戦後史のなかの日本社会党: その理想主義とは何であったのか (中公新書 1522)
- 中央公論新社 (2000年3月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (373ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121015228
作品紹介・あらすじ
敗戦直後、日本社会党が誕生した。戦前の無産政党を糾合し、「社会主義国日本」を目指しての結党である。しかし以後半世紀、一度として単独政権を打ち樹てることなく、ついに崩落した。社会党の歴史は、日米安保体制=自由主義陣営を打破する闘いとそれに絡まる路線・派閥抗争の軌跡でもある。ソ連型社会主義と共振するその「理想主義」は、議会制民主主義と相容れない側面をもっていた。日本社会党を通して、戦後日本の全体像に迫る。
感想・レビュー・書評
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戦後社会主義の出発◆「日米安保」を求めて◆講話・安保に臨んで◆六〇年安保の疾走◆後期冷戦のなかで◆冷戦終焉と日本社会党の崩落◆日本社会党の「理想主義」
著者:原彬久(1939-、北海道釧路市)〈国際政治学・日本外交史・日米関係〉[早稲田大学第一文学部]東京国際大学教授・法学博士詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日本社会党の概説書
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55年体制の一端を担った日本社会党の、平易な解説本である。
とはいえ内容は結構深い。
社会党といえば、しばしば日本国の存在自体を否定するかのようなイメージを持つが、実は結党時は中間派の日本無産党と右派の社会民衆党はおよそ左翼とは言えないような、国家社会主義・天皇制を養護するような右翼であった。
また社会党左派は、西欧型社民主義ではなくプロレタリア革命に基づくソ連型社会主義を志向したが、議会で多数を占めた暁にはその状態を固定化させ、社会主義革命を達成するという、およそ議会制民主主義とはかけ離れた思想であった。
それとは別に、社会党右派は西欧型社民主義を目指していた。のだが、片山哲内閣のときの失敗によって、左派優位になったために日の目をみることはなかったが、田中角栄は右派の重鎮であった江田三郎が政権を取ることもありうる、と考えていたそうである。
また自民党は親米の政党であったが、社会党は親ソ・親中・親北朝鮮の政党であったわけだが、中ソ対立のときに党自体が分断の危機に遭う。結局日本社会党は冷戦と中ソ対立という社会主義国家同士のいがみ合いに巻き込まれてゆく。
先ずなにより、日中国交正常化するにあたって、中国の関心は社会党より自民党親中派に移っていくのである。
ここでは拙い文章しか綴ることができなかったが、社会党を知る上での良き入門書となるだろうし、また日本とアジア外交を知ることもできるようになる。
結局は、理想を求めつつも、現実から遊離した政党であった感は否めない。 -
本書の内容は、タイトルの通り、1945年の結党から50年あまりの日本社会党の栄枯盛衰を描いている。
社会党と言えば、55年体制の中で自民党政権を牽制する野党として認知されてきた。しかし、その内情はひどいものであった。結党以来の左右両派の主導権争い。また左右両派の中にも派閥が生まれ、両者が足を引っ張りあうという有様。
左派優位が確定した後は、「反米」「非武装中立」を党是として、ソ連・中国・北朝鮮の共産圏との外交を重視する社会党は、社会民主主義というよりは共産主義的なマインドで政策を打ち出す。しかも、(社会党の中では)資本主義と共産主義という単純な構図で始まった冷戦に、中ソ論争という共産圏内での対立がはじまると、社会党内の親ソ・親中派の衝突も加わる。
こうして、様々な自己矛盾を抱えながら、社会党の理想主義と現実との乖離が甚だしくなり、冷戦の終結とともに社会党の精神的支柱も砕け散った。
このような万年野党=社会党の存在が、55年体制の38年間度重なる汚職・政治不信にもかかわらず、自民党の政権が維持された原因であると結んでいる。 -
社会主義、共産主義が結局のところ青臭い理想主義でしかなく、その理想主義から他者にも無謬性を求め、結局のところ誤謬の容赦ない追求から運動がまとまらずバラバラになっていった過程がよく分かる一冊。
他者との違い、他者の間違いを認めることからでないと社会は始まらないんよ。 -
日本社会党が結党以来一度も単独政権を担うことなしに、冷戦の終結・55年体制の崩壊とともに落日を迎えた原因を詳細に事実を積み重ねて探っている。社会党の最大の問題を理想主義と絵空事に基づく決定論的・二元論的な思考様式であったとして、政治においてリアリズムとユートピアニズムを共存させることの重要性を指摘し、西欧で社民政党がオスロ宣言で共産主義と決別し、市場経済と議会制民主主義に立脚するという基本的な社会体制に対する国民のコンセンサスを基盤としつつも資本主義の暴走をチェックして社会主義的な要素を適宜加えていった点を日本の社会党との最大の違いだったとして強調している。