革新幻想の戦後史

著者 :
  • 中央公論新社
3.60
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感想 : 17
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  • Amazon.co.jp ・本 (546ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784120043000

作品紹介・あらすじ

戦後社会では、さまざまな空間を革新勢力が席捲していった。しかしそうした雰囲気は、多分に焚きつけられ、煽られたものであった。誰が、どのように時代の気分を誘導したのだろうか。また、それはどのように、その後のねじれた結果をもたらしたのか。膨大な文献資料から聴き取り調査までを駆使し、今につながるその全貌に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • 小沢一郎の評価が高いのは意外

  • 本書の帯には「左派にあらざればインテリにあらず、という空気はどのように醸されたのか」とある。確かにこれが本書の主題であり、それはそれで興味深く読んだのだが(それにしても、福島の原発事故後、「無念共同体」は生まれても「悔恨共同体」が生まれなかったのは何故だろうか。脱原発派に悔恨感情はあまり感じられない)、個人的には終章に戦慄した。

    著者は、1960年代前半までの大衆レベルにおける日本の保革対立は、イデオロギーの対立ではなく、伝統主義(封建的なもの)とモダニズム(近代的なもの)の対立であったと見る。これが1960年代半ばになって、欧米流の生活様式が浸透してくると、大衆レベルにおいて伝統主義は影響力を喪失する。そうして伝統主義という敵を失ったとき、戦後民主主義は「自己主張や権利という名のもとでの抑制なき露骨な欲望の奔流とな」(p.504)って、今日の大衆クレーマー社会を形作っていく。そして、この現代大衆社会においては、不特定多数のクレーマーが伏在している以上、全ての人間が「漠然とした大衆=幻想としての大衆」の目に怯えながら生きていくことを余儀なくされるという。

    「テレビのコメンテーターの発言が陳腐なのは、幻想としての大衆を想定した無難コードの無形圧力に依っているからである。……いまや一望監視装置を司るのは、変幻自在な『幻想としての』大衆という見えない権力である。政治家もマスコミ人も『幻想としての大衆』を想定しながら、活動し、操りながら、操られている。……これは、トクヴィルの言う『多数の圧制』とはちがう。想像された多数者による監視社会である」(p.511-2)

    確かにそうだ。無難コードから外れた言動(=燃料の投下)は、場合によっては「炎上」を招く。だが、常に炎上するとは限らない。燃料が投下されても、誰がどういう場合に「着火」するかは分からないからだ。だから誰もが炎上を恐れて、(幻想としての)大衆におもねった当たり障りのない言動に終始する。「幻想としての大衆による監視社会」という新しい時代が到来し、新たな形の自己規律化が始まったのである。

    民主主義と教育の大衆化の帰結がこのような「大衆幻想国家」だったとする著者の知見に接して、「歴史の狡知」というものに改めて思いを馳せざるを得ない。

  •  続けて読みたいのは、「中道」「リベラル」幻想の研究かな。

  • 日本社会にかつて威信をふるった「進歩的知識人」
    革新幻想を支えた進歩的知識人=左派知識層を鋭く批判した。

  • 【選書者コメント】戦後日本の論壇情勢を知るために。

  • 想像していたのは総論のようなもう少し大きな枠組みのものだったのだけれど、これはこれで興味深く読んだ。いくつかの具体的事例をもとに「進歩的文化人」的なものの世間との乖離を衝く。バイアスは明らかだけれどもところどころに相対化する視点が入っているおかげであまり鼻につくことなく読めるのはグッド。

  • 教育社会学の中では、放送大学等でもお世話になった竹内洋先生の教授として、最後の大作ではないだろうか。

    大学時代を90年代に過ごした自分としては、右翼・左翼の区別はついても、安保反対闘争やマルクス経済学などが大きな力を持っていた時代ははるかかなたでり、当時の雰囲気を知ることは困難である。

    この本は、自分史と言われるように、竹内先生の出身の佐渡島の選挙や雰囲気、大学時代、2年間だけの生命保険会社のサラリーマン時代、そして大学院に入っての研究や、東京大学の人事権の争いなど、ある部分は竹内先生の目を通して、ある部分では客観的な記述として、追体験ができるような気がする。

    個人的には歴史というのは人が作るものではなく、歴史の必然性から産み出される面が大きいような気がするが、いろいろな人物や活動歴を見ていても、そのような時代のだったのだと思う。最終章にあるように、日本の今後を憂いているようにも思える。「愚者は経験に学び、智者は歴史に学ぶ」というビスマルクの格言通り、この書の歴史から学ぶことは多いような気がする。

  • 革新幻想の時代を経て、今改めて大衆とは何かを考える《赤松正雄の読書録ブログ》

     つい半月ほど前のこと。高校卒業後、音信不通になっていた友人の所在が突然に分かった。懐かしい会話を電話ではあったが、交わすことができた。今を去る45年ほど前に、早稲田大生だった彼は、米原子力空母エンタープライズ号の佐世保基地寄港をめぐる反対運動の渦中で逮捕された。当時の新聞に大きく報道された。そうした過激な学生運動に身を投じるような男とは思えず、驚いたものだ。その後の行方は、中核派か革マル派かの幹部になったとか、風の噂を耳にしただけ。ほぼ半世紀ぶりに職業革命家の足を60才代になって洗った、とのことが分かった。

     竹内洋『革新幻想の戦後史』をこのほど読み終えたが、この友の過ぎにし方とダブって見え、極めて興味深かった。竹内さんのこの本は、今年の読売・吉野作造賞を受賞、戦後67年を概括的に振り返るのに、最適の手引き書だ。「はじめに」で著者は、今の大学生が「サヨクってなんですか」とか「先生、サヨクって自民党のことですか」と聞いてきたことを紹介。右翼に比べ、左翼がイメージしにくくなっている現状を明らかにしている。

     保革の争いが政治世界で中心的なテーマだったことも今は昔だ。保革あればこその中道でもあった。「左派にあらざれば、インテリにあらず」といった空気がどのように形成されたかの経緯はまことに興味津々ではある。が、それも古い世代までで、今の学生、若者には無用のものかもしれない。福田恆存と清水幾太郎。小田実と石原慎太郎。戦後思想史のスターたちをめぐるエピソードの数々を読みつつ、人生の大半を革命幻想に生きた同世代に思いを馳せる。「70年代に革命が起こる、いや起こす」―東大駒場前で新左翼系の書店を経営していた友が言っていたことも耳朶に残ってる。その彼も夢破れて東京を去り、平凡な一市民になった。

     革新幻想に翻弄された幾つかの人生模様。「進歩的文化人」は死語になったが、「進歩的大衆人」は増えている、と。その大衆に政治家、政党が今やいいように振り回されている現実がある。ポピュリズムという名の大衆迎合である。誰もが、どの党もが、大衆を気遣い、大衆目線を強調する時代。大衆とは一体何か。かつてイデオロギー対決の時代に置き忘れられた民衆を救済すべし、と立ち上がった公明党。今や、自由と民主主義を標榜する二大政党の狭間で苦悩に沈む大衆を救済することが求められている。かつてとは違った理念・哲学が必要なことを今ほど痛感させられることはない。

  •  今は昔、大学進学率が10パーセントにも満たなかった1960年代初頭。日本の高等教育がまだまだ一部のエリート層にしか許されていなかった、いわば特権だった時代。そんな時代に、大学キャンパスの中にはある独特の「空気」が醸し出されていた。「左派でなければ知識人ではない」という、暗黙のうちに共有された〈革新幻想〉という空気。
     なぜこうした空気が、戦後日本の大学キャンパスを席巻することになったのか。本書は、膨大な資料を渉猟しながらこの異様な空気の正体に迫ろうとしたものだ。本書に登場する人物も丸山眞男、清水幾太郎、福田恆存、小田実、石坂洋次郎と多士済済。それだけではない。「進歩的文化人」の牙城と化していた東大教育学部の人事をめぐるえげつない実態、また教育方針をめぐる保守派(京都市・PTA)と進歩派(日教組)の仁義なき戦い(旭丘中学校事件)など、論壇の抽象的な理論闘争だけでなく、現場に即した具体的な行動にも目配りを忘れていない。これらすべての「あまりに人間的な」出来事から浮かび上がってくる、〈革新幻想〉という時代の空気。

     あの時代、「エリート知識人」を自認していた大学人は皆、単なるイデオロギーとは違う、かといって経済構造でもない、この異様な「空気」にがんじがらめにされていた。いってみれば、この言語化されない時代の雰囲気こそ、戦後日本の教育界・思想界を確かに動かしていたのだ。「痒い所に手が届いた」ような、何とも言えない読後感。

     著者・竹内洋(1942年生まれ)氏によれば、本書はいわば彼の「自分史」だという。つまりこれまでの人生の遍歴を、「戦後日本」という時代の考察に重ね合わせながら振り返ったもの。それだけに、ユーモアたっぷりの面白エピソードもふんだんに盛り込まれている。
     たとえば、竹内氏は学生時代から福田恒存に親近感を持っていたが、ご存じの通り福田は当時から保守派の論客として鳴らした人物。大学文化の革新幻想とは水と油だった。しかしある時、同期や先輩が「左派のヒーロー」吉本隆明について熱く語る中、その場にいた女学生の前で「格好をつけたい」という若気の出来心から、「吉本隆明もいいが、福田恒存はもっといいぞ」と茶々を入れてしまう。途端に周囲は白い目。以後その女学生は、氏を知人に紹介する際は「この人ウヨクよ」と注釈をつけるようになったという。当時の学生にとって、「ウヨク」は「バカ」と同義語だった…。

     あの時代、大学キャンパスの中では「反体制」を気取ることが「ファッション」であり「体制」だった。そんな雰囲気を、ありありと伝えてくれるエピソード。

  • 非常なる労作。

    こういった手合いの本は、「昔は良かった」と左派が懐古趣味に走るか、「昔はひどかった」と右派が恨み節を語るかの2つの潮流に分かれるのだが、著者はこの陥穽に落ちていない。思うに、自身の体験をベースとして思考を紡いでいったがゆえのことだろう。

    かつて、「文学が社会を変える」「教育が社会を変える」等の想いが真剣に支持されていた時代があった。
    まさに、「左派にあらざればインテリにあらず」といった空気が日本を席巻していた。

    しかし、この空気は焚き付けられ煽られて燃え上がった幻想と虚妄に過ぎない。ならば、誰が焚き付けたのか、なぜ燃え上がったのか。その点を膨大な資料を参照に解き明かしていく。

    最終章の結論は平明である。
    「革新幻想に人々は魅力を感じた。社会改造に対する情熱は高かった。その情熱は旧牢とした前の世代に対する反抗である。しかしながら、高度経済成長のなかで社会改造の情熱は『大衆』を生み出した。その『大衆』はもはや堕落するだけの存在でしかない」
    「現在では、更にその状態は進み、『大衆』は現実に存在せず、『想像としての大衆』を生み出した。どこかにいるであろう、そしてどこにもいない大衆である」

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著者プロフィール

1942年、東京都生まれ。京都大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。京都大学大学院教育学研究科教授などを経て、現在、関西大学東京センター長。関西大学名誉教授・京都大学名誉教授。教育社会学・歴史社会学専攻。著書に『日本のメリトクラシー』(東京大学出版会、第39回日経経済図書文化賞)、『革新幻想の戦後史』(第13回読売・吉野作造賞)『清水幾太郎の覇権と忘却』(ともに、中公文庫)、『社会学の名著30』(ちくま新書)、『教養主義の没落』『丸山眞男の時代』(ともに、中公新書)、『大衆の幻像』(中公公論新社)、『立志・苦学・出世』(講談社学術文庫)など。

「2018年 『教養派知識人の運命 阿部次郎とその時代』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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