- Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121004796
感想・レビュー・書評
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#中公新書
#今西錦司 #ダーウィン 論
ダーウィンの自然淘汰説(個体差により適者生存し遺伝される生物法則)を 批判した本
ダーウィンの自然淘汰説、著者の棲みわけ論 いずれも 人間社会学という感じ
生物が神の手なしでも自ら進化できることの論証を試みたダーウィンに対して、著者の論考は、生物の進化が 神の創造したシステムの上に成り立っているようにも感じる
著者の進化論(ダーウィンとの違い)
*生存競争の有無を問わず、運のよい個体が生き残る〜どの個体が死んでも支障がないシステムがある
*棲み分け理論〜棲み分けが完成したら自然は一つの均衡状態にある
著者の言葉は生物学というより、思想に近い「進化は、歴史の一環〜偶然も必然も〜そのなかに突っ込んだまま、時の流れとともに流れてゆく」
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ダーウィン論とはあるものの、むしろ著者の考える日本人的発想の進化論で、日本人なら納得しやすいのではなかろうか。
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荒俣先生の『知識人100人の死に方』で取り上げられていて、棲み分けを調べていたら読んでみたくなった。
久々にものを考える新しいひとに出会った気がする。生き物という事実を相手にしているからなのだろうか。生きるということ、在るということに、これほど肉薄した科学者に出会うことはとっても稀なような気がする。
自身の原点であるダーウィンを紐解きながら、自分の立っている前提、生命観に気づいていく様は、ダーウィンと対話しながら考える姿だ。突き詰めていく理論は、科学の枠組みを超えて物語のようになる。それは宇宙論のホーキング博士もそうであった。
古生物、生物の世界もまた、宇宙のひとつだと思う。存在が無限が、どこまでも拡がっている。今西博士はそんな無限が、無限であるがゆえに、多様であると同時に、まとまりをもって生きているそんな姿を見ている。自然とはひとの想像以上にバランスをとっている。人工的な環境こそ、そうした制限のとれた状態なのではないか。だからこそ、いろいろな変化が出やすい。自然はただ弱肉強食の殺伐とした世界ではなく、互いにけん制し、棲み分けながらなんとなく生きている。大きな変化があって、何か穴が開いたとしたら、それを埋めるべく新しい生物がその座を占める。けれどその座を占めるのは強いもの、環境に適応したとかいうのではなく、たまたま巡りあわせでそうなったにすぎない。
進化論の多くが後付けで、今いるタイがなぜずっとおんなじ顔なのか説明をつけてくれない。たまたまそうなっているというのをもっともらしく、それが環境にふさわしかったからだというベールで包んでしまう。ではなぜその環境がふさわしいとわかるのか、ふさわしいとする環境というその時の環境とは一体何を指すのか。そうしたことを遺伝子論は決して肉薄しない。存在を前に考え続けると、徒手空拳にならざるを得ない。そんな考える人間にまたひとり出会えた。 -
高校生のとき
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内容的にはおそらく間違いだし古いが、土着思想からのレジスタンスというのがユニーク。
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(1977.10.02読了)(1977.09.24購入)
副題「土着思想からのレジスタンス」
*本の帯より*
四十年の蓄積が培った独自の進化論を携え古典を再検討する
カゲロウ幼虫を材料に用いながら、生態学から分類学を通して社会学へと向かってゆく中で、著者は独自の進化論を培ってきた。一方、進化の道筋を、個体間の生存競争による自然淘汰と説明するダーウィンの思想は、一世紀の間、長い安泰を誇り今日なお進化論の主流にある。彼我の理論の分岐の原点を訪ねるべく、『種の起源』の精細な再読を試みた本書は、相異なる二つの自然観の対決であり、著者の中心テーマの見事な集約である。
【目次】
第一章 ダーウィンとのかかわり
第二章 ダーウィニアン・ドクトリン
第三章 ドクトリンの崩壊
第四章 自然淘汰を否定したところは同じだが
第五章 種は変種から生じたか
第六章 優占種に変種が多く生まれるか
第七章 ダーウィンとラマルク
第八章 環境はどのように取りあげられたか
第九章 ふたたび大進化の舞台へ
第十章 ダーウィンとウォレース
第十一章 むすび
あとがき
グロッサリー
☆今西錦司の本(既読)
「人間以前の社会」今西錦司著、岩波新書、1951.08.05
「アフリカ大陸」今西錦司編、筑摩書房、1963.10.25
「人類の祖先を探る」今西錦司著、講談社現代新書、1965.07.16
「人間社会の形成」今西錦司著、NHKブックス、1966.04.20
「私の自然観」今西錦司著、筑摩書房、1966.06.20
「人類の誕生」今西錦司著、河出書房、1968.03.10
「学問の建設」今西錦司・下村寅太郎著、日本ソノサービスセンター、1969.02.01
「私の進化論」今西錦司著、思索社、1970.05.01
「生物社会の論理」今西錦司著、思索社、1971.03.15
「自然と山と」今西錦司著、筑塵書房、1971.07.15
「日本動物記1 都井岬のウマ・飼いウサギ」今西錦司・河合雅雄著、思索社、1971.10.01
「日本動物記4 奈良公園のシカ・動物園のサル」今西錦司著、思索社、1971.12.01
「生物の世界」今西錦司著、講談社文庫、1972.01.15
「今西錦司座談録」今西錦司著、河出書房、1973.03.10
「そこに山がある」今西錦司著、日本経済新聞社、1973.07.19
「人類の進化史」今西錦司著、PHP研究所、1974.03.25
「今西錦司全集第7巻ニホンザルの自然社会・ゴリラ」今西錦司著、講談社、1975.03.12
「今西錦司の世界」今西錦司著、平凡社、1975.06.25
「進化とはなにか」今西錦司著、講談社学術文庫、1976.06.30
「私の霊長類学」今西錦司著、講談社学術文庫、1976.11.10
「山岳省察」今西錦司著、講談社学術文庫、1977.09.10 -
ダーウィンの自然淘汰説に異をとなえつつ、ダーウィンの進化論を批判的に紹介した本。
適者が生き残ること(自然淘汰)によって新種が生まれ、生物は進化していくのだというダーウィンの仮説に対して、今西さんは「種はあらかじめ、どの個体が生きのこっても種の維持存続に支障をきたさないように段どりしている」のだと考える。そこには、種の中でどの個体が生き残るかを決定するのは、(ダーウィンが主張したように)個体差の優劣なのではなくって、「運」なのだという前提がある。
それはそうじゃないかなあ、と思う。
今西さんの進化論がダーウィンの進化論と異なる、もうひとつの点は、今西進化論においては、種と個体とは別のものなのではなくって、それだから種が変化するときには、どの個体も同じように変わるはずであって、一個の個体、あるいは一組の男女を種の起源と考えなければならない理由はない、としているところ。
それもそうじゃないかなあ、と思う。
あと面白かったのが、個体数の多い、いわゆる「優占種」と、個体数の少ない種との個体数の分布をグラフ化すると、きれいな曲線になるらしい。これを無機化学者の西堀栄三郎さんに話したら、地球上にある物質の配分も似たようなものになるだろうと言われたとか。
そこで今西さんいわく、「そういうことであると、ある地域にすむ生物のなかに、個体数の多いものとすくないものとができるのは、生存競争というような生まぐさいこととはおよそ縁のとおい、なにか生物にも物質にも共通したほかの原因に、よるものであるのかもしれない」。
うーん、なんかちょっと「生物学」らしからぬ方向に行きそうな、宇宙的な発言。
今西進化論の最大の特徴は、次のように、進化というものを、個体とか種とかよりも大きなシステム全体の変化(歴史)としてとらえる視点かもしれない。
(以下引用)
「進化といっても、それは三十二億年まえにこの地上にはじめてあらわれた生物の、自己発展でないか。すると、進化の結果、いかに生物の種がふえたところで、もとは一つのものから発展したかぎり、それらの種のすべてをふくんだ生物全体社会というものには、この三十二億年を通じた、一つのシステムとしての自己同一性がなくてはならない。そして、この点だけに着眼したならば、進化というのはわれわれの身体の成長にも比すべき、一つのシステムの成長ではないのか」。
(引用おわり)
うーん、なんかこーゆーの好きです。
でも、こういうのは「自然科学」の分野では異端視されてしまうのだと今西さん自身が語っている。やっぱりなあ。
ダーウィンの「機械論的」な進化論と違って、今西さんの進化論は、どちらかというと「定向進化説 orthogenesis」といって、生物自体に進化への意志? というか進化する力が内在している、という説(いまでは廃れている、ということになっている)に依っているのだそう。
ふーん、なかなか面白い。