生死の覚悟 (新潮新書)

  • 新潮社 (2019年5月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (208ページ) / ISBN・EAN: 9784106108150

作品紹介・あらすじ

はたして仏教は、「生死」のヒントとなり得るのか――。直木賞作家と「恐山の禅僧」の対話。信心への懐疑、坐禅の先にあるもの、震災とオウムなど、実存の根源的危機が迫る時代に、生きることと死ぬことの覚悟を問う。

感想・レビュー・書評

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  • 高村薫の転換点が阪神大震災だったということは聞いていた。そこで体験した「自分が死ぬということを覚悟する」ことが、その後の「晴子情歌」「新リア王」「太陽を曳く馬」の福澤影之3部作に結びつく。影之は高村薫の分身であったことを新書の中で告白している。そうやってみれば、生い立ちやライフストーリーは全然違うが、いくつか思い至るところがある。

    南直哉は、禅僧であり、道元の生き方の体現者である。どこから私淑したのかはわからないが、高村薫は彼を「師」と呼ぶ。
    びっくりしたのは、高村薫の小説作法である。「マークスの山」の水沢がフォークリフトを手足のように扱う様や、「柿照」の野田の熱処理加工管理の頭の整理の仕方など、もう自ら体験するほどに取材を徹底したのだとばかり思っていた。この「仕事」の描写が高村薫の魅力のひとつだった。ところが、高村薫は「現実の企業や組織を描くときに、現実だから迷惑をおかけしないように、直接の取材は絶対にしない」と決めているのだそうだ。信じられないが、どうもホントのようだ。南直哉は、取材もされていないのに、福澤影之が4ー5点にかけて自分とソックリで「小説のネタ元」疑惑をかけられたらしい。高村薫は、芝居ではなければ(^^;)、その事実をこの対談で初めて知り、大いに恐縮するのである。

    阪神大震災から13年間迷いに迷って、たどり着いた境地が、「太陽の」のラストらしい。期待して読みたい。

    南氏のいう。人は「死んで物体としての『死体』となり、あるときから『死者』となってあらわれる」という死の表現はピッタリくる。死とは何か。生とは何か。

    ここで、宗教の観点から展開される「オウム批判」は、決してメディアでは展開されていない部分だが、重要な部分である。直接言及以外、この本そのものがオウム批判になっている。

    内容全体が禅問答みたいなところがあるので、読む人を選ぶと思う。私は道元を体現したかのような南さんの境地に至りたいとは思わないが、唯一「(信じるとは何かという問いに対して)私は賭けだと思ってやっている」(126p)という説明には、納得するものがあった。私は私の信条が「絶対正しい」とは思ってやっていないが、やはり「これは賭けだ」という意識が何十年も前からあったからだ。

    「私は今、次の小説の準備もあって、ずっと歴史の本を読んでいます。中でも仏教の歴史を振り返るにつけ、日本人はこれまで「宗教」とどのように対峙してきたのか-ということを考えざるを得なくなりました」(122p)と言っているのは、まさに新著「我らが少女A」の話だろう。だとすれば、やはりかなり思弁的なお話になるはずである。

    先ず次に読むのは、「太陽を曳く馬」だ。暫く後のことになる。

  • 作家・高村薫と禅僧・南直哉の信心をめぐる対話。
    お二方の本を読んできた身としては、共に「信じること」に懐疑的ないし違和感を抱き生きてきた事実に正直驚いた。一方は永平寺で修行し霊泉寺住職の禅僧。かたや社会派小説と謳われつつもその根底に宗教と信仰が色濃く映した小説世界を構築する作家。対話を通して信心への懐疑を語る。
    その対話は世間に流布されたその安易なイメージとちぐはぐを感じる。同時にどこまでも言葉と理性で、信仰とは何か?信じるとは何か?座禅の先に何があるのか?悟るとは何か?と答えのない問いを思考で詰めていく。むしろ答えより「問い」が重要であるというお二人の言葉は、安易な言葉や説明に飛びつき一時的な答えで納得して誤魔化してきた私の日常と生き方に活を入れ檄を飛ばされたようで背筋が伸びた。
    複雑な世界で、答えのない問いに踏みとどまる。思考を放棄せず言葉と理性で踏みとどまる。そのつらさと悲しみ。それでも問いを抱えて生きる。そのための勇気をもらったようで(もちろんこれは錯覚だが)、これから何度か読み返そうと思う。

  • 福澤3部作、主に『太陽を曳く馬』の彰閑にそっくりだと周囲に指摘されたという南直哉さんと、彰之はじぶんの分身でもあると言う髙村さんの、“実在の根拠”を問う対談。実在の根拠というワードからしてもう挫けそうだったが、読むに限れば平易なことばのやり取りであり、読み通すことはかなったのでほっとしている。じぶんとして生きていることの苦しさがある意味強くなってきている時代、という感触には頷けるものがあり、さらに簡単に答えはでないことにも同意する。だが、問い続ける覚悟はとても持てないが、問い続けることをやめてはいけない。安易に答えを求めた先にあったものを、わたしたちは目の当たりにしているのだから。

  • 刺激的だった。南直哉と高村薫、もしかしたらこれは同一人物ではないのか?それほど思考が似通っている。二人の仰ることはとても難解だけれど、読むに従って「飢え」を感じる。なぜ僕には解らないのか。この二人の苦悩を自分も知らなければならないのではないか。とても落ち着かなくなるのだ。

  • 「新リア王」「太陽を曳く馬」をきっかけとして出会った作家・髙村薫と禅僧・南直哉の7年越しの対談集を「晴子情歌」からの3部作を読むための前哨戦として読んでみた。

    道元の「正法眼蔵」を軸に人間の実存と、「信心」への懐疑、「生死(しょうじ)」についての考えなど、二人のよく研がれた刃物のような言葉の応酬に脳が疲れ果てた。

    『死の重力に必死になって抵抗しながら、我々人間は生きている。その抵抗こそが生きる意味ではないでしょうか』
    南禅師の言葉が重い。
    「なぜ生まれてきたのか」「なぜ死ぬのか」「なぜ今ここにいるのか」という自分の実存に対する問いから逃げることなく、安易にどこかに答えを求めることなく、自分の頭で考え続けることが「生死のj覚悟」に繋がるのかなと背筋がちょっと伸びた読後でした。

  • 作家の高村薫さんと曹洞宗の僧侶南直哉師との足掛け七年間をまたいだ対談集です。

    ☆浄土真宗キリスト教
     この本は高村薫さんの『太陽を曳く馬』という本を読んでないとわからないみたい。それを読んでから読み直してみたいが、いつになるかわからない。

     いままで高村薫さんの著作を読んだことがなかった。非常にぶあつくてりくつっぽい本ばかりだから(苦笑)だと思ってたけど、肌があわない理由がこの本で判明した。
     
     高村さんの母方の家系は浄土真宗のお寺で、ご本人はなぜかキリスト教の学校に行かされたらしい。私は浄土真宗もキリスト教もあまり好きではないため、これまで高村薫さんの本とは縁がなかったんだとわかった。


    ☆モデル問題
     高村薫さんてものすご~い真面目な方なんだな、というのがこの本を読んでて伝わってきた。
     こんな真面目な方なら、モデル問題ももしあるなら、あとで問題にならないよう、事前にきっちり筋を通しておくだろうな、と思う。
     確かに、高村薫さんの男性的な部分をそのまんま抜き出せば、南直哉師(の良い部分)に似た形になるのかもしれない。ある意味ユングのいう「元型」に近いのかも。

     しかし、南師も人間であるため、いいかげんな部分があり、そこを高村薫さんに注意されていてほほえましかった。
     相手が僧侶の格好をしていると、在家の者はつっこみにくいものなのに、よく注意してくださったと思う。

     南直哉師は運の良い方だと思う。しかし出会いを運の良さに変えられるのも、その人の力量なのかもしれない。


    ☆オウム真理教スパイ問題
     南師が永平寺にいたころ、オウム真理教の者がスパイとして永平寺に潜りこんできたらしい。このころオウム真理教は各伝統教団にスパイを送り込んで、なにかエッセンス的なものを学ぼうとしていたらしい。
     永平寺に修行僧として入るには、それなりのコネとお金が必要で簡単には入れないと聞いていたので驚いた。なにか裏道があるのだろうか?

     まあ「事件は現場で起こってるんだ!」という意味で興味深い体験談でした。


    ☆「不信」の苦
     高村薫さんは根が真面目なのか、周囲の環境のせいなのかわからないが、自分が宗教を信じられないことが「苦」であったとおっしゃる。

     確かに「信じる」ということは一つの才能なのかもしれないけど、私自身はそれほど自分にその才能がないことに「苦痛」を覚えない。世代の差かな?

     南師の別の本で、「永平寺では道元禅師の木像に毎朝洗顔をさせてご飯をお供えしている」という話を読んで、超気持ち悪いと思ってしまった。
     道元禅師は自分の死後、弟子たちにそういうことをしてほしいと望んだだろうか? 絶対そうは思ってないと私は考える。

     曹洞宗のことだから後付けでいろいろ理屈はつけられるけど、なにかそういうことをしたいという感情が、後継の弟子たちの間にあったんだろうな、と思う。私には理解できんけど(笑)。
     私には世の中ほかに理解できない物事はたくさんあるので、この件もさして苦痛には感じない。世界観が高村さんに比べて杜撰なのかもしれない。




     

  • ふむ

  • 高村薫は好きな作家。

    最近の作品は少し難しくなったので、読み通すのがつらくなっているが、これは対談で話し言葉なのでわかりやすいい。
    宗教家の南さんとの対談。
    人間の存在とは何かについて宗教的な面からアプローチをしている。
    まず、絶対的な存在を信じることから始めなさいという教えが納得できない点で二人は共通しており、納得できる内容も多くあった。

  • 新書とはいえ重いテーマで、しかも間があいた不連続な対談のため、理解がしにくい。ある程度背景を知らないととてもわからないだろう。

  • 自分よりちょっと上の世代は、「自分で考える」習慣があるようだ。自分より下の世代は、考えることすらしないように思える

  • 7月1日読了。図書館。

  • これ程「信じる」という行為それものを疑ってかかる仏教本も珍しい

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著者プロフィール

(たかむら・かおる)作家。『銃を置け、戦争を終わらせよう』(毎日新聞出版)、最近著『墳墓記』(新潮社)、『我らが少女A』(毎日文庫)など。

「2025年 『核と原子力の非人間性』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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