- Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
- / ISBN・EAN: 9784120047312
作品紹介・あらすじ
読書は人を変え、風景を変え、空気まで変えるのかもしれない。現代詩作家がおくる、古くて新しい文学のはなし。
感想・レビュー・書評
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詩人で随筆家の荒川洋治さんのやわらかい言葉づかいが好きで、時々著作を読み耽ります。
講談社エッセイ賞を受賞した「忘れられる過去」は愛読書のひとつでもあります。
本書は、荒川さんが文学の魅力について語った講演に大幅加筆したもの。
第1部(昭和の本棚を見つめる、高見順の時代をめぐって、山之口貘の詩を読んでいく)、第2部(名作・あの町この町―地図)、第3部(「少女」とともに歩む、詩と印刷と青春のこと、思想から生まれる文学)の3部構成です。
昭和の本棚は、私にも原風景として残っています。
ちょっとお金持ちの親戚宅へ行くと、ガラス戸のついた立派な書棚に日本文学全集なんかが整然と並べてあるんですね。
果たして全部(あるいは一部でも)読んだのかどうかは別にして、教養というものが今より尊ばれていた時代ではありました。
荒川さんはそんな時代を生きた一人として、昭和の本棚を彩った作家たちを、豊富な知識を駆使して、やわらかい言葉で回想しています。
ただ時に鋭いことを言うんですね。
たとえば、
「いま読まれていないもの、関心をひかないものは何か。それを考えれば、逆にこの時代がどんな時代なのかが見えてくる。何か不足だなと感じたとき、何かが足りないと感じたときは、いま読まれていないものに目を向けるといい。『読まれていないもの』のなかにあるものが、いまの人には欠けているものであり、だからいまはそれが必要なのだというふうに見ていくべきだと思います。」
というのは実に鋭い指摘だと思いました。
こらこら、そこのあなた、「村上春樹以外?」とか言わない。
島崎藤村の逸話もすごい。
僚友の田山花袋が亡くなるときのこと。
ひとつ年下の島崎藤村が、田山花袋がいま死にそうなところへ見舞いに行って、田山花袋に「死んでゆく気持はどんなか」と訊くんですね。
読みながら唖然としましたが、同時に本物の作家の凄味を感じました。
恐らく自分が人としてどう思われようが、死にゆく気持がどんなものか知りたいという作家的な欲求が勝ってしまうのでしょう。
山之口貘という詩人のことを、私は本書で初めて知りました。
1903年に沖縄に生まれ、1963年に59歳で亡くなった詩人です。
デビューは遅く、詩集を発表したのもかなり遅かったそうですが、生涯の全てを、また全身全霊を詩に捧げた人でした。
こんな詩に、それはよく現れています。
僕には是非とも詩が要るのだ
かなしくなっても詩が要るし
さびしいときなど詩がないと
よけいにさびしくなるばかりだ
僕はいつでも詩が要るのだ
ひもじいときにも詩を書いたし
結婚したかったあのときにも
結婚したいという詩があった
結婚してからもいくつかの結婚に関する詩が出来た
おもえばこれも詩人の生活だ
ぼくの生きる先々には
詩の要るようなことばっかりで
女房までそこにいて
すっかり詩の味おぼえたのか
このごろは酸っぱいものなどをこのんでたべたりして
僕にひとつの詩をねだるのだ
子供が出来たらまたひとつ
子供の出来た詩をひとつ
山之口貘は一編の詩を仕上げるまでに、原稿用紙を200~300枚も消費することがあったといいますが、なるほど、よく推敲しているのが素人にも分かります。
本書では、山之口貘の詩が何編か紹介されていますが、私の最も気に入ったのをひとつ。
うしろを振りむくと
親である
親のうしろがその親である
その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに
親の親の親ばつかりが
むかしの奥へとつづいてゐる
まへを見ると
まへは子である
子のまへはその子である
その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに
子の子の子の子の子ばつかりが
空の彼方へ消えいるやうに
未来の涯へとつづいてゐる
こんな景色のなかに
神のバトンが落ちてゐる
血に染まつた地球が落ちてゐる
何度も読み返したくなるくらい、いい詩です。
日本全国津々浦々の名作を拾う第2部も大変に面白かったです。
北海道は、岩野泡鳴「憑き物」、中戸川吉二「滅び行く人」、長見義三「色丹島記」、伊藤整「若い詩人の肖像」、和田芳恵「雪女」、深沢七郎「和人のユーカラ」
東北は、真山青果「南小泉村」、太宰治「津軽」、横光利一「夜の靴」、寺山修司「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」、真壁仁「詩の中にめざめる日本」
関東は、田山花袋「田舎教師」、芥川龍之介「蜜柑」、葛西善蔵「おせい」、金子兜太「曼珠沙華どれも沖遠く泳ぐなり」、宮内寒彌「七里ヶ浜」
東京は、尾崎翠「第七官界彷徨」、阿部知二「冬の宿」、北條民雄「いのちの初夜」、高見順「如何なる星の下に」、石田波郷「朝顔の紺のかなたの月日かな」、小山清「落穂拾ひ」、三島由紀夫「橋づくし」、佐多稲子「水」、葛原妙子「他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水」、村上春樹「かえるくん、東京を救う」
中部は、中勘助「島守」、島崎藤村「夜明け前」、中野重治「汽車の罐焚き」、飯田龍太「紺絣春月重く出でしかな」、沢木欣一「塩田に百日筋目つけ通し」、深沢七郎「庶民列伝」、武田百合子「富士日記」
近畿は梶井基次郎「城のある町にて」、小野十三郎「大阪」、丹羽文雄「青麦」、椎名麟三「美しい女」、井上靖「補陀落渡海記」、河野裕子「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」
中国は、国木田独歩「馬上の友」、正宗白鳥「入江のほとり」、石川達三「交通機関に就いての私見」、田畑修一郎「医師高間房一氏」、中野重治「萩のもんかきや」、田中小実昌「ポロポロ」
四国は、芝木器男「大年やおのづからなる梁響」、高浜虚子「ふるさとの月の港をよぎるのみ」、黒島伝治「瀬戸内海のスケッチ」、井伏鱒二「へんろう宿」、大原富枝「婉という女」、瀬戸内寂聴「南山」
九州・沖縄は、若山牧水「ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り」、武者小路実篤〈新しき村〉創設、中谷宇吉郎「由布院行」、山之口貘詩集、梅崎春生「幻化」、橋川文三「対馬幻想行」、金達寿「対馬まで」、松本清張「骨壺の風景」、長堂英吉「ランタナの花の咲く頃に」
広い地域にわたるものとして、国木田独歩「忘れえぬ人々」、森鷗外「山椒大夫」、芥川龍之介「芋粥」、加能作次郎「世の中へ」、田宮虎彦「霧の中」
を紹介しています(書き写すの疲れた)。
こんなふうに地域ごとに作品を区分して紹介した例を私は知りません。
最後に、「文学」について著者が語った最も印象的な個所を紹介してレビューというには雑なレビューの筆を置きたいと思います。
「文学は実学だ、とぼくは思います。人間にとってだいじなものをつくってきた。あるいは指し示してきた。虚学ではない。医学、工学、経済学、法学などと同じ実学です。人間の基本的なありかた、人間性を壊さないためのいろんな光景を、ことばにしてきた。文章の才能をもつ人たちが、人間の現実を鋭い表現で開示してきた。だから文学というのは人間をつくるもの、人間にとってとても役に立つもの、実学なのだと思います。それをいま必要以上に軽んじようとしている空気がある。実学と一般に言われるものが、医学や工学や経済学や法学が、ほんとうに人間のためになっているか、きわめてあやしい。そういうなかで文学の現実的な力を再認識しなくてはならないと思います。その実学の信頼度を高めるためには『批判』を受けいれていく環境にしていくことが重要なのですが、それがいま内部からくずれつつある。」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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久しぶりに荒川洋治を読んだ。
講演集である。普段のエッセイとはちょっと違う雰囲気。途中途中で面白い事を言っていたりする。内容はいつも通り。おもしろいよ。 -
講演記録だから、妙な間や冗談があちこちにあって、時々ツボにはまる。
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敬愛する現代詩作家、荒川洋治さんの講演録。
知らない作家が大勢出てきて、文学の深さを再認識しました。 -
こんな、文学の世界にいたことがあった。文学は、実学だ。❗
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――いささか気恥ずかしいのですが、ぼくはこんな時代になっても文学が好きなのです――豊かな陰影をもつ作品と作家、印刷のこと、造本のこと、詩歌との出会い。現代詩作家がおくる、古くて新しい文学のはなし。