老師と少年』(新潮文庫)、『『正法眼蔵』を読む――存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ)、『出家の覚悟――日本を救う仏教からのアプローチ』(スマラサーラ氏との共著、サンガ選書)、『人は死ぬから生きられる――脳科学者と禅僧の問答』(茂木健一郎氏との共著、新潮新書)など多数。

「2023年 『賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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