保科正之: 徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公新書 1227)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121012272

作品紹介・あらすじ

徳川秀忠の子でありながら、庶子ゆえに嫉妬深い正室於江与の方を怖れて不遇を託っていた正之は、異腹の兄家光に見出されるや、その全幅の信頼を得て、徳川将軍輔弼役として幕府経営を真摯に精励、武断政治から文治主義政治への切換えの立役をつとめた。一方、自藩の支配は優れた人材を登用して領民の生活安定に意を尽くし、藩士にはのちに会津士魂と称される精神教育に力を注ぐ。明治以降、闇に隠された名君の事績を掘り起こす。

感想・レビュー・書評

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  • 再読。保科正之は二代将軍・徳川秀忠の庶子。恐妻家であった秀忠は妻・於江与の方(江姫)の嫉妬を恐れて公にせず、こっそり信濃国高遠藩主・保科正光の養子とした。正之は生前ついに秀忠と親子の名乗りはできなかったらしい。三代・家光の代になり異母弟であることが公にされて家光を補佐するように。家光には同母弟・忠長がいたが、母の於江与がこの弟のほうを溺愛したため確執があり、こちらは母の死後奇行が増えて最終的に自刃。

    家光は謙虚で賢明な正之を頼り、高遠3万石から出羽山形20万石を経て最終的に会津23万石に移封。保科正之は初代会津藩主となる。とにかく名君。自己の利益より民百姓の安泰を考えた政策の数々、現代の政治家に爪の垢を煎じて飲ませたいくらい。家光亡きあとは、幼少の四代将軍・家綱の補佐役として活躍。

    この正之の遺言=会津藩家訓に、とにかく徳川家第一、将軍家を守護するのが会津藩主の役目、これをないがしろにする者は会津藩主ではないというような内容があり、幕末の会津藩ではこの藩祖の家訓ゆえに、京都守護職を引き受けざるを得なくなったというのは有名な話。

  • 著者は保科正之に惚れ込んでいるのだなぁ。

    保科正之は確かに政治家として優れた人間かもしれないけれども、彼の素地となった朱子学なるものこそなかなかの代物なのではなかろうか。

    会津が悲しき歴史を背負うこととなり、正当な評価を受けることなく、歴史の影に葬られようとし、そこから著者のような人間が事実を掘り起こし、会津の素晴らしさを伝えてくれることに感謝はするが、ちょっと主観が強い気がするし、根拠も弱いかなと思った次第である。

    ただ、現代にはもはや絶滅危惧種となってしまった、真の意味での政治家であったことは、政策から伺えたのは良かった。

    もう少し、会津の勉強しよ。

  • 「将軍家綱の輔弼役として老中たちの上に立ち、武断政治を文治政治へと切り換えた立役者」、殉死や子殺しを禁じ、社倉制度のみならず救急医療制度や国民年金制度まで日本で初めて制定した「福祉制度の父」というべき」名君中の名君、保科正之の足跡を辿った書。
    著者が結びで書いているように、その名君振りはもっともっと取り上げられていいのになぁ。

  • 素晴らしい男。

  •  ゴジラに破壊されようが、巨神兵に薙ぎ払われようが、華の都大東京の象徴・東京タワーは再建されるが、華のお江戸の江戸城天守閣は再建されなかった。それはなぜかと問われれば、初代会津藩主の名君保科正之がいたからだ。

     3代将軍の家光の異母弟として生を受け、権力争いに巻き込まれることを避けてひっそりと育てられていた正之だが、その存在を知った家光に抜擢され、その才能を評価されてからは右腕として手腕を発揮した。頼朝と義経みたいだが、最期までその兄弟愛が深かったところが違う。


     明暦の大火により焼け落ちた天守閣の再建よりも民の復興を優先すべきであると献策し、天守再建論を退けた。また人口増加により深刻化していた江戸の水不足を解決するために、玉川上水の掘削事業にも着手する。(どうでもいい話だが、保科正之がいなければ太宰治が入水自殺をすることもなかったといわれているらしい)


     会津藩主になってからも将軍の信頼厚く江戸を離れることができなかった正之は、遠隔の地から藩政を行った。
     民中心の政治姿勢は江戸でも会津でも変わらなかった。
     
     飢饉や不作に備えて、備蓄米を常に一定量蓄えたのもそのひとつ。米を貨幣代わりに備蓄するのではなく、災害時の救済米という目的限定で蓄えておくことをしている藩はなかったらしい。
     のちに奥羽諸藩が飢饉に苦しんだ時も会津藩からは餓死者が出なかった。救済米として他藩に分け与えてもいる。


     そんな名君なのに、なぜ今じゃ知る人も少ないのか。
     深く考えずともわかると思うが、薩長閥の支配した明治新政府が、会津の藩主のことなんかよく言うわけがない。だから次第に忘れられてしまったのだ。


     正之の思想信条が後々まで藩の命運を左右してしまった有名な会津家訓十五箇条。
    「君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。」
     これによって松平容保は京都守護職という火中の栗を拾わざるを得なくなってしまった。
     ああ、この一条さえなければ・・・


     他にも「婦人女子の言、一切聞くべからず」という一条もある。
     今なら炎上必死のこの一文は、悪妻が政治に口を挟み、汚職や権力闘争に暗躍したからだとか。
     名君といえども女を見る目は節穴だったか。

  • 家光の四男、保科正之。恥ずかしながら最近までその存在を知らず。松平を名乗ることを潔しとせず、ひたすら世のため人のために陰から幕政を支えた男。江戸時代があれほど長く続いたのはこの男の存在に依るところが大きいのでは。会津と徳川の関係もそういうことかと納得。

  • 保科正之が家光に取り立てられた経緯や、在世中の善政、継室おまんの方の悋気など、正之の知らなかったことが分かり面白かった。玉川上水は玉川兄弟が有名だが、その影に正之による推進があった話などは初めて知った。

  • 天地明察の中に登場した人物で、どこかで読んでみたいと思って手に取った本。
    飢饉時の貧農・窮民の救済のために開設した「社倉制」を実行できる偉大な人物。
    時代劇とかに出てくるお米を貸して金利2割で返すなんて悪党のやることじゃんって思ってたけど、その金利分は窮民のために使うためとあればすごい。
    そして凶作とかだと、金利分を免除したりと、民のための政策であることが十分に伝わる。
    また、天守閣も見晴らしが良いだけで、役に立っている例が過去の文献に無いといって、建て替えたりしないのもすごい。特に見た目にこだわらず、国費を何に使うかという(=民に使う)というのが一貫している。

    一貫した生き方が尊敬できるのと、藩主としての見本となるような生き様がかっこいいなと思う。

  • 武断政治から文治政治への転換期において、保科正之の政策が如何に重要だったのかが良くわかります。私生活の暗い陰を払拭するように政務にうち込み、民衆の信を得て一時代を築いたまさに名君ですね。著者の惚れこみようも相当なものです。

  • 会津藩の初代藩主保科正之について書かれた本。

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著者プロフィール

中村彰彦

1949年、栃木県栃木市生まれ。東北大学文学部卒業後、文藝春秋に勤務。87年に『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。91年より執筆活動に専念し、93年に『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞、94年に『二つの山河』で第111回直木賞、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を受賞。また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞。小説に『鬼官兵衛烈風録』『名君の碑』『戦国はるかなれど』『疾風に折れぬ花あり』、評伝・歴史エッセイに『保科正之』『なぜ会津は希代の雄藩になったか』など多数。

「2020年 『その日なぜ信長は本能寺に泊まっていたのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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