- Amazon.co.jp ・本 (387ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106408014
感想・レビュー・書評
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大江健三郎の全集は何度か発刊されている。ウィキペディアによれば、下記の通りである。
1) 「大江健三郎全作品」が、新潮社から発刊されている。2期に分かれて発刊されており、第1期全6巻が1966-1967年に、第2期全6巻が1977-1978年に発刊されている。
2) 「大江健三郎同時代論集」が、岩波書店から全10巻で、1980-1981年に発刊されている。他の全集が小説の全集であるのに対して、本全集はエッセイを集めたものである。
3) 「大江健三郎小説」全10巻が、1996-1997年に新潮社から発刊されている。
4) 「大江健三郎全小説」全15巻が、講談社から2018-2019年に発刊されている。
日地谷=キルシュネライト・イルメラというドイツの研究者が「大江健三郎全小説3」に書いている解説によれば、「文学研究にとって、個人全集の刊行は常に特別な出来事である。(中略)文学研究にとっては、出版社の入念な編集作業を経たその作家の仕事の全容を見渡す、新たな立脚点が得られることを意味する。」ということであり、このように、何度も個人全集が編まれている大江健三郎という作家は、やはり特別な存在なのだろうと感じる。
ここで感想を書いている「大江健三郎全作品1」は、1966年の発行。1957年から1958年にかけて発表された、デビュー作である「奇妙な仕事」や、芥川賞受賞作である「飼育」などの、全10作品が収められている。
書籍には、10の小説以外に、2つの「付録」的なものが収められている。
ひとつは、巻末に収められた、大江健三郎による、おそらく書下ろしの文章。ひとつは、「本当に文学が選ばれなければならないか?」というエッセイであり、もうひとつは、「年譜」である。
2つめの付録は、実際に本体とは別のリーフレット形式となった、実際に「付録」と書かれているもの。評論家の大江健三郎に対しての評論や、開高健等による大江健三郎にまつわるエッセイや、芥川賞の選考委員の大江作品に対しての論評等が収められている。
ある個人が体験した恐怖や快楽といった感情、あるいは、イメージを他人に伝達しようとした場合、小説という形式を選択する以外に伝達するやり方がない場合があり、それが逆に作家を誕生させるものなのである。そして、作家は小説を制作しながら、そのイメージの奥深くひそむものを発見していく。そして更に、そのようなイメージをどんどん改変していくことをはじめる、そのようにして創作が進行する。うまくポイントを引用できているかどうか分からないが、上記のエッセイ「本当に文学が選ばれなければならないか?」に大江健三郎が書いていることである。そして、大江健三郎は「ぼくら日本の若い人間たちが、あいまいで執拗な壁にとじこめられてしまっているというイメージ」を持っており、この本に収められている大江健三郎の初期の作品では、「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題でした」とも書いている。実際に創作経験のない私には、実感としては分かりにくいのであるが、大江健三郎が小説とはどういうものであるのか、また、実際に何をイメージして、何を主題として初期の小説群を書いたのかが書かれていて、非常に興味深い。
私が大江健三郎の小説を初めて読んだのは高校生の頃であり、初めて読んだ作品は「われらの時代」であったと思う。それは、強烈な印象を高校生の私に残した。小説を読めば、主人公が「閉じ込められた状態」であることは分かるが、そういった「主題」は意識にのぼらなかったように記憶している。大江健三郎がイメージする、閉じ込められた日本人青年を他人に伝達するために仕組んだ、小説の登場人物やストーリーや表現に異常な迫力を感じて引き込まれたという記憶のみがある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
初期の中・短編旬。時代設定、状況設定によってはとっつきにくい作品もあるが、読み進めていくと面白さに引きこまれる。
「わかり合いましょう」という考え、「わかり合えない」という葛藤のある現代とは異なり
「わかり合う必要はない」「人はそれぞれ異なるのだ」そして、そういう人間たちが「生」に向かって、戦い寄り添う姿が描かれているように思う。 -
古典も読めたぞー(嬉
32まで