舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

著者 :
制作 : 御厨 貴  阿川 尚之  苅部 直  牧原 出 
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (363ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784120048838

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  • 舞台をまわす、舞台がまわる
    著作者:山崎正和
    中央公論新社
    オーラルヒストリー
    タイムライン
    http://booklog.jp/timeline/users/collabo39698

  • 山崎正和のオーラルヒストリー。
    聞き手は、御厨貴東大名誉教授、阿川尚之慶大名誉教授、苅部直東大教授、牧原出東大教授の4名の政治学者。
    劇作家・評論家でかつ大学教授の山崎正和に対して、何故政治学者が聞き手なのか。

    山崎には、もう一つ別の顔がある。佐藤内閣、福田内閣、大平内閣での内閣官房を通じての政府のブレーンでもあり、これらの内閣での政策決定に少なからず関わっていたという事情がある。
    ヒアリングは、1年半に渡り、1回2時間の計12回行われた。(延べ24時間)
    その結果、A5判、2段組み、360ページ強の大冊として刊行された。かなり重く、ベッドで読んでいるとやたらと肩が凝るので、途中からベッドで読むのをやめ、書見台を購入した次第です。

    山崎は1934年(昭和9年)京都で生まれ、5歳の時に満州に移住。満州で父親を病気で亡くしその後終戦を迎え、1948年(昭和23年)に京都に引き揚げてきた。終戦直前にソ連軍が満州に攻め込んできたが、彼らの多くは囚人であり、まさに血に飢えた狼のようだったという。その体験から、「私は無政府状態が如何に恐ろしいかを知っています。どんな悪い政府でも、無政府状態よりましだという信念の持ち主です」と述べている。

    《戯曲・世阿彌》
    山崎は、大学院生の時に書いた「世阿彌」で、岸田戯曲賞を受賞し、学者か芝居書きか迷っている時に、フルブライトから声がかかり、イェール大学の研究員(後に客員教授)として渡米している。
    ここで面白いのは「世阿彌」で世に出た山崎だが、本人曰く「舞台の能というものに親しみを持てなかった。率直にいって眠いですね・・・ただ世阿弥の能楽理論は、日本人にしては珍しく非常に論理的に書かれた演技論です。同時代の西洋にもまったくなかった新しい演技論というか、演技の哲学に興味をそそられました」
    能に興味のない人間が、世阿弥の戯曲を書き、それで人生が大きく周り始めたと言うのも皮肉なものだと思う。

    《学園紛争》
    その後帰国して、関西大学の助教授の時に学園紛争に巻き込まれる。学生闘争の最前線へ放り出され、学生に殴られ眼球にガラスが刺さるような経験もしている。その最中に当時の首相秘書官の楠田實氏から、首相官邸に呼び出されて佐藤首相に会い、その後学園紛争の対策チームに組み入れられた。この時のメンバーは、京極純一と衛藤瀋吉。別のチームでは、若泉敬や高坂正堯らが、沖縄返還交渉のためのチームを編成していた。
    当時の学園紛争は特殊な現象で、人を殴る、物を盗む、建物を占拠するという一般社会では犯罪とされる行為が、犯罪とならない。大学の中は無法地帯で嵐のように揉めていたが、一般社会の人たちは何も痛痒を感じていない。知的分野での大混乱がありながら、経済だけは素知らぬ顔をして伸びていた。そこでこの対策チームは、社会全体にショックを与えないと、大学だけでいくらやっても収まらない。これは重大な社会問題だということを、社会全体に認識してもらう必要があるということになって「東大の入学試験中止」という提案を行なった。タイミングは、東大安田講堂事件直後に、佐藤首相に安田講堂に行ってもらい痛恨の極みという表情を見せ、その顔写真が新聞に掲載された後「東大入試中止」と言わせるという演出まで行った。劇作家の面目躍如ということか。
    これでやっと社会全体が動き、学園紛争が終息に向かったと本人は述べている。学生共闘はその後、セクト間の闘争に移行し、あさま山荘事件や凄惨なリンチ事件が発生したのは、我々が知るところである。

    《新現実派》
    山崎は、佐藤内閣、福田内閣、大平内閣で政府のブレーンとして参加しているが、田中内閣と中曽根内閣には参加していない。この頃のメンバーとしては、梅棹忠夫、高坂正堯、永井陽之介、公文俊平、中嶋嶺雄、佐藤誠三郎らがいた。左派やマスコミからは高坂正堯の『現実主義者の平和論』をもじって「新現実派」と呼ばれ、左派中心の大学内では孤立していたそうだ。

    確かに当時の私の感覚としても「朝日岩波文化人」と称される進歩的文化人?以外は、知識人とはみなされないような雰囲気があった。上記の永井陽之介は、アメリカ留学中にキューバ危機を現地で体験し、国際政治の厳しさを目の当たりにして日本の平和主義に危機感を抱き、日本の「非武装中立」という理想的平和主義を批判した。平和主義をうたう丸山眞男門下でありながらそのような論文を発表するのに躊躇がなかったかといえば嘘になると述べている。その結果東大から追放されている。-「現代と戦略」および「平和の代償」より

    《近代的自我について》
    山崎は「鴎外・闘う家長」で読売文学賞を受賞している。その評伝を書き始めて、気づいたことは、鴎外には自我がないということであるという。しかも「ない」ということを本人がはっきりと自覚している。そしてなぜ「ない」のかわからないと悩んでいる。
    近代日本文学を研究していれば、このテーマに必ず突き当たる。漱石はこの問題を正面に押し出して悩んだ。
    日本のインテリが自我に目覚める最大のきっかけは、恋愛問題ないし結婚問題で、そこで親と対立する。縁談を断って東京に飛び出してくるというのが、日本の近代的自我のパターンだという。親に反抗するだけで、逆に中身については、主張すべきものは何もない。それがない中で、自我を主張しようとすると、どういうことになるか。全部「拒否の自我」になる。しかし、鴎外については親の抑圧を受けていないので「拒否の自我」もない。観念としての近代的自我は、外国の本を読んでいるから頭に入ってくる。その落差に苦しんでいたという。鴎外は自我がないことの苦しみと不安を、生涯のテーマにして書いたという。

    その後、大阪大学の教授になり、山崎の後半生は、「大阪・関西復興運動」や「サントリー財団」の設立に尽力する。

    この本を読んでいて、母子家庭で、苦学しながらも劇作家という経済的に困難な世界から、筆一本で人生を切り開いてきた山崎正和という人は、本当に頭の良い、凄い人だと人だと思う。
    これだけでは、竜頭蛇尾で書き足らないのだが、紙面も足りないので、中途半端ですが終わりにします。

  • 劇作家にして、学者がブレーンとして
    関わった現代史を語る。

    総理や政治家、官僚のしられざる
    横顔が興味深い。

    しかし
    今の政治家にもこういう碩学を
    相談役として抱えている人はいるんだろうか??

  • 東2法経図・6F開架:912.6A/Y48y//K

  •  オーラル・ヒストリーとして、とても面白かった。
     単純な保守派ではない、豊かな一つの戦後史だった。
     

  • 満洲からの引き揚げ体験、劇作・評論活動の開始、政治との関わり、サントリー文化財団設立の経緯……。ロングインタビューを通して、日本を代表する知識人が自らの歩みを振り返る。

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著者プロフィール

1934年生。京都大学大学院博士課程修了。中央教育審議会前会長。大阪大学名誉教授。『世阿弥』河出書房新社 1964年、『鴎外 闘う家長』河出書房新社 1972年、『文明としての教育』新潮新書 2007年など

「2010年 『「教養」のリメーク』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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