決定版 日中戦争 (新潮新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106107887

作品紹介・あらすじ

現代最高の歴史家たちが記した決定版。開戦当初は誰も長期化を予想せず「なんとなく」始まった戦争が、なぜ「ずるずると」日本を泥沼に引き込んでしまったのか。「あの戦争」の全体像に多角的に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • ● 日中戦争の位置づけについても、太平洋戦争の勃発によって中国は、世界内の「反ファシズム統一戦線」の重要局面である中国戦線を一手に担い、日本軍を消耗させたがゆえに、連合国の「世界反ファシズム戦争」の勝利も実現した、と言う第二次大戦像は動かしがたいことを確認することにもなった。中国以外の連合国が抗日戦争の勝利に貢献したと言う側面が入る余地が少ないのである。この傾向は、習近平政権になってさらに強まりつつある。
    ●張作霖爆殺→満州事変→盧溝橋事件
    日中戦争は、おそらく偶発的に発生した盧溝橋事件が、その後の両国の対応によって拡大した典型的なエスカレーションであった。
    ●南京事件で虐殺等が起こった原因としては以下の点が指摘されている。日本側では第一に事変であったため、捕虜の取り扱いに関する指針や住民保護を含む計画が欠けており、また取り締まる憲兵の数が少なかった点がある。第二に食料や補給を無視して攻略をした結果、略奪行為、不法行為を誘発した.。第3に日本人一般に広く見られた、捕虜に対する嫌悪感及び中国人に対する蔑視感情などである。中国側としては、防衛作戦の誤りと指揮統制の放棄、民衆保護対策の欠如に言及している。
    ●当初短期決戦で中国側の戦意を喪失させて勝利を収めるつもりであったが、中国側は持久戦を持ってそれに応じた。その後日本の北部仏印進駐はそれまで基本的に切り離されていた日中戦争と第二次世界大戦を結びつける結果となった。
    ● 1937年10月、ライフに空襲された上海近郊と思われる駅で1人泣き叫んでいる赤ん坊を写した写真が掲載された。半日イメージの形成に大きな役割を果たした。
    ●日本が宣伝戦に失敗した要因。国民性に加え、軍事的勝利に対する自信から宣伝を軽視していた。
    ●実のところ、カイロ宣言は研究者泣かせのテーマである。外交文書が十分に保存されていないのだ。中国も同様で「蒋介石日記」や王寵恵の回想などが基礎資料となる。

  • 東2法経図・6F開架:210.74A/H42n//K

  • ・南京事件
    南京陥落前後に生起した日本軍による南京事件は、現在でも活発な議論がなされているが、外務省のウェブサイトの「歴史問題Q&A」では、「非戦闘員の殺害や略奪行為等があった事は否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定する事は困難であると考えています」と記されている。以下、事件の概要を示す。
    ①性格
    中国では、その組織性や計画性が強調され、さらに、Iris Changの著書The Rape of Nanking:The Forgotten Holocaust of World War Ⅱ(1997)のタイトルが象徴するように、ホロコーストと並べて論じられることもある。
    一方、「日中歴史共同研究報告書」は、「日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、および一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した」と記述されており、計画性や大規模な組織性は否定されている。
    ②犠牲者数
    日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20万人以上(松井司令官に対する判決文では10万人以上)、1947年の南京戦犯裁判軍事法廷では30万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、「日本報告書」では、「日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている」と記述されている。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする期間、地域(例えば東京裁判では、期間は12月13日の南京陥落から6週間、地域は南京市とその周辺とされている)、埋葬記録や人口統計などの資料に対する検証の相違が存在している。


    目下、中国は、日中関係の基礎としての第二次世界大戦での中国の勝利と日本の敗戦との関係性をカイロ宣言に基づいて理解している。中国は戦勝をカイロ宣言とポツダム宣言で理解している、といっていい。それに対して、日本はポツダム宣言とサンフランシスコ講和条約に依拠して敗戦を理解している。これこそが尖閣諸島などの領土問題や歴史認識問題をめぐる日中間の論理立ての根源的矛盾のひとつである。尖閣諸島について、日本がサンフランシスコ講和条約交渉過程でアメリカにより日本領だと認定されたと主張し、中国がカイロ宣言で中華民国に返還されるとされた台湾に尖閣諸島が含まれるとしているのは、その代表的な論点であろう。

  • 「日中戦争の契機は盧溝橋事件ではなく第2次上海事変であり、しかも仕掛けてきたのは中国からであった」また、「当初は欧米各国は中国に批判的であった(が、蒋介石のプロパガンダで日本批判にひっくり返した?)」というのは、これまでに無かった認識だが、この説はコンセンサスを得ているのだろうか?なら教科書を書き換える必要があると思うが。
    結局は「ずるずると」続けて持久戦に持ち込む蒋介石の戦略に引っかかって負けたって事になるのかと。

  • 有識者5人により日中戦争について書かれた本。3部10章から成り、5人で各章を担当している。特に、戸部先生と庄司氏の内容が素晴らしく、勉強になった。

    「(日中専門家による共同研究)太平洋戦争の勃発によって中国は、世界大の「反ファシズム統一戦線」の重要局面である中国戦線を一手に担い、日本軍を消耗させたがゆえに、連合国の「世界反ファシズム戦争」の勝利も実現した、という第二次世界大戦像は動かしがたいことを確認することになった。中国以外の連合国が抗日戦争の勝利に貢献したという側面が入る余地は少ないのである。以上のような傾向は、現在の習近平政権になって、さらに強まりつつある」p5
    「(リットン報告書)報告書は、中国の主権と領土保全という普遍的な原則を前提としながら、軍閥を排し、満州における日本の権益と歴史的関わりなど、特殊な地域情勢にも配慮した妥当な解決方法であった。しかし、もはや日本ではほとんど見向きもされなかったのである。日本は独立国家・満州国の承認をすべてに優先させ、それ以外の事変解決の代案には目を向けなくなっていた」p30
    「満州事変はほぼ石原らのプランどおりに進行した。軍事的には、中国側が武力抵抗しなかったことが、それを可能にした主な理由である。事変勃発時に北平(北京)にいた張学良は10万の兵を擁し、満州にも20万を超える東北軍があったが、関東軍の兵力は1万余に過ぎなかった。しかし張学良は、日本側を刺激しないよう命じる蒋介石の指示を受け、奉天の部下に日本との衝突を避けるよう命じた」p30
    「リットン調査団の現地派遣は、公平な現地調査に基づいて国際連盟の最終的な判断を下そうとする試みであったが、日本はこの連盟の苦肉の試みを無視したのであった」p31
    「日中戦争は、おそらくは偶発的に発生した盧溝橋事件が、その後の日中両国の対応によって拡大した典型的なエスカレーションであった。日本側は、これまで同様の事件が発生したときに採用されてきた現地解決方式によって処理を図ろうとした」p48
    「中国への出兵に反対する石原らは「不拡大派」と呼ばれた。彼らは、当面、対ソ戦備充実のため満州国育成に専念すべきであり、中国との衝突は避けなければならないと主張した。また、中国の抗戦力は侮りがたいとし、中国と武力衝突すれば紛争は長期化・泥沼化すると予想するとともに、その間ソ連が軍事介入してくるかもしれないと憂慮した。これに対して拡大派は、中国の抗戦力を軽視し、一撃によって中国を屈服させれば、事変はかえって早期に解決されると主張した。ただし、拡大派も中国との全面戦争を考えていたわけではない。拡大派は戦場を華北に限定することが可能であるとし、そこで中国に一撃を与え屈服に追い込むことができると楽観していたのである」p50
    「上海戦には多くのドイツ軍事顧問団が参加、中国の中央軍が彼らの指導を受け、ドイツ製の武器を装備しており、「上海地区での日中戦争は、一面、日独戦争である」とまで言われた」p63
    「当時、参謀本部第一部長であった石原は、「今次の上海出兵は海軍が陸軍を引摺って行ったものと云って差し支えないと思う」と回想していたのであった」p66
    「(昭和天皇)戦争はやる迄は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ、又、行わざるを得ぬと云うことを確信した」p72
    「(海軍航空隊の活躍)杭州など中国空軍の中枢飛行場を空襲、使用不能とし、上海近辺の制空権を一気に制圧したのであった。上海において、圧倒的な勢力の中国軍の猛攻に、海軍特別陸戦隊が陸軍の到着まで持ちこたえることができた要因として、日本側が制空権及び制海権を掌握していた点は大きかったのである」p73
    「(南京での戦闘)一般的に大都市において市街戦に至った場合、兵士のみならず多くの民間人の犠牲が生じることは避けがたい」p89
    「(重慶への遷都)物資や資源の総動員体制も困難を極めた。そもそも、中国経済の中心は基本的に上海あるいは沿岸部であり、「大後方」と言われた四川省など内陸部は、特に工業生産からみれば決して抗戦を支えるだけの生産力を有していなかった」p108
    「日中戦争では多様なメディアによる宣伝戦も見られた。満州をはじめ華北、江南、沿岸部などを占領した日本は、中国大陸や世界に向けてラジオ、ポスター、ビラなどさまざまなメディアを用いた宣伝をおこない、自らの中国統治を正当化しようとした。中国側も其れに応じ、中波、短波放送を利用して、重慶から中国内部また海外にする放送をおこなったり、日本軍に降伏を促すビラを撒いたりした。また、1938年には中国側飛行機が熊本県でビラを撒いたことが知られている」p113
    「(ニューヨークタイムス(1937.8.31))上海の開戦に関しては、記録は唯一の事実を実証している。日本軍は、上海での戦闘が繰り返されることを欲しておらず、我慢と忍耐を示しながら、事態の悪化を避けるために、なし得べきすべてのことを行った。しかし、外国の租界や権益をこの衝突に巻き込もうという意図があるように思われる中国軍によって、日本軍は文字通り衝突へと追い込まれていったのである」p120
    「(空襲後に一人泣き叫ぶ赤ん坊の写真(ニューヨークタイムスから世界へ繰り返し発信))「此の写真は点火されたマッチの役目」を果たした。多年に亘る辛抱強い仕事の結果築き上げられた所の米国大衆の反日感情の火薬庫を爆発させた。此の爆発の恐るべき効果が明白になって来た時、ルーズベルトは、突如「廻れ右」をした。シカゴ演説を行い、ハルは其の後を承けて、日本を条約違反者とし、又侵略者として非難した」p131
    「第二次上海事変勃発直前のアメリカの世論調査(1937.8)では、日中戦争に際して中国支持が43%、日本支持がわずか2%、中立が55%であり、すでに中国への支持が日本を圧倒していたのである」p134
    「中国は、上海戦に象徴されるように、国際世論を味方につけるために、積極的に宣伝を活用した。馬淵大本営報道部長は、「白髪三千丈式の宣伝は、三国志以来の伝統であり、支那はすぐれた宣伝の国である。特に蒋介石は、「政治は軍事より重し、宣伝は政治より重し」と倣し、支那軍は戦争に負けても宣伝で勝てばよい、という信条を持っている」と述べていた」p136
    「アメリカ側も、こうした中国の宣伝を政治的目的のために、積極的に受容、活用していった。(アメリカ顧問団セオドア・ホワイト)「アメリカの言論界に対して嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだということをアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい、それは必要なことだと考えられていた」p137
    「(馬淵大本営報道部長)「由来「ことあげ」せぬのは軍人の美徳とされ、国民性が淡白で、執拗に反覆したり、宣伝することを好まない。あくまで武力的勝利を重視するから、列強の嫉視、反感を買う恐れがある。他国の世論を有利に沸騰させるため、火のないところに煙を立てる寸法のデマ宣伝や嘘や法螺や弁明は、苟(いやしく)も士の採るべき手段ではないと教育されていた日本人には、由来潔癖症があり、宣伝や広告をしないのが普通である」さらには、石原莞爾は、「宣伝下手は寧ろ日本人の名誉」とまで述べていたのである」p138
    「マス・メディアの特性に対する理解不足である。日本側の報道は、日本政府検閲済みの情報による公的かつ形式的なもので、極めて無味乾燥で時宜を失していた。一方、中国は、情報の出所は曖昧ではあるものの、内容はセンセーショナルなもので、大衆を強く魅了したのであった。さらに、日本側は、情報を極力制限したのに対して、中国側は積極的に情報の提供に努めたため、外国メディアは自ずと中国の発表を重用、情報を得るようになっていった」p139
    「1940年2月時点の世論調査では、中国支持77%、日本支持2%、中立13%と、中立から中国支持へと大きく変化していた」p143

  • ・反論がなければ事実承認と見做されるのが国際社会の常識(139)

  • 第一次安倍政権下で日中歴史共同研究に携わった日本側メンバーによる、その後の追加研究を含めた成果報告。

    1920年台終わりの張作霖事件から終戦後の収束まで、日中戦争の歴史をコンパクトに理解するためには非常に良い本だった。

    度々指摘をされることだが、関東軍が独自に展開した様々な衝突を追認する形での開戦という、意思決定の根拠・目的意識の薄弱さや、その後の戦線の拡大に至るプロセスにおける陸軍、関東軍、政府の間の意思疎通や議論の不足といったことが、最終的にはこれ程の被害を国際的にもたらしたということは、深く認識をすべきことだと思った。

    また、本書を読んで、中国側も国民党政府、共産党政府、旧清朝勢力がそれぞれの動きをする中で、対日和平交渉の当事者が明確にならなかったことも、この戦争がずるずると拡大をしていった背景になっているようにも感じた。

    日中の共同研究報告書を完全な形で発行することができずに終了したようだが、このような形でその成果の一部でも残されていくことは、大切なことだと思う。

  • 対米戦争に比べて分かりづらく、描いた書も少ない日中戦争について、多角的な視点で解説した名著。

  • 決定版というだけのことはあった!

  • 失敗の本質を改めて整理できるかと期待して読んだが
    これまでと同じ事実の整理に留まっている
    特に、太平洋戦争の開始は
    誰もが「合理的にはあり得ない」としたという指摘だが
    それゆえにこそ、開戦に至った謎
    何より開戦の決断のした者は誰なのか?
    77年を経て、自国の責任を明らかに出来ないこの国

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著者プロフィール

現職:筑波大学名誉教授
専門分野:日本政治外交史
代表著書:『「徴用工」問題とは何か――朝鮮人労務動員の実態と日韓対立』中公新書、中央公論新社、2020年
『幕僚たちの真珠湾』朝日新聞出版、一九九一年/吉川弘文館、2013年
『宰相鈴木貫太郎の決断――「聖断」と戦後日本』岩波書店、2015年
『国家と歴史――戦後日本の歴史問題』中公新書、中央公論新社、2011年
『太平洋戦争とアジア外交』東京大学出版会、1996年

「2022年 『国家間和解の揺らぎと深化』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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