- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121009630
作品紹介・あらすじ
木綿が普及する以前、原料植物の栽培・採取からはじめて、生地を織り上げるまで一貫して自給性が強い手間暇のかかる衣生活を、ほとんどの日本人は強いられていた。しかし、栽培と製品化の分業が可能で生産性も高く、保温力・着ごこちともに優れ、しかも多彩な染色ができる木綿栽培の拡大は、それまでの日本人の暮らしに大変革をもたらした。衣生活はもとより、近世社会繁栄の要因の1つともいえる木綿の大衆化に至る過程を検証する。
感想・レビュー・書評
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木綿の成り立ちについて知りたくて手に取った一冊。
いまや私たちの生活のそこかしこに当たり前に存在する「木綿」が、かつては日本で栽培することが難しく、舶来品に頼るしかなかったため非常に高価なものであったこと、やがて日本各地で栽培が可能になり爆発的に生産され、「自家用」ではなく「商品用」として現金収入を得る手段として栽培される品目となり、大きな経済活動を生み出したこと(それにより、染料である藍や、それらを運ぶ廻船問屋の発展にまで影響した)ということが、非常によくわかる。
苧麻というのは、ようするに麻布だが、麻布を織るのには非常に膨大な手間を要し、自家用以上の生産を生み出すことが難しかったそうで、苧麻から木綿への変化はまさに革新であったんだろう。
どちらかというと「安い繊維素材」という認識しかなかった木綿の凄味についてよくわかる一冊だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
養蚕は弥生時代から行われていた。苧麻は特に、東日本や東山、北陸で生産されていた。律令国家が成立し、租庸調の税制が実施されると、東国の調・庸の中心は布(麻織物)、絹、綿(真綿)だった。布の織製は、秋から冬にかけて織り続けても3~4反程度だったと推測される。麻は木綿の10倍はかかるといった発言も聞かれた。
木綿の栽培と綿布の生産は、宋時代末期には江南に及んだが、明の洪武帝が栽培を奨励したことで、14世紀末から15世紀初めに本格的に発展した。
14世紀末に李朝が成立すると、遣使をそのまま受け入れる外交方針をとったため、中国・九州地方の大名・国人たちは頻繁に赴いた。木綿は兵衣としてこれに勝るものはないと考えられ、15世紀初めには、銅・鉄を輸出し、綿布を得るようになった。
江戸時代以前に、九州から関東までおそらくほとんどの地域で木綿栽培・木綿織は展開していた。江戸時代には、近畿地方が最も高度な綿作地帯となり、大坂には17世紀前半に問屋組織が成立した。三河では、矢作川中・下流域で発展し、平坂湊から江戸向けに積み出された。
木綿はまず軍需品として用いられ、火縄にもよいとされた。帆布にも用いられ、主力が櫓櫂から帆走に移行し、船足が速くなり、船も大型化した。1630年頃には、庶民にとっても入手しやすい日常衣料となっていた。
木綿は、栽培から織布までの全工程を通して分業しやすく、経済性に優れ、関連する周辺分野にも刺激を与えた。栽培には干鰯や油糟などの肥料を多量に必要で、労働集約型の小農経営に適していた。染料としての藍が阿波で発展し、九十九里浜の干鰯は、木綿や藍の栽培の肥料として大坂に送られることで、廻船業も発展し、日本経済史において中世から近世への転換の役割を果たした。
苧麻は、江戸時代になっても夏の衣料、武家の礼服、蚊帳、綱の材料として用いられた。中世後期には、越後で生産された青苧がならで織布・加工され、奈良晒として高い評価を得た。江戸時代に入ると、米沢、山形、会津などでの生産が盛んになり、越後の地位は低下した。
農家の灯油として室町時代から荏胡麻が使われ始め、江戸時代には菜種に代わった。
明治になると、綿業は輸出振興の中心的産業として位置づけられ、各地に官営工場が設置された。しかし、明治19年に企業勃興期に入ると、資本家たちはインド・中国の輸入綿を原料とするようになり、明治29年に議会が輸入関税を撤廃を決議すると、国内の綿作は消滅した。