- Amazon.co.jp ・本 (331ページ)
- / ISBN・EAN: 9784120038457
作品紹介・あらすじ
ニューヨーク・ブルックリンで過ごした少年時代、戦雲迫るなかで没頭した『源氏物語』、一人の日本兵もいなかったキスカ島、配給制下のケンブリッジ、自動車の姿もまばらだった京都の街、日本で出会った終生の友、三島由紀夫の自決のあとさき、『日本文学の歴史』『百代の過客』『明治天皇』…そして現在の生活。85歳の今、思い出すことのすべて。
感想・レビュー・書評
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三島由紀夫と親交の深かったドナルド・キーンの自伝。
真珠湾攻撃の後、海軍日本語学校へ。意外にも激戦地を渡り歩き、沖縄にも行き、日本人捕虜とも親交を持つ。ここが一番の読みどころだった。
三島の死と川端の死の関係、また二人の死とノーベル賞についても氏は関連を語っている。
2人に近かった氏の見解ではあるが、どうなのだろうか。
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作者も自認しているが、コスモポリタンとはこういう人のことを言うのだろう。筆者から書いた明治天皇の読み物も読みたくなった。
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角地幸男先生訳
通常の配架場所: 開架図書(3階)
請求記号: 289.3//Ke18 -
ひとりのアメリカ人が、どのような経緯・理由で日本や日本文学に関心を持ち、深めていったのかを知りたかった。
学生時代、ヨーロッパで戦争が始まった時期に、アーサー・ウェイリー訳の源氏物語をたまたま見つけて読み始め、心を奪われた。日本語を学び始めたのは、数年日本に住んだことのあった見知らぬ学生に誘われたことがきっかけだった。日米が開戦すると、さらに日本語を学ぶために海軍語学校に入学した。卒業後、真珠湾で日本語を翻訳する部署につき、日本人兵士が残した日記に関心を持った。
終戦後、ハーバード大学で1年間、ケンブリッジ大学で5年間を過ごした後、1953年に研究奨学金を得て京都の今熊野に住み始めた。1950年代後半は、コロンビア大学で日本語と日本文学を教え、夏の3ヶ月間は京都で過ごしたが、1961年からは新幹線のトンネル工事が始まったため、東京の原宿で過ごすようになった。既存の日本文学史に不満を持っていたキーンは、コロンビア大学で教えていた日本文学史の講義を1964年から書き始めた。
1982年、朝日新聞が講演する会議で、酔った司馬遼太郎が「明治時代、朝日は駄目だった。夏目漱石を雇うことで良い新聞になった。今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、ドナルド・キーンを雇うことだ」と言った。キーンは客員編集委員のポストを与えられ、「日本人の質問」「百代の過客」「続・百代の過客」「声の残り」を連載した。
1993年、71歳で「日本文学の歴史」の最終巻を刊行した。この時、すでに71歳だったが、その後も日本人の伝記として「明治天皇」、日本のこころをテーマにした「足利義政と銀閣寺」、「渡辺崋山」を書いた。 -
請求記号:289.3/Ke 図書ID:100515845
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アメリカの日本文学者ドナルド・キーンの自伝。
生い立ちから軍人としての日本との関わり、コロンビア、ケンブリッジ大学での日々、日本人作家との交友、親しい人達との別れなど、自身の半生を振り返る。
60ー70年代の日本の文壇に時々登場する人物として、名前は良く知っていたが、改めて自伝を読むと、いかに日本を愛し、日本の文化活動に貢献してきたかが良く判る。
彼が初めて触れた日本人が書いた生の文章が、第二次大戦の日本兵の日記だったというのは意外だった。アメリカ人兵士は日記を書くことはなく、戦場に記録を残すことは機密上あり得なかったらしい。しかし、最前線の日本兵は、自分の生きた証として日記を残した。それが日本という国に興味を持つきっかけになったと言う。
戦後、多くの作家と付き合ったが、三島・川端の2人を失ったことが大きく、川端のノーべル賞受賞が何か影響を与えたのかもしれないと推測している。
執筆時89歳で、親しい多くの友人を失ったけれど、日本との関わりは、人生を幸せなものにしてくれたと結んでいる。彼は、日本人の秀逸な伝記をいくつか書いているので、機会があれば読みたいと思う。 -
ドナルド・キーンの人生を垣間見ることができる
趣のある味わい深い書