- Amazon.co.jp ・本 (193ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121006745
感想・レビュー・書評
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2017.1.27
非常に面白かった。「もの」と「こと」の思考、時間の3つの類型。
「もの」と「こと」の思考は原理的で、もっと深めたい思考方式だと思った。確かに我々の思考は「もの」的な思考にだいぶ汚染されている。それは西洋の伝統そのままである。しかし、例えば自分を問題にするとき、「私とは何か」と人は問う。この時、この問い方がすでに、私=もの、という図式を当てはめてしまう。しかし私であるということ、という問い方もできるのである。他者とは何かではなく、他者がいるとはどういうことか、と問える。そしてもの的思考がその対象と私とを切り離し、対象を彼岸においてしまうのに対し、こと的思考は私とのつながりを話すことなく考えることができる。「こと」は主観と客観の間にある。それは言葉にした瞬間に「もの」になってしまうけれども、行間の間にこそ存在するようなものである。そして私とはこのような間として存在しているのではないか。私とは「もの」ではなく「こと
」である。
この話を聞いた時、これはかなりいろんなことが整合的につながってくるのではないかと思った。ヤスパースの実存的交わりは「もの」から「こと」への視点移動ではないか。鷲田清一さんが問題にしている「聞くこと」とは、相手の語る内容ではなくまさに相手が私に対して語るという「こと」への問題ではないか。ユダヤ教由来の対話の哲学もこれを問題にしているのではないか。もしももの的思考よりこと的思考が日本の伝統的な価値観だったのならば、日本的(東洋的?)思考とユダヤ教的思考には似通った部分があるのではないだろうか、などなど。私はそれまでの私の認識枠組みをぶち壊してくれるような思考原理を手にいいれることが好きである。これはまさに、そのようなものであった。
時間について。まず時間とは時計のような時間ではない。そのような等量的な時間はのちに作られた発明である。我々は我々独自の時間感覚を生きている。集中していて2時間が10分のようだったことはあるだろう。しかし本当に10分と勘違いしていたら共同生活は送れない、約束は守れない。よって時間を発明した。それ以前の時間感覚としての時間には3つの側面、アンテ・フェストゥム(以下a)、ポスト・フェストゥム(以下b)、そしてイントラ・フェストゥム(以下c)がある。これらの時間を著者は、精神分析医として、成人病患者の分析から明らかにしていく。
aは、分裂病患者の特徴としてあげられる。彼らはそれまでの自分の過去を、過去の積み上げとしての現在を見ない。見ないように、未来を見る。未来に希望を投げかける。それは未知としての未来である。未知であるがゆえに、もしこれができたら今までの自分の人生は変わる、というような希望を持つ。彼らは「既知」を否定し、「未知」を生きる。それまでを否定し、それまでではない未来を求める。それは希望でありながら恐怖である。ゆえに他者や未来を恐れることもある。
bは、うつ病患者の特徴である。彼らの性格特性は、役割同一性である。なになにとしての自分として、完璧にいつも通りの環境の中で、いつも通りの毎日を生きようとする。彼らが鬱になるのはそのいつも通りが崩壊した時である。彼らは「未知」を否定し、「既知」を生きる。それまでを肯定し、それまでではない未来を否定する。
cはこの二つとはまた別の軸の時間であり、それは現在の優位である。これは癲癇、躁鬱病患者に見られる特徴であり、そこには時間が存在しなくなる。圧倒的今においては、自己は解体され、自己と世界の一体感を得る。これは日常生活においては、恋とか宗教的体験とかがあるだろう。そしてこれはa、bと両立するものであり、その意味で別の軸である。
つまり時間=私であるような人間のあり方として、時間から考えると二つの軸を用意できることになる。1つは、未知か既知か、という軸であり、もう一つは、今か永遠か、である。そしてこのような時間体験は一般人ならば誰でもあるだろう。未知への渇望は私をアフリカへ運んだ。既知の崩壊は私を部屋に閉じ込めた。私は今を生きている。そう、しかし、私には、永遠だけがない。圧倒的今、自己が解体され、一体となるような経験、祝祭的時間。これだけが、私の人生の経験の中には、足りないような気がする。恋愛をあまりしてこなかったことも、また無縁ではないだろう。
妙な縁だが、ある私の大好きな小説家が、まさにこの今を生きていたようである。私がどこかに知らずながら、その時間への憧れを感じていたのかもしれない。それはドストエフスキーである。
せめて私が私を解体し永遠の今に生きれるのは、酒を飲んだ時だけである。私は、どこかで自己を払いのけることを望んでいる。こんな余計なことばかり考える自分にうんざりしているのだろう。羨ましい。永遠の中に生きる経験ができる人間が羨ましい。しかし私は簡単には私を捨てられない。私は他者を恐れる人間だからである。私とは他者との差異である。差異に敏感であるほど、私は私に執着する。執着するほど私は私が鬱陶しくなるのだろう。
既知的時間と未知的時間の違いも非常に面白かった。思い当たるところも多くあった。
ここでの議論、未知と既知、今(私への執着)と永遠(世界との合一)は、そのままそっくり、他者との関わりに変換できる。他者は未知でありながら既知であり、私は他者とは違う個人でありながら、しかし他者との一致感を味わうこともある。非常に興味深いなと思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、見るという働きが可能であるためには、ものとの間に距離がなければならない。景色を見てその美しさに夢中になっている瞬間には景色もその美しさも客観になっていない。景色や美しさとのあいだに何らの距離も置かれていないから、我々はその景色と一体になっている。主観と客観が分かれていない。暫くして主観が我に帰るとそこに距離が生まれる。景色や美しさが客観になる。そして我々は美しいものを見た、と言う。あるいは美しさというものを余韻として味わうことになる。
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難しかった
もう一回読み直します -
分裂症やうつ病などの症状を、時間と自身の在り方から捉えてみることができるという考え方をこの本で初めて知った。
本書の中で、"もの"と"こと"は区別され、本質的な"こと"について考えようと思うことで、"もの"となってしまうため、健常な状態では"もの"と"こと"を区別することはできない。ということと、「言葉」の「言(こと)の葉」という成り立ちをみるに、言葉は"こと"の一側面しか表現しえないということころが、特に印象に残っている。
うつ病者は自己同一性と役割同一性の区別が上手く機能していないという記述にはなるほど、、、と思いながら読んだ。
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時間を見るときは、時間そのものではなく、いつまでに何分たったまでの、時間のあり方を見ている。
すべてのものは何らかのこと的なあり方をしている。
存在者の存在と、あるということそれ自体には根本的な違いがある。
自己の自己性とは、自己自身による自己認知なのである。
主語的自己と、述語的な私。
鬱→メランコリー型→真面目な人に多い。
→インクルデンツ(秩序の中に自分を閉じ込める)、レマネンツ(負い目を負う)
→所有の喪失
役割同一制
癲癇→アウラ体験:主観的で絶頂的な発作。現在が永遠に思える。
→現在が永続的かつ、それだけで満たされている状態。
アフリカ→時間の感覚:ササとザマ二のみ
ササ→生きられる現在
ザマ二→恒久的で全てを飲み込む過去
現状を維持するために未来を見るか、現場から逃げるために未来を見るか
時間が時間として流れている感覚と自分が自分として存在していると言う感じは同じ
現在の一瞬は人間が永遠の死と真正面に向き合って存在の充満を生きる輝かしい瞬間
人間に関するいかなる施策は死を真正面から見つめたものでなければいけない
私たちは時間を色付けて生きている。 -
哲学からの引用及び哲学的解釈も含まれるのである程度集中して噛み砕きながら読むことをお勧めします。この本で言われている時間とは物理学的な時間のことではなく、人間の認知における時間概念のことであり、人間にとって時間とは何か、時間を認識しているとはどう言う状態なのか等を離人症・分裂症・鬱病・癲癇患者等の時間感覚を比較・分析しながら考えて行くという興味深い内容。
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「もの」としての時間と、「こと」としての時間。
われわれは「もの」として意識することでしか、すなわち「もの」化することでしか、「こと」を意識できないのであって、それは時間についても同じである。
カレンダーや時計などの計量される時間が、まさにその代表。
しかし、「もの」としてしか意識できないとしても、「こと」としてある「いま」。
この「いま」について、木村敏は次のようにいっている。
「いまは、未来と過去、いまからといままでとをそれ自身から分泌するような、未来と過去とのあいだなのである」(傍点略)
われわれが未来あるいは過去についてなにかしらを語るとき、われわれはあたかも未来または過去なるものが、あらかじめ未来や過去を起点として存在しているかのような、いわば「分断点」としてそれを意識しがちである。
しかし、そのような過去/未来がまずあって、その「あいだ」に「いま」がはさみ込まれているのではない。
「あいだとしてのいまが、未来と過去を創り出すのである。」
このような「あいだ」という「こと」的な感覚。
平常われわれはこの感覚とともに、未来と過去、いままでとこれからの「あいだ」にある「いま」を、「…から…へ」という移行性のなかで生きている。
ところが、この「こと」としての時間感覚が失われる場合がある。
本書では、そうしたなにかしらの均衡が失われた時間感覚について、精神病と関連づけながら論じられている。
時間感覚から精神病についてみていくことが大変興味深く、その病気について理解が深まるとともに、「自己」と「時間」のつながりが、あるいは「自己」である「時間」、「時間」であるところの「自己」を考えさせられる。
新書のわかりやすさ、手に取りやすさを有しつつも、よくある多くの新書よりもはるかにタメになり、かつ興味深い一冊!