- Amazon.co.jp ・本 (219ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121009678
作品紹介・あらすじ
朝敵とされた会津の人々の上に、戦火の嵐は否応なく襲いかかった。その中で、荒川勝茂は勇猛を誇る佐川官兵衛隊にあって血槍を振るい、戦争の惨劇を身をもって体験した。戦後は新潟での謹慎、さらには慈しむ家族とともに、下北の苛酷な暮しを強いられる。迎えた新生日本も、勝茂一家を窮乏と苦悩から解き放つことはなかった。しかし、勝茂は会津武士の矜持を捨てず、試練に耐えた。彼は履歴書に記す。"罰かつて受けし事なし"と。
感想・レビュー・書評
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再読。荒川類右衛門勝茂は会津の中級藩士。会津の名家で重臣の北原采女の家臣。天保3年(1833年)生まれで幕末の頃は30代半ば。失礼ながら歴史の教科書に載るような有名人ではない一般の藩士だが、とても生真面目な人だったようで、会津藩が京都守護職を拝命した頃から晩年まで日記を書き続け、明治30年頃にそれを『明治日誌』として4分冊にまとめた(とはいえ出版されたわけではなく家族のための記録的なもので門外不出)。明治41年77歳で死去。
本書は彼の日記の記述をベースに、山川健次郎の『会津戊辰戦史』等も交えて、会津藩の歴史を辿る構成になっている。この、普通の藩士がただただ自分の毎日を綴った日記、という資料のなんと貴重なことか。公式の文書などには記されていない実地に見たことの詳細などがとてもリアルに伝わってくる。
元治元年、京都詰になり、そこから数年であっという間に鳥羽伏見の戦い、そして会津に戻ってからの籠城戦。大河ドラマにもなった『八重の桜』の八重さんが、大砲を放って敵を撃破する場面も荒川勝茂は目撃し「さすがは砲術師範の家の女なり」と記している。「小袴を着け、あたかも男子のごとし」だったそうだ。
勝茂は途中から、佐川官兵衛が指揮する城外ゲリラ部隊のほうへ配属され、城の外で闘うことになる。自刃した婦女子の遺体、戦場に転がる多くの遺体を彼は見る。敗戦後は、謹慎所へ送られるが、勝茂が送られた越後高田藩は会津に同情的で、かなり待遇が良く、処分待ちの謹慎期間中でありながらこの時期は、茶道や歌道にいそしみ、意外なほど穏やかな日常が綴られている。
ただそこから、ようやくお家再興、斗南への移封が決まり藩の再建に希望を抱くも、厳寒の下北半島で、勝茂一家も飢餓にあえぐことになり、栄養失調でまだ3歳だった三男が亡くなってしまう。『ある明治人の記録』で柴五郎も斗南当時の生活の過酷さを記していたが、それは勝茂も同様。やがて廃藩置県となり、いったんは斗南にとどまることにした勝茂だったがやはり生活が出来ず会津へ戻ることに。しかし長男や妻、長女が次々亡くなり(原因はそれぞれ病や流産)斗南での栄養失調が遠因だと勝茂は思っていたようだ。
やがて小学校教員として採用され、再婚し、新たに多くの子をもうけ、ようやく安定した平穏な日々となる。戊辰戦争の敗者である会津藩士が、その後の人生をどのように生きたか、というひとつの貴重なサンプル。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
(2014.01.13読了)(2005.02.26購入)
【新島八重とその周辺】
副題「会津藩士荒川勝茂の日記」
幕末から明治を生きた一人の会津藩士の日記をもとに会津藩の歴史をたどります。
会津戦争、降伏後の謹慎生活、斗南藩での生活、廃藩置県に伴う帰藩、故郷での生活基盤の確立、等、「八重の桜」では、よくわからなかった部分の一端がわかります。
八重は、籠城組でしたが、荒川勝茂は、城出てゲリラ戦を行った佐川官兵衛の隊に属していました。降伏を知ったのは、実際の降伏の10日後だったとか。
降伏後、会津藩士は猪苗代あたりに謹慎していたのかと思ったら、越後高田に一年以上お預けになっています。その間、勉強したりしています。
斗南藩としてのお家再興が決まると、いったん会津に戻り、家族を連れて再び高田に戻り、船で青森に移動しています。
斗南藩での生活は、藩の援助がかなりあったようですが、穀物が思うように実らず、とても自立した生活は成り立たなかったようです。
廃藩置県となり、藩の援助が出来なくなったので、希望者は、会津に戻ることができたので、知人を頼って会津に戻りました。
生活が自立できるようになったのは、小学校の教員として採用されてからです。
会津藩士は、他の藩に比べて教育レベルが高く、多くの人たちが、教員として採用されているようです。
斗南での生活と会津に戻ってから自立できるまでの間に家族を何人も失っています。十分食べることができなかったために。
会津藩士の幕末から明治の生活を知るうえで貴重な本だと思います。
【目次】
まえがき
Ⅰ 京都守護職
Ⅱ 戊辰戦争
Ⅲ 血の海
Ⅳ 無念の白旗
Ⅴ 越後高田での謹慎
Ⅵ 会津藩再興
Ⅶ 苦闘する斗南藩
Ⅷ 故郷での再起
Ⅸ 怒りと悲しみ
あとがき
●山本覚馬妹(61頁)
城中にても追手高塀あるいはところどころの土堤、大銃を仕掛け、発砲す。なかにも廊下橋より小田山へ打ちだす大砲にて敵を悩ませしなり。これは山本覚馬妹にして川崎庄之助妻なり。さすがは砲術師範の家の女なり。大砲を発する業誤らず敵中へ破裂す。諸人目を驚かす。身にはマンテルをおおい、小袴を着け、あたかも男子のごとし。
●略奪換金(70頁)
略奪品は、日光口の今市まで荷馬で送り、そこで売りさばいていたのである。
薩長軍は金品や食料をすべて現地でまかなっていたのである。
(これが、日本陸軍の伝統になったのでしょうか。)
●「会津のゲダカ」「会津のハドザムライ」(163頁)
ゲダカというのは、下北地方の方言で毛虫のことである。勝茂の一家を始め会津の人々はなんでも食べた。ウコギ・アカザ・ゼンマイ・アザミ・アサツキ・ヨモギ・フキ・ワラビの根、毛虫のようになんでも食べた。
「ハドザムライ」というのは、三戸・五戸地方の陰口である。鳩のように大豆や豆腐のおからばかり食べているという意味である。
斗南藩は再三再四、明治新政府に救済米を願い出たが、すぐどうなるということもなく、各自、山菜採りや昆布拾いに努め、あるいは地方の人々の援助にすがるしかなかった。
●明治五年(171頁)
悪食のため胃に虫がわき、老人・子供がばたばたと死んで行った。汗水たらして開墾し、種を蒔いても収穫はない。冬になっても着るものもなく、寒さにふるえる日々である。
●会津若松(188頁)
勝茂は斗南の地で母と三男を失った。斗南での苦労を乗り越え、やっとの思いで会津若松に帰るや長男の死である。続いて妻の流産、そして死、さらに長女の死である。
勝茂の手元に残ったのは、二男の乙次郎と二女のキチだけになった。
●教員(191頁)
会津人は、当時としては極めて高いレベルの教育を受けており、教員としては最適であった。勝茂にとっても、教員は願ってもない職業であった。
☆関連図書(既読)
「保科正之-徳川将軍家を支えた会津藩主-」中村彰彦著、中公新書、1995.01.25
「奥羽越列藩同盟」星亮一著、中公新書、1995.03.25
「戊辰戦争」佐々木克著、中公新書、1977.01.25
「松平容保-武士の義に生きた幕末の名君-」葉治英哉著、PHP文庫、1997.01.20
「松平容保は朝敵にあらず」中村彰彦著、中公文庫、2000.02.25
「明治の兄妹-新島八重と山本覚馬-」早乙女貢著、新人物往来社、2012.05.28
「カメラが撮らえた新島八重・山本覚馬・新島襄の幕末・明治」吉海直人編著、中経出版、2013.04.24
「新島八重の維新」安藤優一郎著、青春新書、2012.06.15
「小説・新島八重 会津おんな戦記」福本武久著、新潮文庫、2012.09.01
「小説・新島八重 新島襄とその妻」福本武久著、新潮文庫、2012.09.01
「八重の桜(一)」山本むつみ作・五十嵐佳子著、NHK出版、2012.11.30
「八重の桜(二)」山本むつみ作・五十嵐佳子著、NHK出版、2013.03.30
「八重の桜(三)」山本むつみ作・五十嵐佳子著、NHK出版、2013.07.26
「八重の桜(四)」山本むつみ作・五十嵐佳子著、NHK出版、2013.10.10
「吉田松陰」奈良本辰也著、岩波新書、1951.01.20
「吉田松陰」古川薫著、光文社文庫、1989.06.20
「吉田松陰の東北紀行」滝沢洋之著、歴史春秋出版、1992.12.25
「岩倉具視-言葉の皮を剥きながら-」永井路子著、文藝春秋、2008.03.01
「流離譚(上)」安岡章太郎著、新潮文庫、1986.02.25
(2014年1月14日・記)
(「BOOK」データベースより)amazon
朝敵とされた会津の人々の上に、戦火の嵐は否応なく襲いかかった。その中で、荒川勝茂は勇猛を誇る佐川官兵衛隊にあって血槍を振るい、戦争の惨劇を身をもって体験した。戦後は新潟での謹慎、さらには慈しむ家族とともに、下北の苛酷な暮しを強いられる。迎えた新生日本も、勝茂一家を窮乏と苦悩から解き放つことはなかった。しかし、勝茂は会津武士の矜持を捨てず、試練に耐えた。彼は履歴書に記す。“罰かつて受けし事なし”と。 -
会津藩士 荒川類右衛門勝茂の日記を元に書かれた本。単なる歴史書ではなく一藩士の生活が書かれていて興味深かった。