- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106107641
作品紹介・あらすじ
「答えは必ずある」などと思ってはいけない。「出来あいの言葉で満足するな」「群れるな、孤独になる時間を持て」――。細胞生物学者にして日本を代表する歌人でもある著者がやさしく語る、本物の「知」の鍛錬法。
感想・レビュー・書評
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「なんで勉強する必要があるの?」
小学生のころに人生最大の疑問を抱えていらい……学校の先生にきいてみてもなんだか要領をえない――いい大人になるため、いい点数をとるため――それじゃ、学校を卒業して大人になったら必要ないの? 迷路に入って何十年、答えを探し続け、もしかすると答えというものはないかもしれない。
さて筆者の永田和宏さんと言えば、私は「歌人」の顔を思い浮かべる。『現代秀歌』や『近代秀歌』をはじめ、短歌の魅力をあますことなく伝えている。彼の分析眼と怜悧な切り口にはいつもびっくり仰天だ。そんな彼のもう一つの顔は、細胞生物学者。詩心にくわえて、ちっちゃな細胞の気持ちまでわかる人なのかも。
「自己をいろいろな角度から見るための、複数の視線を得るために勉強をし、読書をする。それを欠くと、ひとりよがりの自分を抜け出すことができない。他者との関係性を築くことができない。」
どきっとするが、この本をながめていると、つくづく言葉のおもしろさや恐ろしさを思い知らされる。なにげなく使っている常套句や慣用句、むげに短縮された言葉――たとえばよく聞く「安心安全」って、いったい誰のなにが安心で、何がどう安全なのだ?――は、なんとなくわかったような気分になったりする。さらに言葉に忍び込んでくるプロパガンダへの疑問を持ち続けることは難儀なことだろうけど、とても大切なのだろう。『1984年』のジョージ・オーウェルも言うように、自分の言葉を探すのは骨の折れること、でも確かにそれを探し当てたときのわくわくとした気持ちは、他では味わえない。
有名なアララギ派の歌人に島木赤彦がいる。アララギは「写生」を理念としているのだが、この「写生」という言葉、辞書をひいても、本や解説を読んでもわかったようでわからない。でも赤彦と筆者の説明のおかげで、今まで腑に落ちなかったものが、すっと落ちた。
「悲しいと言えば甲にも通じ、乙にも通じます。しかし決して甲の特殊な悲しみをも、乙の特殊な悲しみをも現しません。歌に写生の必要なのは、ここから生じてきます」(島木赤彦『歌道小見』)。
これを敷衍して、筆者はこう批評する。
『「悲しい」では作者がどのように悲しいのか一向に伝わらない。「特殊な」悲しみが伝わらない。「形容詞」も一種の出来合いの符牒なのである。』
<「形容詞」も一種の出来合いの符牒なのである>
あざやかだな~! 永田氏はさらにアララギ派の斎藤茂吉の歌を紹介する。
<死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天に聞こゆる>
<のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり>
この歌には「悲しい」という形容詞はどこにもない。でも静寂な夜の田から蛙の声が天にもこだますように聞こえてきたり、家の梁にとまっている小さなつばめが肩を寄せ合うように死の床の母親を見下ろしている様子が、茂吉の、もはや言葉にはならない何かを伝えていて、あはれだな……。
これと似たような感覚で、ふと思い起こすのは、ノーベル賞作家のスベトラーナ・アレクシェービッチの『ボタン穴からみた戦争』。それこそ出来合いの形容詞は使われていないのだが、言葉にはならない何かを鮮明に伝えている。その行間から立ち上ってくる「特殊な」悲哀と愛(かな)しみに何度もうちのめされた。
さらにおもしろいのは、永田さんの解説するデジタルとアナログの対比。
デジタルは離散的な量の表示、一方アナログは連続的な、ある量を別の何かの量に変えて表示すること。例えば時計の針で時間を表示する文字盤のアナログ時計と数字で示すデジタル時計。
さらには言葉で何かをいい表すことも、アナログからデジタル化する過程そのものだと筆者は喝破する。
つまり言葉で表すとは、その対象を取り出し、あてはまる言葉に振り分ける、すなわち外界の無限の多様性を有限の言語によって切り分ける作業だというのだ。それゆえだろうか、
「真のコミュニケーションとは、ついに相手が言語化しきれなかった「間」(あいだ)を読み取ろうする努力以外のものではないはずである」
それは永田氏のいう他者への思いやりであったり、あるいはまた「もののあはれ」を感じることだったり、詩歌の内奥に共鳴し、文学や小説の行間に飛び込み、そこにある言語化しきれない無限の多様性を読み取ることかもしれない。
学生はもちろん大人にも、本や詩歌が好きな人にもお薦めしたい。永田さんの温かい人がらも垣間見える素敵な本だ♪(2022.5.1)。
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「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学問する」(トマス・モア)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
周りからはみ出るところに個性の芽がある
みんな同じ方向を見てることに
すこしも疑問を持たなくて
はみ出た部分は恥だと思って
必死に隠して生きていた
それは自分を小さく抑え込んでしまう
何でも問題点を探して否定しがちな人からは
ちょっと心の距離を置き、
心に寄り添ってくれ
そっと背中を押してくれる人のそばにいよう
人間関係の難しさ大切さについて考えさせられる -
私は中学受験をし、現在も好成績を維持しているが、言われてみれば答えのない問いを考えた経験はほとんど皆無と言って良い。私はきっと所謂一流大学に進学するだろうが、そこでも輝けるように今から思考の楽しさを覚えたい。
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教養に関する本は、大抵が文系的なアプローチで書かれているが、この本は筆者が細胞生物学者のため理系的なアプローチからも教養について書かれており、新鮮に感じた。
問題に対する一つの正解を追い求める高校までの学習と、大学においての学問は切り離して考えるべきだという主張はとても頷ける。
何のために大学で勉強するのか、大学で何を勉強するのかを全く理解していなかった大学生の頃の自分がなさけなくなり、できれば大学に入る前に読みたかった。
また、文学の仕事とする著者の視点で興味深かったのが、現代のメールやツイッター、ラインは「思考を断片化」するという主張である。
これらのツールでは、できるだけ文章をすばやく・短く選択することが求められる。それによって万人の共通感覚の表象である形容詞に頼りがちになり、さらに最近では絵文字や顔文字をなどの感情の最大公約数を多用してしまう。
本来であれば書くという行為の中で、自分の考えが徐々に整理されていくことが多いが、短い言葉だけで用を足す生活に慣れすぎると、物事を基本に立ち返って考えるという習慣に乏しくならざるを得ないということらしい。 -
著者も言うように、若い人たちに向けて書かれた一冊。無論、評価のとおり若くなくても著者の考えにうなずけるし、得るものあり。2人の子、特に高3には大学入学前に手にとってほしい、と伝えよう。
207頁は深く同意。銀婚式前に亡くなった妻。後悔ばかりだ。 -
人生って答えがない問いの繰り返しなんだよなぁと改めて感じた。
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現実世界で問題が起きたときに、その局面に対処するために、自分の知識、情報の総体をいかに活用することができるか。それが「知の体力」。
学校で学んだことは無駄にはならないと思うけれども、「答えは必ずある」という呪縛を解くことが、「知の体力」への第一歩。それ故、大学の果たすべき役割についても言及している。
さらに生き方についても語る。特に印象的だったのは、①選択の機会が訪れた時に、おもしろい方を選べるか ②自分で自分を評価しない ③「二足のわらじ」という生き方、自分の居場所を複数持つ ④言葉は究極のデジタル。
著者後書きに記しているように、これからの生き方について考える、ある種のヒントになると思います。 -
•社会で生きていくうえでは正解がない事
•言葉はあくまでデジタルでしか無く、相手のして欲しい事は言葉だけでは無くもっと本質を見る
•愛すべきは、相手の欠点を感じない人、相手といると自分が輝いていると感じる人
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挙げきれないくらい刺さるテーマが沢山!