- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121015129
作品紹介・あらすじ
親鸞の教えと『歎異抄』の間には絶対的な距離がある。この距離の意味を考えない限り、日本における「根元悪」の問題も、「悪人」の救済という課題も解けはしない。中世以来、あたまの人々の心を捉え読み継がれてきた『歎異抄』は、弟子・唯円の手になる聞き書きであった。だがその唯円は、「裏切る弟子」=ユダではなかったか。本書は、現代社会に濃い影を落とす「悪」という難題に正面から対峙して立つ。-著者の親鸞理解の到達点。
感想・レビュー・書評
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唯円の『歎異抄』をめぐって著者の考えを記した比較的自由なエッセイです。宗教に帰依する、ないし師の教えにしたがうことと、それによって自由を得ることとのあいだのパラドクスが主題になっています。
親鸞の死後、弟子や後学の者の間に、他力の宗旨についてさまざまな疑惑が生じました。親鸞が生前に語ったことばを記すことで不審や疑惑の念を一掃したいと考えた唯円は、『歎異抄』を執筆します。著者は、そうした唯円の姿を、太宰治の『駈込み訴え』に描かれたユダの姿に重ねあわせて理解しようとしています。太宰は、イエスに対する愛に導かれて師を売り渡した弟子として、ユダを描きました。著者は、唯円もまた、親鸞の墓の前で、自分こそが師の教えをもっともよく理解しており、ほかの弟子たちの誰よりもあなたを愛していると訴えるようにして、『歎異抄』を書き継いだのではないだろうかといい、だがそのことがまさに、親鸞に対する唯円の裏切りを表わしているのではないかと論じています。
親鸞は、阿弥陀如来の本願が真実ならば、釈尊のことばも、善導のことばも、法然のことばも、そして親鸞のことばも、偽りであるはずがないと確言していました。彼は、正統と異端の区別を越えて、一直線に阿弥陀如来のもとに直結しているという確信だけがあったのだと著者はいいます。しかし唯円は、阿弥陀如来への帰依を語る親鸞の思想を、ついに理解するには至りませんでした。彼は、師に帰依するところにとどまって、阿弥陀如来と一つになってこの世で働く「無上仏」の境地を知るには至らなかったと、著者は主張しています。詳細をみるコメント0件をすべて表示