脳の闇 (新潮新書)

著者 :
  • 新潮社
3.34
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本棚登録 : 839
感想 : 68
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106109836

作品紹介・あらすじ

ブレない人、正しい人と言われたい、他人に認められたい――集団の中で、人は常に承認欲求と無縁ではいられない。ともすれば無意識の情動に流され、あいまいで不安な状態を嫌う脳の仕組みは、深淵にして実にやっかいなのだ――自身の人生と脳科学の知見を通して、現代社会の病理と私たち人間の脳に備わる深い闇を鮮やかに解き明かす。五年にわたる思索のエッセンスを一冊に凝縮した、衝撃の人間論!

感想・レビュー・書評

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  • これ、かなり面白かったです。めったにつけない★5つにするか迷ったぐらいです。

    中野信子さんは私とほぼ同世代のとびっきりの才女だと思います。中野さんの著書はけっこう好きで読んだのはたしか、この作品で9冊目になります。そこそこコアな中野ファンと言っても良いでしょうか。

    これだけ面白い本なのにこの感想を書いている時点でのこのアプリでの本書の評価が3.17とは意外です。著者がバカには読めない本と過激なこと書いちゃったりしてるので、やっぱり好みの問題もあるんでしょう。

    本書はそれまでの中野作品とは少し趣きが異なっており、エッセイ的というか自伝的要素が多分に含まれている新書となっています。オブラートに包まない本音がバンバン書かれているなという印象です。
    何なら新書って言うよりハードカバーで出しても良かったんではないかと思いました。

    脳科学の視点から中野さん自身や人間の傾向などのようなものを解き明かしています。

    誰にでも承認欲求はあり人間ほどこの欲求が強い動物は他にいない。中野さん自身もとある男性とのやり取りでまざまざと自身の承認欲求を思い知らされたことが書かれています。

    著者の体験を通して、自身をコントロールしようとしている人には必ず心のスキマ=不安があり、ここを突けば好意を得られるらしいです。

    生きていく上で、あいまいにしておくという解決法をもっておくのは極めて重要で、わからなさとの共存も大事だと。脳は複数の考え方をあいまいなまま抱えておくことは心地よくないものだが、分からないを受容することが長期的に見れば自分を守るための有効な手段になりうるとのこと。私のなかに腑に落ちるものがあり、納得感がハンパないです。

    正義中毒についても言及されています。
    人間は、正義の味方としてルールから逸脱した誰かに制裁を加えることが快楽となる。糾弾は自省よりたやすい。不謹慎を叩く快感。自分とは全く無関係な赤の他人の不倫のバッシングはまさに最たる例ですね。
    所詮他人事の「どうでもいい」という絶妙な距離感が大事で「どうでもいい」という感覚は投げやり的に見えるが、他人に一貫性を求めず、社会を健全に保つには良い距離感を示す絶妙な指標かもしれません。

    とこんな感じのことが解説されています。
    それにしても著者が表面的にも読めるが裏の意味的なものも含んで書いているとありましたので裏の意味が大変気になります。私は著者の言うところのバカなのかよくわかりませんでした。どなたかご教授頂ければ幸いです。

    • 本ぶらさん
      この本、実はTAKAHIROさんの感想を見て、読んでみようと思ったんですよ(^^ゞ

      もちろん、それは、TAKAHIROさんの感想にある...
      この本、実はTAKAHIROさんの感想を見て、読んでみようと思ったんですよ(^^ゞ

      もちろん、それは、TAKAHIROさんの感想にある「著者がバカには読めない本と過激なこと書いちゃったりしてる」を見て、オレがバカなのかどうなのか試してみようって張り切ったわけですね(爆)

      中野信子は前にヤマザキマリとの対談本『パンデミックの文明論』を読んで、トンデモなことからの発想を飛躍させるところがユニークで面白いと思った反面、バラエティ番組の御用学者っていうイメージが強くて。
      ぶっちゃけ言うと、あんまり印象がよくなかったですね(^^ゞ

      ただ、TAKAHIROさんの感想を読む限り、自分の考え方と似た考え方をする人なんだろうなーっていうのは思ってました。
      (実際に会ったらとんでもなく頭がいいであろう人に、自分と同じ考え方をする人なんて言ったらおこがましいですけどねw)

      そんな感じで読み始めたわけですけど、これって、前書きと後書きはともかく、中身は雑誌に連載していたものだったんですね。
      それを踏まえると、例の「バカには読めない本」は、中身ではなく、前書きと後書きにこそあるんじゃないでしょうか?
      ていうか、雑誌連載の中身は「バカには読めない本」を成立させるために
      、うまく“使った”みたいな感じ?

      そんな風に考えると、この本っていうのは、学者である中野信子と、本を書いたりバラエティ番組に出ている著者が抱えるアンビバレンツを「わかってよ!」という本なのかなーって自分は思いました。
      つまり、私(著者)は「迷わない人」ではなく、本当は「迷う人」なのだから、「迷う人」は私(著者)を「迷わない人」と思わないでね、ということを著者は言いたいんじゃないか?って。

      ただ、自分が思ったそれは、著者が書いているように、“ほとんどの人間は聞きたいことしか聞かない”、“その上、自分の話したいことにしか関心を持たない”ってことにすぎないのかもしれませんけどね(^_^;)
      2023/12/05
  • 山手線の驚異的な正確さと「いじめ」の関係 中野信子氏が解説する「正義のやっかいさ」 | デイリー新潮
    https://www.dailyshincho.jp/article/2023/02100608/?all=1

    中野信子 『脳の闇』 | 新潮社
    https://www.shinchosha.co.jp/book/610983/

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「脳の闇」中野信子著|日刊ゲンダイDIGITAL
      https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/b...
      「脳の闇」中野信子著|日刊ゲンダイDIGITAL
      https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/319707
      2023/03/08
  • 中野先生の本は「分かる人にだけ分かればいい」というスタンスで書かれてるものが多いなとは以前からわかってはいたけれど本書はもう「はじめに」ではっきりとそう書いてある。
    あなたの本書への理解力があなたの知性レベルですよと最初から言われてしまっては挑むような気持ちにならざるを得ない。
    で、「あとがき」にも同じようなことが書かれている。
    わかりやすく書くのが疲れるからそうは書いてない、できるだけ回りくどく読みづらく書き、理解できないのは私のせいではなく読み手の知的水準が低いせいだと念押しする。

    私が本書を読み終えて、中野先生が書きたかったこと伝えたかったことをどれほど正確に受け取れたか定かではないけれど、先生がおっしゃるほど読みにくく分かりにくくもなかったように思う。案外わかるように書いてくれたのではないか?と思われるところもあった。
    ただ、漏れ出てしまう知性のせいなのか御本人的に斟酌皆無のせいなのかわからないけどものすごく「上から」物を言われてるなと感じる箇所は多々あった。嫌だなと思う前に、それだけ生きにくい人生を過ごしてこられたのだなということはよく伝わったと思う。

    第二章の、あいまいさを保持しておく知力という内容に注目した。最近たまに聞く「ネガティブケイパビリティ」というものと同一のことを言ってるのかなと感じた。(違うかもしれないけど。違ってたらそれは私の知性が足りないってことですね?、中野先生)確かにこれからの時代はあいまいさを保持する力自体を認識しておくことは、先生のおっしゃるように自分や自分の大切な人を守ることにおいて一層大事になってくるだろうと気づかされた。そういうことを自覚していることと無意識でいることの差は大きいと思う。これはすごくためになった箇所だった。
    第三章「糾弾は自制よりたやすい」の最後に「たとえ多くの人の目には醜悪に見えたとしても、どんなことがあってもしぶとく生き延びる、という価値観がもっと評価されてもいいのではないか」とある。
    私はこれを読んで小説「流浪の月」を思い出した。あれは「醜悪に見えた関係性の、外には見えない繋がりの真実」を描いているが、人からどう見られるかよりも自分が生きたいように生きられるのかの方が遥かに大切なのだという当たり前のことを深く思い知らされる。

    第五章「ポジティブ思考の暗部」には先生ご自身の自身の辛い経験の一つが書かれている。
    この章は読むのが辛かった。でも辛くてもこれは必要な言葉だと感じた。
    この章を読むことで救われる人はたくさんいるように思う。

    各章に、はっとする文や考えさせられる考え方が明示されとても興味深い一冊だと思う。
    多分何度も読み返すことが必要な本でしょう。
    けれど、必要な人と必要でない人ははっきり分かれるような一冊です。
    私には必要な一冊でした。…しかし私は基本的には一度読んだ本は読み返さないですね。

  • 中野信子さん大好きで、共著含め23冊目です。
    今回はちょっと難しいし、辛辣です。
    これが初めての中野信子さんだったら、
    もう次は無いかも?いや、どうかな。

    あ、面白かったし、たくさん教えてもらえたし
    読んで良かったです。
    でもたとえば

    〈オカルトみたいな話で、どうも気が引けるけれど、
    子どもの頃から、あの人がいなくなればいいのにな、
    と思うといつの間にかその人が病気になってしまったり、
    その人が消えてしまえばいいのにと強く思うと
    本当に死んでしまったりしたことがあった。
    もちろん、偶然だろうと思ってはいる。
    けれど、説明をつけることができなくもない〉

    これ、怖くないですか?
    さらっと通り過ぎでしまいそうだけど。

    朝井リョウさんが切り貼り怖いとどこかに書いていたので
    このたび中野さんに敬意を表して
    なるべく誤解のないように載せたつもりですが。
    (余談ですが、最近岡本カウアン君の発言をしばしば見て
    感心することがたくさんある反面
    時々「え、それ言って大丈夫?」と。
    都合よく切り取られるのではないかと心配してしまいます)

    と言いながら、これからも中野さんに必死についていきます。
    そんな私の脳はどうなっているんでしょうね。

  • 自身の体験を交えて書かれていることから、エッセイ本のような感がある。なので、読んでいて「勉強している」といった感覚はなく、「読み物として面白い」。
    個人的には、読み進めるうち「橘玲の本っぽいな」とも思った。

    (電子書籍に収録されているかわからないけど)あとがきまで、ぜひ読んでほしい。いや、むしろあとがきから先に読んだほうがいい。「バカには読めない本」「あなたの知的水準がいまいちなのは私のせいではない」と、はっきり書かれている。著者のスタンスが分かる。

    内容とは直接関係ないが、
    “~だけれども。”という言い回しが目立った。いたるところに、“~だけれども。”があって、これは何かを意図しているのだろうか?と思ったほど、この表現が多かった。それがクセなのか、わざとなのか、わからないのだけれども。

  • 脳科学者の著者が、雑誌に連載した論考をまとめ、脳科学から自身の半生までを綴ったバラエティに富んだ一冊。
    いくつか留めておきたい片句が。
    第二章『脳は、自由を嫌う』で、脳は自由が嫌いなのだと論じ、政治家などに対し、論理的な根拠もなく、この人に味方したいなどという気持ちを感じたら、「これは脳に仕掛けられた罠かもしれないと、立ち止まるくせをつけて欲しい。その人が正しいわけでもなんでもなく、ただ脳内麻薬を分泌させられているだけなのだから」と、警告する。
    おりしも統一地方選挙のただなかであるし、心に留めておきたい文言だろう。
    第三章『正義中毒』では、誰しもが陥る正義中毒について論じる。
    「ネットなどで第三者がさしたる根拠もなく他人を断罪してしまえるのは、正義の執行自体が快感であることに加え、他人を『あいつはダメだ』と下げることによって、相対的に自分が置かれている階層が高くみえるからである」
    著者はこの快感にハマってしまうことを「正義中毒」と読んでいる。
    第八章『言語と時間について』では、言語を持っている特殊な生物である我々は、思考の上で時間軸に沿った移動が出来る、と。
    未来や過去を思えるゆえ、過去を思い出して現在に役立てたり出来る一方で、未来を悲観して不安に苛まれたりしている。
    少子化が未来を悲観してというのが理由なら、世代を超えた緩慢な自殺と言っても言い過ぎではないかもと、まで著者は言っているが。

  • テレビで有名な脳科学者の方のエッセイ。

    第6章の「やっかいな私」は、著者自身の過去を告白する内容でとても面白かった。ここに、孤独願望を強化する働きをもつホルモンは、男性ホルモンのテストステロンで、この値が高いと他人から干渉されずに一人で過ごす事を好むようになる、とあり自分に当てはまるようであった。

    逆に女性は基本的に寂しく、常に誰かがいる事で安心する傾向がある。安心感をもたらすセロトニンの合成能力は男性の3分の2程度らしい。女性が感じる寂しさの肌感は独特で、理由の分からない漠然とした不安や哀情が浮かび、誰か他にやり取りできる人がいさえすれば、一時的に抑えることができるとある。そこで手近な夫などにぶつけてみても、理解されず相手にされないことが多く、それが主婦の目立った不満として集約されるらしい。勉強になった。

    ちなみに男性は、銃を手にするだけで唾液中のテストステロン濃度が100倍にも上昇するらしい。他にも筋トレや闘争状態、不倫などのステディでない相手との性行動、高級スポーツカーに乗る事でも分泌が促される。

    男女ともホルモンに振り回されている感があるが、それも進化の過程で身に付けた性質の名残が断片化されたものだとあり、諦めるしかない。

  •  やっぱり好きだな~中野信子さん。いつ読んでも良い。彼女の悩んでいる姿は同性でも色気を感じてしまう。皮肉が小気味良く響く。論調にビリビリと痺れる。私がファンになる人達は色気を伴い私にビリビリと電流を流してくる。その色気と電流に上せファンになるのだ。
     色々な話題がエッセイ的に分散しているので痺れポイントを全ては書けないので絞ると「一番安い物を選ぶタイプ」。「周囲の人に恵まれている時はいいのだが、他人を操作するタイプに出会った時にその標的とされて被害を受けやすい。」…その通り。「自分を粗末に扱うことに慣らされ、搾取されることがあなたの存在意義だと教えられて、そこから逸脱する事を許されて来なかった。」中野氏も若い頃はそんな部分があったとある。早めに気付いて良かった。母親から距離を置き精神的自立に成功している。「自分を粗末に扱わない、という態度は自分をリスクから遠ざけ、自分は大きな価値を持つものだと、自信をもって言う事が出来る。」共感しかない。拠り所と知見が無く感覚の鈍い人達なら家族とは仲良くやっていくべき、という昔ながらの社会から押しつけられた国家運営に都合の良い通念を無条件に信じ、親のことを嫌うなんて可哀想な事だよね、等と言うだろう。自分の心を守ることが一番大事な事なのに、こちら側の事情等を推察するという概念や配慮、想像力も無い。
     「気難しい自分の扱い方」
    「相手に合わせるためのやる気を出すことが不可能なのである。」「この相手に合わせることによるメリットはコストに見合わない」…共感しかない。孤独になりたくないだけで合わない誰かと一緒に連むくらいなら進んで孤独を選びたい。ずっと気楽だ。「素焼きの器を障ることが出来ない。そこにある潤いを貪欲に奪っていくという有り様が、どうも気に食わない」この方、図々しくないんですね。そして今まで他者から図々しくされてきた経験があるのでしょう。嫌気が差している。女性は図々しさが出て来ると若くても醜く見える。(美しさに老若男女は関係無いですが)私の周りにも図々しい女性が沢山居る。辟易する。ヘドが出る。自分が醜く見えてることに気づかない。中野氏のいう「いい人仮面」をつけているので自分は「いい人」を演じているんだろうけれど勘が鋭い人はすぐに見抜く。その醜さを。印象も含めて顔。造作が良くても醜く見える。
    中野氏が美しく見えるのは彼女の純粋な精神性。顔に出てる。
     中野氏とは凄く気が合いそう。多分お会いする事はないだろう事は残念だが、彼女の知的レベルについて行けるように今後も勉強していきたい。
     アポロンとカッサンドラの引用、格好いいね!
     

  • 注:ネタバレ設定にしていませんが、内容にかなり触れています



    読み始めて、すぐ思ったのは、この人(著者)は何をそんなにイライラしながらこれを書いているんだろうか?という疑問。
    「はじめに」にある読者からの“ファンレター”(なの?w)が本当にそういうものがあったのか、それともこの話に必要で適当に作ったものなのかはわからないけど、それらに何で、いちいち、くどくど、イチャモンを書き連ねているんだろう?とw
    それこそ、この著者が夜、暗い部屋で、怒髪天をつくような形相で、パソコンにブツブツ悪態つきながら、この原稿を書いている様が頭に浮かんでしまったくらいだw

    ただ、イライラしながら書いていた(か、どうかは定かではないがw)のは本の原稿だ。
    本の原稿っていうのは、おそらく普通は一度ざっと書いた後、読み返して推敲すると思うのだ。
    読み返せば、自分はなんでこんなにイライラ書いているんだろう?と可笑しくなってくるはずだ。
    可笑しくなっちゃえば、「こんな風にイライラしている私って、カッコワルイよね」と原稿を修正して。
    その修正した原稿が本(商品)になると思うのだ。

    でも、これは、そのイライラ、くどくど、怒髪天を突いた形相(あくまで想像w)でキーボードを叩きまくって書いたとしか思えない文章が本になっている。
    ていうかー、本の原稿ということは、出版社の編集の人も読んでいるはずだ。
    出版社の編集の人が読んでいるということは、少なくとも編集の人は、これが“消費者がお金を払って買い求める商品(本)になる”と考えたということだ。
    ということは、このイライラ、くどくど、怒髪天顔(想像w)の「はじめに」には理由があって。
    最後まで読めば、納得のいくオチがある、ということになる。
    いやぁー、それは楽しみだぁー!、と。
    その後は、イライラ書いていたかと思うと、一転、妙にへりくだった態度の文章になるという、そのめまぐるしさに、いっやー、この本、この後はどんな展開になるんだ?という『脳の闇』とは違う興味で、もー、ニヤニヤ、ニヤニヤ(^^ゞ

    とはいえだ。
    これは、新潮新書だ。
    新潮新書には、大概ツマラナイという定説がある(爆)
    いや。定説といっても、自分がつくった定説なので、他の人は絶対知らない。
    というか、あくまで数冊読んでの定説なので、まー、どこまで信じていいのやら、自分ですらわからないが。
    とはいうものの、それでも、まー、新潮新書というのは、なぜか、どれも竜頭蛇尾の腰砕けでつまらないw
    つまりだ。
    ブクログの感想に、久しぶりに★1つをつけるのも悪くないんじゃない?、と。
    なんだか、著者のイライラがすっかり移っちゃったみたいで、もー、ワクワク(^^)/


    そんな新潮新書wの、中野信子の本だが。
    著者のことを知ったのは、テレビ番組の「SWITCHインタビュー」だったと思う。
    競技飛行って言うの? 何年か前、幕張辺りの海岸でやってたヤツ。
    そのパイロットの方と一緒に出たそれを見て、具体的な内容はほとんど憶えていないのだが、それでも興味深く見た記憶はある。
    当然、著者にも好感を持った。
    それが、ガラッと変わったのは、ある夜、テレビを特に決まった番組を見るでなく、ちょこまかチャンネルを変えて見ていた時(ザッピングってヤツね)、何かのバラエティ番組に著者が出ているのを見た時だ。
    なんだ。この人って、バラエティ番組で、視聴者ウケする「答え」を科学的っぽく言う役回りのタレント、言ってみれば、バラエティ番組御用達学者だったんだ、と。
    一気に評価が下がった(爆)

    ただ、その後。
    ヤマザキマリとの対談本『パンデミックの文明論』を読んでいたら、また印象が変わった。
    あの対談の中で、この人が「こうなんじゃないかなーと思う」みたいに、(知見ではなく)感覚で言う時の話がすごく面白かったのだ。
    それこそ、まっとうすぎて面白くも何ともない人wがなんにも考えずに「非科学的!」と切り捨てちゃうような、ちょっとトンデモな話題wに対する見解? 解釈? 想像(の飛躍さ加減)?に、この人ならではのユニークさがあって。
    あー、この人って、いわゆるガチガチの学者じゃなくて、常に好奇心にまかせて無意識にいろんなことを見たり感じたりしていることで、特有のひらめきがあったり、すごく勘がよかったりするんだろうなーと感心してしまったのだ。
    いや、ま、ついでを言うと、例のステイホームで、真っ昼間のワイドショーとかにも出ているのを見たりもして。
    この人、なんでこんな番組に出ているんだろうね?とも思ったんだけどさw

    ちなみに、この人、ウィキペディアを見ると、「ビッグベン」という、文化人やタレントのテレビ等の出演をマネージメントする会社に所属しているとかで。
    つまり、バラエティ番組に出ている著者を見て、「この人って、バラエティ番組御用達学者だったんだ」と思ったのは、当たらずとも言えど遠からずだったらしい。

    いや。ウィキペディアで見たかったのはそれではなく。
    この人って、いままでどんな本を書いていたんだろう?というのを知りたかったのだ。
    でー、それを見ると。
    ま、タイトルだけで内容を判断するのもなんだけど、最初は、“世界で通用する人がやっていること”とか、“脳を使いこなすテクニック”、“脳のしつけ方”みたいな、いわゆるライフハック情報に関心がある人向けの本を書いていたようだ。
    ただ、途中からその方向が微妙に変わって。
    “サイコパス”をはじめに、“いじめ”、“他人を引きずり下ろす快感”、“不倫”、“キレる”、“同調圧力(共著)”、“女らしさ(共著)”等々、人が持つ厄介な面(ま、女らしさは全然やっかいな面ではなく、むしろいいことだと思うだけど。でも、今は集団ヒステリーで、それも“人の持つ厄介な面”にされちゃっている…、のか?w)についての本が多くなっている。
    その変化は、著者の意向によるものなのか? それとも、出版社の意向や、読者という消費者のニーズによるものなのかはわからない。
    ただ、自分の記憶だと、この人の本が本屋等で目につくようになったのは書く方向が変化して以降の本なので。
    売れ行きは、たぶん方向が変わってからの方が好調なんだろう。
    (注:ブクログを見ていて気づいたけど、ウィキペディアにある本は全部ではないようだ)

    そういえば、この本を読んでいても、上記の承認欲求や、身勝手な正義感を言い訳にした(たんなる鬱憤晴らしにすぎない)誹謗中傷のような、人のやっかいな面についての話が繰り返し(くどくど?w)出てくるから。
    著者はそれらの、“人が持つ厄介な面”が社会にもたらす害悪に対して危機意識のようなものがあるのだろう。
    いや、危機意識というよりも、たんなる学者としての興味なのかもしれないがw


    ……と、ここまで、さんざん嫌味たらたらで書いてたので(爆)
    まるで著者のことを茶化しているようだが、決してそんなことはない。
    いや、本当に(^^ゞ
    というのは、自分がこの本を読もうと思ったのは、この本に書かれていることって、たぶん、自分の考え方にかなり近いんだろうなって思ったからだ。
    ていうか、それ、実は前に読んだ『パンデミックの文明論』でも感じていた。
    そんなこんなで、このグチをくどくど書き連ねたみたいな内容wや、話題がとりとめもなく出てきて、ちょこちょこっと語ってはまた次の話題に進む内容にイライラさせられながら読んでいたのだがw
    でも、そんな中、「第二章:脳は、自由を奪う」のところ。
    P47にある、“人の言葉を聞かず、決断力があり、我が道を行く「迷わない人」がいたら、真っ先に私はその人のことを疑う。(中略)その人が本当に人の言葉を聞かず、合わせることを厭い、迷いも戸惑いも感じない人なのか、それともそう見せかけておくことで大衆の称賛を得ようと媚びているだけの人なのかを探ろうとするだろう”、
    なんかはすごく同感だ。
    ていうか、“大衆の称賛を得ようとしているだけの人”、だけでも言いたいことは十分伝わるのに、いちいち、“媚びている”を付け加えて。
    “大衆の称賛を得ようと媚びているだけの人”とした、そのセンスは大好きだ。
    のみならず、その後、“残念ながら、多くの「迷う人」は、「迷わない人」がとても好きだ”と続くところなんかは、もはやエクセレントと言うしかないw

    わかりやすくて、誰もが飲み込みやすい例で言うと、人気のある政治家だよね。
    ま、安倍さんがその「迷わない人」にあてはまるかどうかは何ともだけどw、昔の小泉さんなんかが、まさにその「迷う人」が好きな「迷わない人」だと思う。
    (岸田さんの支持率が低迷しているのは、「迷わない人」に見えないからだよね。たぶん)
    ただ、それは、あくまで誰もが飲み込みやすい例で。
    著者がここで言っているのは、たぶん、そういう人たちではないんだろう。
    著者がここで言っている「迷わない人」というのは、おそらく、「迷わない人」を装うことで「迷う人」が求めている意見や情報を発信してお金儲けをしている人たち、のことだと思う。

    つまり、中島みゆきの「時刻表」の歌詞に出てくる、
    “誰が悪いのかを言い当てて、どうすればいいのかを書きたてて、
     評論家やカウンセラーは米を買う。
     迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う。
     あとをついていけさえいれば、なんとかなると思う。
     見えることと出来ることは別物だよと米を買う。”
    のような連中のことを言っているんだろう。
    もっとも、「時刻表」は1980年代初め頃の歌だから、そこに上げられているのは、“評論家やカウンセラー”くらいだけど。
    今は、「迷う人」向けの本を書いている人やユーチューバー、有名人、タレント。あるいは、テレビでその手のことを言ってギャラを貰っている専門家や学者等々、雨後の筍のごとくいるw
    (ていうか、今後はそこに、AIやそのAIを使った会社やサービスも入ってくるのだろう)

    さらに言えば、「時刻表」の頃は、“誰が悪いのかを言い当てて、どうすればいいのかを書きたてて”だったけど。
    今、それらが(自らの金儲けのために)言う/発信するのは、「迷う人であるアナタが共感したり刺さる言葉、あるいは、自分の言いたいことを代弁してくれた気がする言葉、等」だったりする。
    (もしくは、毎日○○を食えば痩せる、毎日1分✕✕をすれば長生きできる的なあれw)

    つまり、迷う人であるアナタが、誰かが言っているそれを聞いて共感したり、刺さったり、あるいは、自分の思いを代弁してくれる言葉や情報というのは、迷う人であるアナタのことを心配したり、思って言っているのではなく。
    それを言えば、迷う人であるアナタが共感したり、刺さったり、あるいは、自分の思いを代弁してくれると思う、とわかっているからこそ、それを言うのだ。
    つまり、それは、それを言えば、迷う人であるアナタが共感したり、刺さったり、あるいは、自分の思いを代弁してくれていると感じることで、(それを言った人が)お金が儲かったり、名声を得られるから言っているにすぎない、ということだ。

    上記は、人ではなく、テレビ番組にしたら多少わかりやすくなるかもしれない。
    テレビ番組から発信される、迷う人であるアナタが、誰かが言っているそれを聞いて共感したり、刺さったり、あるいは、自分の思いを代弁してくれる言葉や情報というのは、迷う人であるアナタのことを心配したり、思って番組作りをしているのではなく。
    番組でそれを言えば、迷う人であるアナタが共感したり、刺さったり、あるいは、自分の思いを代弁してくれると思う、とわかっているからこそ、そういう台本を作って。タレントや学者にその台本通りのことを言わせる。
    つまり、テレビ番組は、番組でそれを言えば、迷う人であるアナタが共感したり、刺さったり、あるいは、自分の思いを代弁してくれていると感じることで、番組の視聴率が上がり、視聴率が上がればCM収入も増えるから、それを言っているにすぎない。
    そういうことだろう。


    ま、自分はケチなので(爆)
    迷う人である自分が、それを聞いて刺さったり、共感したり、自分の思いを代弁してくれたと感じることで、他人が金儲けしているのは無性に腹立たしいわけだ(^^ゞ
    だから、その手のことを言う輩なんて、「犬も食わん!」と鼻も引っ掛けてやらないw
    そんなことを書くと、「いや、それ。やっぱり、犬だけに、わん?」なんてツッコんでくれる楽しい人もいるかもしれないがw
    まー、そういう楽しい人はいないかもしれなけどw、でも、世の中には、オレ/わたしが、それを聞いて刺さったり、共感したり、自分の思いを代弁してくれたと感じることでで、オレ/わたしの気持ちが少しでも楽になるなら、別に他人が金儲けしても全然構わない!という奇特な人wはいるのかもしれない(^^ゞ

    ていうか、冗談は横において。
    インチキ宗教や、口からでまかせユーチューバーにすがりながら、なんとか自分自身を保って暮らしている人だっているのは確かだ(詳しいことは知らないけど、自分の祖母も創価学会にすがりかけた時があったらしい)。
    それは、著者も十分わかっているんだろう。
    だから、この本ではオブラートに包んで、あえて例をあげないようにしている……、のか?、どうかはわからないが。
    (ぶっちゃけ、例をあげるのが面倒くさかっただけじゃねぇーのーって気はするw)
    ただ。
    その手のインチキ宗教や、口からでまかせユーチューバー、あるいは番組の台本通りにしゃべる専門家や学者、タレントの言葉や発信するデタラメが刺さったり、共感したり、自分の思いを代弁してくれたと感じることが出来るなら、他人が金儲けしようと、名声を得ようと、視聴率が上がろうがオレ/わたしには関係ない!と野放しにすることは、回り回って世の中に害悪をもたらすわけだ。
    それが一番わかりやすいのは、統一教会だろう。
    統一教会(今は、世界ナンチャラ連合?)に、お金を貢いでくれそうな「迷う人」を勧誘するためのユーチューバーがいるのかどうかは知らないが。
    90年代に統一教会が大きな問題になった頃にユーチューブがあったら、間違いなくユーチューブで「迷う人」が、刺さったり、共感したり、自分の思いを代弁してくれたと感じる言葉や情報を発信して勧誘していたはずだ。

    ついでに言えば、インチキ宗教や口からデタラメユーチューバーではないが、ブッキング・ドット・コムが宿泊施設側に不当な不払いを続けている問題のように、消費者が便利にばかり目を奪われて企業サービスを利用することが、結果的にブラック企業を増長させている実態は上記の状況に近いと言えるだろう。

    ていうか。
    これもユーチューブではないんだけど、確か、2000年代の初めくらいだったかなぁー。
    メルマガ(←死語?)に、名言セラピーって言ったかな? 要は、いろんな人の「名言」を毎日、登録したメールアドレスに送ってくれるメールマガジンがあって。
    「セラピー」とあるように、仕事の合間なんかにを読むと、ちょっとホッとさせてくれたり、身近にあったことを考え直せたりするので、重宝して読んでいた記憶があるんだけど。

    その「名言セラピー」が、ある時、“トイレ掃除をすると幸運が訪れる”みたいなことを言いだしたのだ。
    さらに、“僕も/わたしもトイレ掃除したら、こんな幸運が訪れました”的な、読者の話を紹介するようになった。
    それは、さらにエスカレートしていって。
    やがて、そのメルマガの内容は、毎日、“素手でトイレ掃除した方が、より大きな幸運が訪れる”とか、“掃除するトイレは公衆トイレの汚ければ汚いほど効果がある”、みたいな話ばかりになっていった。
    その新興宗教じみた気持ち悪さに、即座にメルマガを解除した……、
    なんてことがあったんだけどー。

    そこまで書けば思い出す人もいるかと思うんだけど、そう。例のビッグモーターの(親の威を借る)副社長wが社員に言っていた(と報道された)ことが、まさにその「素手でトイレ掃除」だったわけ。
    もちろん、(親の威を借る)副社長wは金持ちの息子だから。
    そういうお金持ちの御曹司wが素手でトイレ掃除するわけなくて、たんに、そういうタテマエのキレイゴトを「これを言ってるオレって謙虚でエライよね?」と自らに酔って言うことで、社員をいじめを楽しんでいただけなんだろう。
    いや。ビッグモーターの(親の威を借る)ぼんぼん副社長wが言ってたそれの出ドコが、そのメルマガかどうかなんて、もちろんわからない。
    そうかもしれないし、そのメルマガをコピペしたネット記事で知ったのかもしれない。
    ていうか、たんに、デタラメヤローや、社員いじめをすることが副社長の仕事だと勘違いしている大馬鹿者の考えつくことは、結局一緒ってことなのかもしれない。
    でも。仮にその出ドコがそのメルマガの記事なんだとしたら、あの時、それを書いたメルマガの作者と、その記事に共感して素手でトイレ掃除した読者(が本当にいたのかは定かではないがw)の共感という盛り上がりが回り回って、社員に素手でのトイレ掃除を強いるという明らかなパワハラを生じさせた可能性はある。
    そのことについて、あのメルマガの作者がどう思っているのかは知らない。
    ていうか、あの作者が今どうしているかすら知らない(相変わらず素手でトイレ掃除してたりしてw)。
    だって、あんなデタラメヤロー、犬も食わないからだw
    でも、たぶん、ビッグモーターの(親の威を借る)ぼんぼん副社長wのそのニュースを見たところで、なんとも思わなかっただろう。
    だって、メルマガの作者にとっては、自分のメルマガを発信して名声やお金を得ることが何より大事で。
    メルマガを読んだ読者が、そこに書かれたことを根拠にパワハラしようと、素手でトイレ掃除した人がO157等有害な細菌をバラまくことになっていようと、あのメルマガの作者にとってはどうでもいいことだからだ。
    そのように、「迷わない人」の言っていることに共感したり、刺さったり、あるいは、自分の思いを代弁してくれる感じることは、回り回って社会に害をもたらすことなのだ(^^ゞ

    でも、「迷う人」が、「迷わない人」が言っているそれを聞いて共感したり、刺さったり、あるいは、自分の思いを代弁してくれる感じることでもしなきゃ、つらい日々をやり過ごすことが出来ないみたいなことは誰にでもあるんだろう。
    こんなことを書いている自分も、「素手でトイレ掃除すると幸運が訪れる」みたいなデタラメ記事を読むまでは、あのメルマガを読んで慰められていたことがあるのは確かだ。
    とはいえ、そういうデタラメにすがるのを、一刻も早く断ち切らなければならないのも確かだろう。
    なぜなら、その手のデタラメは、それを信じたり、すがっている人が多ければ多いほど、そのデタラメに関係ない人もまっとうで正しく感じるようになるからだ。
    その一番の例が、オウムとオウムが起こした数々の事件だ。
    この本に書いてあることをオウムにあてはめると、オウムの教祖である松本智津夫は「迷わない人」だったから、多くの「迷う人」である信者はその言葉を信じたという図式になる。
    でも、その「迷わない人」って、(報道によれば)捜査された時は秘密の小部屋にウ●コまみれで隠れていて、捕まった後は一言もしゃべることが出来なかったというから、実は無茶苦茶ダサくてカッコ悪い人だったわけだ。
    また、オウムじゃないけど、あのガーシーとかいう人だって、ドバイにいた頃はいかにも「迷わない人」だったけど。
    いざ裁判になったら、途端に被害者に謝罪しちゃったわけだ。
    謝罪したってことは、ユーチューブでさんざん誹謗中傷してたことは全部デタラメと本人が認めたということになる。
    そのニュースを見た時は、「この人、いくらなんでもダサすぎだろ…」と呆れてしまったんだけど(^^ゞ
    でも、まー、「迷わない人」の正体なんて、実はどいつもこいつも、そんな程度のチンケな人なのだ。
    まっとうに生きてないから、「迷わない」ように見えるだけってことなんだろう。

    「迷わない人」といえば、NHKのやたら早口の人が、ミョーに余裕たっぷりに説明する番組の「シティポップ」の回で紹介していた内容って、ほとんどウィキペディアに書いてあることだったしなw
    今は、時代が情報至上社会(それを知っている俺/わたしってカッコイイでしょ?w)だから。
    あんな風に、余裕ぶっこいて、賢し気にしゃべれば、多くの「迷う人」はそれを無条件に正しい情報だと信じて。
    「あの人はなんて頭がいいんだろう?」と、無邪気に喜んでいるってことなんだろう。
    いや、何かを信じて無邪気に喜んでいるって意味じゃ、オウムや統一教会、60〜70年代のマルキシズム信奉者、紅茶キノコに、あるある大辞典やためしてガッテン等々、昔もそれは同じだったんだけどね(爆)




    そんな、この『脳の闇』だが。
    「第一章:承認欲求と不安」、「第二章:脳は、自由を奪う」くらいまでは、ツッコミ入れたりしながらも、まー、そこそこ面白く読んだ。
    ただ、それ以降は、うーん…(^^ゞ
    ぶっちゃけ、「第三章:正義中毒」、第四章:健康という病、第五章:ポジティブとネガティブのあいだ、第六章:やっかいな「私」、第七章:女であるということ、は面白くも何ともない(ところどころ面白いことも書いているんだけどね)。
    まー、この『脳の闇』を読もうかどうしようか迷っている人で、自分のこれをここまで読んでいる人がいるとは思わないが(爆)
    この本で、いろいろ考えながら面白く読めるのは、第八章:言語と時間について、くらいで。
    あとの第一章〜第七章までは、目次で見出しを見れば十分だと思うw
    ていうか、第八章も、他の章に比べれば面白いかな?くらいなので。
    ぶっちゃけ、著者の言う、“本書を理解することが困難な人がもしいたら、あなたの知的水準がいまいち”云々を聞いて、大ハリキリで自分の知的水準を確かめようと思ったり。
    あるいは、“本書は表面だけ読んでもそれなりに読めるように読めるようにはしたつもりだが、本意は声にならない声を聴くことできる人だけが読めるように書いた”を見たり聞いたりして、最近なにかと流行りらしい「意味がわかると◯◯」的な内容を期待して読むとガッカリすると思うw


    てことで、この本に書いてあるのが何が何やらだった?とここに書いてしまうと、その途端、「アンタは馬鹿認定!」とされてしまうわけで、イマイチだったみたいな感想を書きにくいこの本だが(爆)
    ただ、まー、自分は馬鹿認定されても、“本意は声にならない声を聴くことができる人”になんか、絶対!なりたくないかなぁーと思ったw
    だって、面倒くさいんだもん。
    自分は、(第五章P141にある)友人や知り合いから相談を受けた時、相談を持ちかけることに羞恥心や苦しかったりして、わざと話をズラしたり小さな嘘を織り交ぜているその相手の気持ちを見抜くことなんか、絶対出来ないだろうし。
    ましてや、“その奥にある軋みに触れ、共有して、痛みを癒やすこと”なんか、さらに無理だ。
    ていうか、そんなことが出来る人は絶対いない。
    いるとしたら、それは間違いなく統一教会やオウムのような新興宗教等の胡散臭い人だ。
    相談した人を入信させて全財産を奪うために、“その奥にある軋みに触れ、共有して、痛みを癒やす”ふりして騙しているんだよ。

    人は、どんな人でも独善的にしか生きられない。
    その人がいい人…、つまり、その人が相手のことを認めることが出来たり、思いやれる気持ちがあって、相手に誠実に向き合える人であればあるほど、独善的に生きることしか出来ないんだよ。
    だって、それは善意なんだもん。
    その善意というのは、その人の中にある善意でしかないんだから、それとは違う善意で相手とコミュニケーションすることなんて出来るわけないじゃん。
    自分の中にある善意で相手とコミュニケーションしないとしたら、それは不誠実なコミュニケーションだ。
    だから、自分はこれからも、友人や知り合いから相談を持ちかけられたら、自分の独善で話すはずだ。
    当然、そこには、過去の自分の自慢話も入ってるだろう。
    もっとも、自慢になるようなこと、ほとんどないけど(爆)

    相談したのに、過去の自慢話を聞かされてウンザリしたみたいなことは、自分も経験がある(…のか?w)。
    確かに、その時はゲンナリしたんだろう。
    でも、そんなこと、とっくに忘れた。
    だって、人と人のコミュニケーションって、そういうものだもん(^^)/
    ゲンナリしたり、させられたり。一緒に笑って、語って、歌って、踊って、バカやって、たまぁ〜に泣いてみたりもあるのが、「人」とのコミュニケーションだ。
    「人」っていうのは、そういうものだ。
    聞けばなんでも答えてくれる生成AIでもなければ、至れり尽くせり(を見せかけたw)のITサービスでもない。
    その程度のものにすぎない「人」への相談に、“その奥にある軋みに触れ、共有して、痛みを癒やすこと”を求めるのは、100%わがままだ。
    相手が常に自分の都合いい対応をしてくれることを期待して、相手を便利使いして。
    相手が自分の期待に沿えなかったら、その人は“その奥にある軋みに触れ、共有して、痛みを癒やすこと”が出来ないダメな人と切り捨てる。
    そんなわがままな人間に相談を持ちかけられたら、誰だって自分の自慢話でお茶を濁すよ。
    ていうか、自分の自慢話をする人の方がよっぽどまともだ(^^ゞ

    ていうか、自分は、相談してきた相手のそれを解決したり、共感するよりは、何でもいいからそこから気を逸らせてやる、ってことの方が大事なんじゃない?って思うけどな。
    それこそ、夕日に向かって走り出す、でもいいんだよ(爆)
    その人の気持ちから、一瞬でもそれが離れれば、その人は笑うことが出来るはずだ。
    笑うことさえ出来れば、どんなに苦しくとも、その人は何とかやっていく方法を自分で見つけられるもんだよ(^^)/


    この本で著者が主張している骨子、ていうかー、著者が日頃危惧している、人の心にある過剰な承認欲求、正義を笠に着たたんなる鬱憤晴らし、面倒だから考えないで「迷わない人=(正解)」を崇める傾向、過剰な科学信仰による全てに正解があるという思い込み等々っていうのはわかる。
    ていうか、それらはおそらく自分も同じ考えを持っていると思う。
    それだけに、著者がここで自らの主張について説明するための様々な牽強付会には、すごくシラケた。
    この本の中で、自らの主張の裏付けとして、様々な実験データを紹介しているが、細かいところが曖昧すぎて、自分には誤魔化されているとしか感じられない点が多々あった。

    例えば、第三章:正義中毒の中で紹介されていた、ファストフード店(模擬)で、サラダ等健康イメージのある商品のあるメニュー(表)を見たAグループと、それらのないメニュー(表)を見たBグループをくらべたところ、Aグループの方が太りそうなメニューを選ぶ人の方が多かったという実験だが。
    その結果から、Aグループが太りそうなメニューを多くオーダーしたのは、サラダ等健康メニューがあることで免罪符的な意識を持ったからだ、と断定するのは間違いだと思う。

    大学の調査というのはよく知らないのだが、普通、企業の調査でそういう実験をした場合。
    サラダ等が載っているメニュー表の方が、太るメニューを頼む割合が高いという結果が出た場合、サラダ等健康メニューがあることで免罪符的な意識を持ったからだという推測は、もちろんあるだろう。
    でも、それ以外に、Aグループは、メニュー表の商品数の多さや、サラダがあることでメニュー表に彩りがある等の理由で気持ちが上がって、太るメニュー(=価格が高い)を奮発した可能性。
    逆に、Bグループは、商品数が少ない、メニュー表に彩りがない等の理由でシズル感を得られずに一番安いメニュー(Aグループが選んだ太るメニューよりもカロリーが少ない)を選んだ可能性。
    ざっと考えても、そういった様々な推測をするはずだ。

    もちろん、それは大学の実験という学術調査だ。
    実験は、バイアスがないように公正にやっているはずだし。
    その「免罪符的な意識を持った」以外の推測もしているだろう。
    でも、ここでは、その実験結果を元に、“「健康」という、「倫理的に正しい」何かを想像すると、それがなぜか免罪符のような効果を発揮して、人間はより「倫理的に正しくない」行動をとってしまいやすくなる”と断定している。
    いくらなんでも、それは論理を飛躍させすぎてないかい?

    もちろん、何かしらの免罪符があることで、“人間はより「倫理的に正しくない」行動をとってしまいやすくなる”という傾向は、おそらく誰でも頷けることだろう。
    でも、健康的という免罪符と、倫理的に正しいという免罪符は次元がことなる免罪符だ。
    健康的と倫理的という違いをさらっと流して、その実験結果が「正義」「平和」についてもあてはまると展開させるのはいくらなんでも強引すぎる。
    だって、健康と正義や平和は違うものだ。
    脳科学なんて全然知らないけど、もしかしたら、健康を認識する脳の部分と正義や平和を認識する部分は違うんじゃないの?
    ていうか。
    その後に書かれている、“要するに、正義! 平和! 人道!などと連呼する人ほど、恐ろしいと言える。善意の発露として、残虐な行為を行いかねない。”は本当にその通りと思うだけに、その強引な論理による展開はものすごく残念だ。


    それは、著者があげている、不倫を叩く人の言う言葉についても言える。
    著者は、その代表として、”家族を裏切るなんて”、”清純派だと思っていたのに”、“子供が可愛そうだ”をあげているが。
    ”家族を裏切るなんて”、“子供が可愛そうだ”と書き込んだ人というのは、おそらく、正義を傘にきた鬱憤晴らしだし。
    「清純派だと思っていたのに」は、たぶん気持ちを裏切られた不快感だ。
    その2つは、それを言う背景が微妙に違う。
    (その根本にあるのが、どちらもたんなる鬱憤晴らしである可能性はあるだろうが)
    そういう微妙に違うことを、著者のような立場の人が「正義中毒」という言葉で一緒くたにしちゃうと、それを受け取ったそれぞれの人の解釈によって、その言葉が示す範囲がどんどん拡大されて。
    その結果、特に「正義中毒」でないことでも、世の人の馬鹿の一つ覚えwで「正義中毒」と糾弾されるようなことが起きかねないように思うけどな。
    著者が、自らが発信したことに対して、上記のような重箱の隅をつつくような指摘をされることに腹をたてて、この本をこういう形でまとめたその気持ちはわかる。
    わかるけど、でも、その「正義中毒」という言葉の説明のように、その言葉の定義を誰にも明解にしないことで誤解を招いている面はあるんじゃない?

    もっとも、著者の感じている著者への批判っていうのは、そういうことではなく。
    たんに、著者が生意気だと難癖をつける、たんなるヒマ人に腹をたてているだけなのかもなーなんて思ったんだけどw
    でも、まー、それは有名人である以上しょうがない面もあるわけだし。
    さらに言えば、自分はこの本を読んでいて、著者は被害(者)意識がやや過剰であるように感じたけどな。

    ていうかさ。
    この人って、ユーモアがないんだよねw
    ユーモアがないから、「優秀なヤツなのに、もったいねぇなぁー」的な好意のアドバイスを自分が批判されているように聞いちゃうんだと思う。
    この本もその論理で書いているから、だから読んでいてツマラなく感じちゃうんだと思うw
    いや、ツマラナイと言っても、例の『映画を早送りで見る人たち』の著者のように自説に都合いいようにデータをバイアスかけて見て身勝手な主張をするくせに、データから何も想像出来ない、腹が立ってくるクソつまんなさではなく(爆)
    すごく面白いことを言っているんだけど、その面白いことの面白さの説明が世間で猫も杓子も言っているツマラナイ論理を根拠に書いているからつまらなくなるんだと思う(←なに言ってだかわかんねーよw)
    だから、そう!
    『パンデミックの文明論』で言っていたような、賢い人がアホバカな事から論理を飛躍させて面白い発想をする、あの感じがこの本にはないんだよ。

    もちろん、上記はこの本を読んで感じた、著者のイメージだ。
    ただ、著者の思考の特徴として、例えば「正義中毒」という言葉のように、著者がその言葉からあらゆる方向に思考を伸ばして論ずることで、その言葉の定義を妙に曖昧にしてしまう傾向があるように思う。
    もちろん、(『パンデミックの文明論』で感じたように)一つのことからあらゆる方向に思考を伸ばしていく著者の思考法(?)は、著者のユニークな良い面だとは思うし。
    また、その曖昧さも、著者の持つユニークさだとは思うのだが。
    ただ、著者の論考を受け取る側(読者)からしたら、言葉の定義が曖昧であるが故に、(読者は)思ったはずのところにボールが返ってこない的なもどかしさを覚えるんじゃないだろうか?
    だから、P10にある“僕を罵倒してください”というファンレターの主(本当にそういう人がいたのかは知らないけどw)のように、著者なら罵倒してくれるはずだという変な勘違いが生じた結果、罵倒してくれない著者に反感を抱く…、
    という面はあるんじゃない?(^_^;)



    そんな『脳の闇』。
    読者にイライラをぶつけているように感じる文章といい、ちょこっと語って別の話題に進むとりとめもない内容といい(元が雑誌の連載だからしょうがない面はあるのだろうが)、これでは本という「商品」の体裁がとられてなさすぎない?という理由から、読んでいて★は一つにしようかと思っていた。
    ただ、「あとがき」にあった、あれ。
    “読者の読みたいことを、読者目線で噛み砕いて説いた本が売れるという基本に、出版サイドがようやく回帰の傾向を示し始めた。”
    それを読んで、「あ、著者が言いたかったことって、もしかしてこれ?」と、思わずクスリとしてしまったのだw

    そう、そうなんだよね。
    ここ数年話題になった本というのは、「迷う人」である読者の“読みたいこと”を、「迷う人」“目線で目線で噛み砕いて説いた本”…、つまり、「迷う人」が共感したり、刺さったり、自分の思いを代弁してくれていると思える言葉や情報が書かれてある本ばかりなんだよ。
    それは、そういう本を出せば、多くの「迷う人」がそれを買うことに出版社が気づいたから、出版されたにすぎない。
    いや。出版業というのは、元々そういうものなのかもしれない。
    だって、出版業の人たちだって、金儲けのためにやっているんだもん。
    ただ、もしかしたら、ちょっと前まで出版業、それも覗き見趣味的揚げ足取り的週刊誌等ジャーナリズムに酔っている出版業に携わっている人たちではなく、普通の書籍の出版に携わっている人たちには、自分たちはこの国の知性に携わっているんだという、いい意味での酔い(矜持)があって。
    その酔いがあるからこそ、読者が読みたい本(情報)ではなく読者に知ってもらわなきゃならない本(情報)をつくらなきゃならないみたいな、暗黙裡の線引きがあったんじゃないだろうか?
    でも、今は著者の言うように、“読者の読みたいことを、読者目線で噛み砕いて説いた本が売れるという基本に、出版サイドがようやく回帰の傾向を示し始めた。”
    それを平たく言えば、(読者が知らなきゃらないことが書かれた本は売れないのだから)読者が読みたいことだけが書かれた本だけつくって、売っていけばいいじゃん。だって、出版業は自分たちの食い扶持を稼ぐためにやってるんだもん、ということだろう。


    この著者って。
    もしかしたら、すごく誠実な人なのかなぁー。

    何度もそこに戻るようだけど、著者はこう書いている。
    “人の言葉を聞かず、決断力があり、我が道を行く「迷わない人」がいたら、真っ先に私はその人のことを疑う。(中略)その人が本当に人の言葉を聞かず、合わせることを厭い、迷いも戸惑いも感じない人なのか、それともそう見せかけておくことで大衆の称賛を得ようと媚びているだけの人なのかを探ろうとするだろう”
    そして、“残念ながら、多くの「迷う人」は、「迷わない人」がとても好きだ”と。

    著者がこの本で、“この本はバカにはわからない”的な、読者に対して妙に上から目線で書いたこと。
    そして、冒頭にあるこれまでの本の読者からの様々なメッセージにあった、“「僕を見抜いて、その弱点を指摘し、その弱点ごと受け入れて欲しい」という哀願”的な内容。
    さらには、第六章:やっかいな「私」のような、自分が過去にいろいろ悩んだり苦しんできたことを吐露している件。
    それらを踏まえて考えてみると、著者はこの本で、私を「迷わない人」と誤解しないでほしい。私の本を読んだ読者が私のことを「迷わない人」だと誤解するのは、私が「迷わない人」を装って書いた本による勘違いなんだから……、
    と言っているんじゃないだろうか?


    もちろん、それは自分が感じた著者の“声にならない声”にすぎない。
    だから、全然見当違いかもしれない。
    でも、P60の“論文というのは批判的に読むもので(中略)それが正しいかどうかを判断するのは自己責任”と、その後、“確かな科学教育を受けていない人々が拡散しているいわゆる「脳科学」は、もはや俗信や迷信に近いもの”なんかを見てもそうなんじゃないのかな?
    つまり。
    “「迷う人」は「迷わない人」が好き”なのだからこそ、「迷わない人」を信じてはダメだよ。
    著者がこの本で読者にわかってほしかったのは、実はそれだけ……、
    なんじゃないだろうか?
    …と、自分は思ったけど。

    ただ、それは、著者が「あとがき」で書いているように、“ほとんどの人間は聞きたいことしか聞かない”、“その上、自分の話したいことにしか関心を持たない”ということにすぎないのかもしれないw



    ★の数は、すごーーーく考えた。
    それは、とっても頷けることが書いてある反面、この人の頭がよすぎるからなのか、一般庶民からするとちょっと浮世離れしていて、ぶっちゃけヘタな考え休むに似たり的な思考に陥っているっていうかw、今風のエエカッコしぃーの論理に陥っているように感じたからだ(^^ゞ
    ただ、頷けることは、読んでいてすごく面白いし。
    個人的に著者が言いたかったことってこれなのかな?と思ったことなんかは、その裏に込めた意味を考えると、まるっきりジョン・ライドンだ(^^)/
    そんな風に、著者がひっくり返すことが出来るセンスを持った人なんだとしたら、テレビなんか出るのはやめた方がいいように思う。
    ただ、ジョン・ライドン的にテレビに出ているのだとしたら、それはそれでパンクで面白いのかもしれない。

  • あとがきに、次のように書かれている。

    ほとんどの本には、著者の書きたいことしか書かれていない。
    不思議だ。
    なぜそれで、その本を買ってもらえると、この著者は思ったのだろう?

    著者の意図はおよそ次のとおり。
    ネットが当たり前になった現代では、誰もが自分の意見を発信でき、受け手は無料でそれを読むことができる。
    ネットで発信されるのは、書き手が書きたかったことである。
    それらと競合し、手に取って読んでもらえる本とは、著者の書きたかったことが書かれた本ではなく、読者が読みたかったことが書かれている本である。

    著者は本書がどちらの本なのかについてはっきりと言及していないが、バカには読めない本であると(挑発的に)述べていることから、おそらくは書きたいことを書いた本であるだろう。

    • 本ぶらさん
      こんにちは。はじめまして。

      >なぜそれで、その本を買ってもらえると、この著者は思ったのだろう?
      もしかしたら、本が売れる(今までの本が売れ...
      こんにちは。はじめまして。

      >なぜそれで、その本を買ってもらえると、この著者は思ったのだろう?
      もしかしたら、本が売れる(今までの本が売れた)ことで、読者が自分(著者)を「迷わない人」であると思い込んでしまうことが面倒くさくなったwんじゃないのかな?って、自分は思いました。
      つまり、今まで書いてきた著者の本というのは、自分が書きたくないことを書いた、からこそ読者に受け入れられて売れたんだ、ということを言いたかったんじゃないでしようか?
      2023/12/05
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著者プロフィール

脳科学者、医学博士、認知科学者。1975年、東京都に生まれる。東京大学工学部卒業後、同大学院医学系研究科修了、脳神経医学博士号取得。フランス国立研究所ニューロスピンに博士研究員として勤務後、帰国。現在は、東日本国際大学教授として教鞭を執るほか、脳科学や心理学の知見を活かし、マスメディアにおいても社会現象や事件に対する解説やコメント活動を行っている。著書に『サイコパス』『不倫』(ともに文藝春秋)、『人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム)、『脳の闇』(新潮社)などがある。

「2023年 『賢くしなやかに生きる脳の使い方100』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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