サハリン島

  • 中央公論新社 (2009年7月10日発売)
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  • 本 ・本 (424ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784120040528

感想・レビュー・書評

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  • アントン・チェーホフ(1860~1904)による、サハリン島ルポルタージュ。

    チェーホフは1890年、サハリン島に渡り、6か月間滞在した。
    流刑囚の生活に興味を持ったため、というが、彼をそこに引き付けた具体的・直接的な理由は本書には書かれていないし、ざっと検索してみた限りではよくわからない。ともかくも、チェーホフの興味を引く何ものかがそこにあったということである。

    6か月という期間はただの物見遊山にしては長い。しかもこの地は囚人が刑として送られる流刑地で、観光や保養に適しているわけではない。では何をしていたかと言えば、住民の「調査」に近いことである。
    すべての住民を網羅するような住民調査カードを参照し、全島の各村について、男女比や年齢別の分布といった人口統計学的なデータを整理したり、また住民たちの生活状況をまとめたりしている。
    本書の記述はそうした「調査」を元に、淡々と事実を並べている。したがって、おもしろおかしかったり、人生の機微を感じたり、といった小説的要素はない。
    むしろ、後世から見て、当時の暮らしを知る学術的意味のある作品というところかもしれない。

    とはいえ、読んでいると、19世紀末当時のサハリンがおぼろに見えてくるようでもある。
    サハリンは流刑の地であったが、同時に、農業植民地としての面もあった。流刑囚は農業に従事し、土地を切り開いていくことが求められるわけだが、北の地で、それは容易なことではない。懲役刑が終わった後、囚人は入植囚となるが、懲役刑のうちは国からの食糧支給がある一方、入植囚に対しては一定期間の後、支援は断たれる。そうなるとむしろ懲役囚の方が暮らしは「まし」であったりする。
    囚人となった夫についてくる妻もいるが、夫が家族を呼び寄せようと暮らしぶりについて嘘八百を並べた手紙を書き、騙されて来てしまう例も少なくない。実際に着いてみて、こんなはずではなかったと嘆くわけである。正式に結婚しているものもいるが、内縁関係も少なくない。
    子供が生まれても、成人すればこの地に留まることは少ない。したがってその年齢分布はいびつである。
    そもそも国側も、どの地にどの程度の囚人を配置すれば、糊口がしのげるか、精査して送り込んでいない。土地の広さだけではなく、耕作可能であるか、肥沃であるかといった点を見ていないため、瘦せた土地に到底養えないような人数が送られる例も多い。
    囚人の口にする食べ物はたいてい量が少なく、満足には食べられない。働きづめで調理する気力もわかず、1日の終わりにわずかな干し肉をそのまま齧って眠りにつく者もいる。

    当時、島にいたギリヤーク人(ロシアの少数民族。現在ではニヴフの名称を使う)やアイヌ、日本人も所々に出てくる。
    チェーホフは、在島時、日本人とも交流し、日本に渡る計画もあったそうである。残念ながら、コレラの流行があり、断念したというが、日本にまで足を延ばしていたら、また別の紀行文が書かれていたのかもしれない。

    荒涼とした地に送られて、捨て鉢かつどん詰まりな気分で生を送る囚人たちの気持ちも理解できなくはない。ロシアの大地を懐かしく恋しく思うのも無理はないだろう。
    とはいえ、それらは(観察者であるチェーホフも含めて)ある種、植民地化を試みる「闖入者」側の視点であるわけで、こうした彼らをニヴフやアイヌの人々がどう見ていたのかも少々気になるところだ。

    最果ての地である。
    流刑の地である。
    淡々とした筆致に寒さが滲む。
    それは気候からくるものだけではないようにも思う。


    *蛇足なのですが、若干気になったのが、南京虫・油虫が北部にはいるが南部にはいないというような記述。油虫は多分、ゴキブリのことだと思うのですが、えてしてこういう虫って南方に多いものではないのでしょうかね? 北部の方が人口が多くて生活圏に付随する害虫も多かったってことなのかしら。

  • サハリンについてほとんどの書籍がない中、チエホフのサハリン島は単なる旅行記ではなく、囚人についてのあらゆることが書いてある。統計、逃亡の月、病気など、枚挙にいとまがない。全集13巻で読んだが読みやすい。チエホフはサハリンが日本の領土であったという説明があったので、この本を読んだが、どうもそうではないようである。注がものすごく多いのが特徴かもしれない。日本人についての説明も出てくる。

  • 沼野充義最終講義をオンラインで見て、興味を持ち、手に取る。ギリヤーク人については、それほど記述は多くないが、サハリンの大地に、力強くたくましく根をはっている感。かゆみどめに全身にアザラシの脂を塗り、身体はあらわない、などの風習についても触れられる。そして、流刑地サハリンは、なかなかにワイルドな気性。あまねく日常に溶け込んだ苦役。男女ともにあまり褒められる種類の仕事ではないものに従事ているものが多数。度外れた半道徳性が蔓延し。また囚人の生活も語られ。なかには脱走する前に予告して、近隣を散策してもどってくるものもあったとか。

  • 120年前の樺太旅行記。
    鎖で繋がれた囚人たちが住んでいた島だとよくわかる。
    驚いたのは女性も多かったし、流刑になった夫について来たということ。
    それにしてもチェーホフの人間観察とその表現は面白い。
    カードを作ってインタビューしている。医者だった彼は流罪になった囚人の健康状態を取材していたのである。
    夏とはいえ、シベリア鉄道もなかったこの頃よく大陸を横断したなと思う。
    時は明治20年代だが、その頃の樺太にはアイヌやギリヤーク人が先住民として住んでいたのである。
    世界的な文学者なので、その描写は目の前にありありと浮かぶことができる。それにしても厳しい寒さと自然と恐ろしい監獄上むち打ちの島だったと言うことがよくわかった。

  • これを読んだらサハリンへ行ける気がする。じいちゃんが住んでたサハリン島。行かなくちゃ。モスクワへ、じゃなくてサハリンへ。

  • 図書館にあり

    内容(「BOOK」データベースより)
    1890年、30歳のチェーホフは、極東の流刑地サハリンに滞在し、綿密な記録を残した。

  • チェーホフがサハリンに行った時の詳細な記録本
    ほんと詳細にサハリン流刑地の事が書いてあります。

    死の家の記録みたいに、
    各囚人にスポットがあたっている訳でなく、
    島全体の事が記載されてます。

    そこが自然環境が厳しいだけでなく、
    役人等々の人為的な厳しさがかなりあったのが読み取れます。

    そしてラリホーみたいな本でした。。。
    非常に眠くなる。。。

  • かわいそうなギリアーク人

    同書は小説ではなく旅行記あるいはむしろ調査報告に近く、その調査報告は村上氏がカルト宗教をテーマにノンフィクションを書いた事とも重なる。ギリアーク人というまったく違う価値観のなかで生きる人たちの話や、「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなければならない」というチェーホフの言葉も導入も、同書への強い興味をそそられる。

    中村

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著者プロフィール

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860~1904)
1860年、南ロシアの町タガンローグで雑貨商の三男として生まれる。
1879年にモスクワ大学医学部に入学し、勉学のかたわら一家を養うためにユーモア小説を書く。
1888年に中篇小説『曠野』を書いたころから本格的な文学作品を書きはじめる。
1890年にサハリン島の流刑地の実情を調査し、その見聞を『サハリン島』にまとめる。『犬を連れた奥さん』『六号室』など短篇・中篇の名手であるが、1890年代末以降、スタニスラフスキー率いるモスクワ芸術座と繋がりをもち、『かもめ』『桜の園』など演劇界に革新をもたらした四大劇を発表する。持病の結核のため1904年、44歳の若さで亡くなるが、人間の無気力、矛盾、俗物性などを描き出す彼の作品はいまも世界じゅうで読まれ上演されている。

「2020年 『[新訳] 桜の園』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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