サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)

著者 :
  • 中央公論新社
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感想 : 79
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121013248

感想・レビュー・書評

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  • 読者の興味を引く実験を多数紹介しながら、無意識のうちに生じている認知過程についての研究を、分かりやすく解説している本です。また最終章では、著者の考える「潜在的人間観」が、現代の「自由」と「責任」の概念に投げかけている、哲学的な問いについても考察が展開されています。

    とにかくおもしろく読める本です。また、人間観のゆくえという、大きな問題にまで議論がつながっていることにも、興味を引かれます。

  • 人間の意思決定の自由というものは、近年の心理学、脳科学等の研究により、だんだんと怪しくなってきているようである。潜在的に、自動的に外界の情報を処理しており、自分が決断したということも、無意識が決断した結果を追認しているだけのような場合があるようだ。閾値下の自分(無意識)と閾値上の自分(意識)。この比率は閾値下の自分の方が大きいようだ。

  • 「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」というテーマ通り、まだ人間の心と行動についてはわかってないことが多いんだなというのが正直な感想。「〜と言われている」など断定しない表現が多かったのが印象的。

    最近からくりサーカスを読んだばかりだったので、人間の意思決定が環境や遺伝子によって決定される場合そこに自由意思はあるのか?って哲学的な議論になる最後の章が好きだった。

    ・記憶は深い浅いだけではなく多元的な構成要素に分かれている
    ・カクテルパーティとかサブリミナルに表れるように自覚する前に周囲の情報について前処理が行われているのでは
    ・無意識化で五感が働いていてもそれに自覚的じゃないから印象の原因を見誤ることがある
    ・消費とは商品によってシンボライズされた欲望の代償行為、だから隠喩的な広告は効果を発揮する
    ・潜在化での繰り返し訴求は顕在よりも効果を発揮することすらあるんだとか
    ・故意と過失と偶然の線引きの難しさ。潜在的に考えてたことを過失と言いきれるのか?自分の意志か環境のせいかなんて線引きできないもんな
    ・からくりサーカスみたいだな、過去の遺伝子の影響を否定できるのかとか。そう考えると自由ってなんなんだ?

  • 2015.7.22「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」というテーマから、人間の潜在意識を問い、現代の人間観に問いを投げかける本。人間は、行動の理由、感情、判断、記憶、認知、好み、意思すらも、自分が一番自分のことをわかっていて自らの自由意志によるものだ!と思いきやそうでもないということを、様々な研究結果を引き合いに出しながら論じている。我々は自らを自由だと思ってる。少なくとも外的な要因に自分の意思が阻害されない範囲ではそう思ってる。しかし、そう思うことそのものも、潜在意識によるものが多く、言わば思い込まされた自由、作られた自由、管理された自由の中に我々はいる。「私」の主人は、意識された主観的な私ではなく、意識できない無意識のプログラムである。好みにしても、意思、判断、認知にしても、私特有のルールというものがあるという、主観的な自由ではなく、人間共通の、判断や認知や好みを決める、客観的ルールがある。主観的な自由意志に基づく顕在意識と、客観的な生得的ルールに基づく潜在意識があり、それらの相互作用により人間は形づくられる。また潜在意識的な人間観のような、人間機械論の立場に立つと、自由とは何かという話になる。また自らの自由が自由でなくなれば、責任はどうなる、という話になる。事実、そのような流れがアメリカをはじめ、「症候群」症候群という形で、つまり自分の行動の結果を生物学的心理学的な客観的理由に帰属することで責任を問えないという事例、傾向が強くなっている、とする。個人の自由と責任を前提とした民主主義的価値観が現代の潮流である中、そのそもそもの前提は崩壊しつつあるという発見を、この本では述べている。理系の本はやはり読むのが難しくも感じ、特にこんなテーマは考えれば考えるほど頭が混乱してしまう。こうやって考えてる自分は自由意志によるのか、それとも機械論的な、外の刺激に対するプログラムによる応答としての行動で、それを主体的な自由と思わされているのか、もうよくわかんなくなる。しかし肯定的に捉えることもできるはずである。この本の前に「退屈力」という啓発的な本を読んだが、これはまさに認知的不協和理論を、人生をよりよく生きるために応用した方法ではないか。我々の潜在意識は言わば生まれつきの変えられない生物プログラムかもしれないが、それを知り、有効に活用するという自由は、やはり我々の手の中にあるのではないか。情動ニ要因理論にしても、仕組みが分かれば自らのマイナス思考の帰属が、割と間違っていることがわかる。しかし逆に考えれば、世の中のありとあらゆることが自分を不幸にするものだという考え方もできるし、そのように感じてしまう。人間は機械的な、プログラムされた存在であるというのはあくまで事実であり、その事実を人類の幸福のために使うか、不幸の正当化に使うかは、我々の手に委ねられているのではないか。現代の人間観、自由と責任の破滅への問いを投げかけながら、同時にこれからの新しい人間観、潜在意識と顕在意識の相互作用による人間観の可能性を論じた一冊。

  • 名著再読。容易に他者がコントロールしうる「自由意志」のあやふやさ、危うさを指摘したこの本の内容も、新しい常識として広まりつつある。しかし操作する側の手法もどんどん巧妙化している。「人をどう操作するか」という視点で読んでも面白いと感じた。

  • 暇つぶしにKindle版を購入。
    内容がかなり濃くて,後半はちょっと難しかったけれども,かなり読み応えがあった。
    潜在認知に関してかなり深く突っ込んだ内容まで取り扱っているので,新書的な軽いノリでは読めなかった。
    とりあえず,著者は天才的な頭脳を持っていることはよくわかった。
    (自由)意志とはなんだろうか,意識とはなんだろうか,なんてことを考えさせられる。

  • 自分が見えていないつもりでも、自分はしっかりと見ている。自分のことは本当に自分が一番よく知っているのかどうか。

  • 基本的な心理学の素養がない人間でも、大学の一般教養的な雰囲気で(いや、それよりもだいぶ面白くw)心理学の知識を身につけつつ、今の科学が「何が分かっていて、何が分かっていないか」というところまで連れて行ってくれる良書でした。
    TVなどで断片的に知っている潜在意識に関する知識を統合し「自分(私)とは何か」「自由とは何か」というまだ今の科学が解明してない疑問をしっかりと植え付けてくれます。

    読んで感じたのは、うすうすとは感じていたけど、自分の行動規範がいかに「“誤った”自分中心主義」であるのかと…。論理的な判断と思っていたものは本当にそうなのか。客観的な視点で選んだものなのか。あの感情の原点は!?などなど、頭を抱えさせられます。(2013.08.24頃読了)

  • 心理学初心者にはちょっと辛かった。「大学の講義を本にした」と著者。その通りとおもった。読み返して実験、目的、得られる教訓・考え方などをまとめておきたいと思う。

  • 「個人の心の中に互いに矛盾するようなふたつ「認知」があるとき、認知的不協和と呼ばれる不快な緊張状態が起こる。そこで当然、それを解消または低減しようとする動機づけが生じる。しかし多くの場合、外的な要因による「認知」のほうは変えようがないので、結果として内的な「認知」のほうが変わる。つまり態度の変容が起こる(具体的には、たとえばものや作業に対する好嫌の感情が変化する)。」

     たとえば、私達は、「嫌な体験にも学びがある」などと言って、嫌な体験すらも正当化しようとします。しかも、この正当化は、意識的だけではなく、無意識的にも行われることがあります。このように私達は、認知的不協和を解消するために無意識的に自分自身の感情を捻じ曲げるということです。嫌なことをあたかも好きであるように思う込もうとすることすらもあるわけです。

    2012年6月8日紀伊国屋書店 流山いおおたかの森店で購入
    2008年12月10日 第1刷、2009年2月25日第4刷発行

著者プロフィール

カリフォルニア工科大学教授

「2019年 『潜在認知の次元』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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