不平等社会日本: さよなら総中流 (中公新書 1537)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121015372

作品紹介・あらすじ

実績主義や自由競争の市場社会への転換が声高に叫ばれている。だがその「実績」は本当に本人の力によるものか。筆者は社会調査の解析から、専門職や企業の管理職につく知識エリートたちの階層相続が戦前以上に強まっていることを指摘。この「階級社会」化こそが企業や学校の現場から責任感を失わせ、無力感を生んだ現在の閉塞のゆえんとする。一億総中流の果てに日本が至った「階級社会」の実態を明かし、真の機会平等への途を示す。

感想・レビュー・書評

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  • 日本は「努力すればなんとかなる」と「努力しても仕方ない」の二重底から成り立つ。かつては個人の責任か集団の責任か問われなかったが、それが崩壊した。

    評価は「実績」に依るべきだとする人は年収と相関するが、それは主にホワイトカラー雇用上層(年功序列下)である。また、実績主義は父の学歴とも因果関係にある。これは近年加速している。

    親と子の職業が違う(管理職が平になってる)のは年功序列を考えると当然。W雇上は、流入が多いから少し変動しているにすぎない。事実、40歳時点でのW雇上の父を見ると、同職となる傾向がさらに強まっていることがわかる。これは戦後の経済成長で高まった開放性が、その自体の閉鎖性により覆われたということである。

    階級再生産は「なって当然」の世界であるために、階級における責任感(やりたいこと)を失わせる。しかも、形式上平等のため、なおさら。

    敗者の再加熱の仕組みは「選抜機会の多元化」と「選抜自体の意味の空虚化」がある。日本では形式上平等なため、後者。この結果、エリートの責任感をも失わせる。

    唯一、B雇上→W雇上ルートの存在が、挑戦の機会を開いてきたが、近頃このルートも閉鎖されてきている

    現在の選抜社会の行き詰まりを打破するためには、1.ブルーカラー専門職とホワイトカラー専門職の融合、2.専門職キャリアの再編、3.選抜機会の多元化、4.世代を超えた不公平の緩和がある。

    機会の平等は、階級再生産を考慮すると達成しにくいし、この社会に実力の代理指標しかない以上確認しにくい上、事後的にしかわからず、対策が打ちにくい。例えば、学歴を打破する情報リテラシーにも(父の職業に伴う)格差が存在するし、それは後からしかわからない。その中で機会の平等原理を確保するためには、不平等の監視と、事後的な不平等の保障が必要になる。

    学歴に変わる指標として、市場はまだマシなのではないかと考えている。

  • amazonでも長らく売り切れだったこの書、とても期待して読み始めたが、第1章から第3章までのグラフとその解説は、どこまでが分析手法やデータの説明で、どこからがその分析とポイントなのか、という点が入り乱れていて、一つ一つは非常に丁寧に書かれているにも関わらず、少し読みにくいように感じた。

    また、例えば「W雇上を開く」といった表現を随所でしていて、勿論始めに解説がされているのだが、どうも最後までしっくりこの意味をもう少しこういった分析手法を勉強していないものにもわかりやすい表現で書いてくれると、より新書としての取っ付きやすさが高まるのではないかと思った。

    同時に、後半第4章以降の筆者の分析中心の章は非常に興味深かった。

    著者の指摘の中で面白いと思った部分を私なりにまとめると、

    80年代前半までの戦後の階層社会は、それなりに「努力すればなんとかなる」社会になっており、「上」にいける可能性を信じることができた、という点において、大多数の人間が中流になり得た「可能性としての中流」社会であった。(pp.86-87)

    現在は父が管理職であれば自分も管理職になるものだ、と言う風に考えられているがゆえに(私の註:社会資本の再生産システム的なものが存在しており)、選抜システムの中で残ったという事実だけが残り、現在の地位を自分で「選び取った」という実感も責任も伴わない。

    エリートたちは、曖昧な形で選抜試験を勝ち抜き、「実績」を作る。実際はすでにもっている社会資本(例:ホワイトカラーの父親がいる)によって優位を得ているにも関わらず、競争に勝ち残ったという事実だけが残るため、他人の目からみたら正当な権利のように映る。

    ペーパー試験を中心とした高度に平等で一元化された選抜システムを勝ち抜いて来たエリートたちには、自らが恩恵を受けいてる学歴社会や偏差値偏重教育選抜そのものを否定することによって、選抜システムの「空虚さ」を言明し、そのシステムの中の敗者の意欲をそがないようにするのがお約束になっている。
    (以上pp.107-118)

    そして著者は、ここでエリートがエリートである責任を逃れていること、そしてエリートが作っている「実績」の既得権化を指摘する。

    自分がエリートであることの責任感、エリートであるからこそ社会に還元/貢献すべき役割があることを、日本人は実感していないのではないか。
    ノブリスオブリージュは元々西洋で生まれた概念だが、日本だけではなく、アジアにおいてこの観念はどのように解釈され、エリートのはやす役割は一体なんなのか。ということを考えさせられる本だった。

  • 1

  • 1 95年SSM調査における「資源配分原理(現実/理想)」に関する質問(回答は実績・努力・均等・必要):理想は努力主義だが、現実は実績主義。ホワイトカラー被雇用上層で実績主義、つまり努力すれば何とかなるという意識。ただし実際には父親の学歴と本人の学歴に関係がありそう。自営業では努力主義。
    2 「世代間(職業)移動」についてオッズ比などを見ると、日本は階級のない、開かれた(選抜)社会になっている(新中間大衆論:村上泰亮)ように見えるが、しかし、W雇上の経路依存性(若い頃はみなW雇下)を考慮して計算すると、団塊世代以降で戦前の閉鎖性に戻っている。
    3 (1)W雇上の再生産の潜在化、(2)ホワイトカラー/ブルーカラー境界の横断、(3)ブルーカラー雇用から自営への上昇ルート…戦後の開かれた社会(可能性としての中流)を形成した要因→団塊の世代以降急激にW雇上が閉鎖化
    4 「団塊の世代」以降の知識エリート、W雇上…1 力のおよばない範囲まで「実績」にしてしまう 2 その「実績」は既得権へと曖昧化される 3 エリートの自己否定を強いられる

  • 105円購入2010-12-31

  • どうもすっと頭に入ってこない本だった。なぜだろうと考えたが、2000年という時期の意外と古い本であることが今の実感とリンクしなかったからかもしれない。また、SSM調査のみに依存した分析というのも少々ひっかかる。できれば、他の調査も引用して、この分析の確からしさを高めて欲しかったと思う。最後の統計の解説は親切と思うが、途中にコラムの形で散在させても良かったのではないかと思った。

  • 2016年7月14日、読了。

  • ブルデューの論じた文化資産による階層の再生産を、戦後日本の社会調査に基づいて実証的に論じています。

    日本社会は戦後になって、メリトクラシーが全面的に行き渡ることになりましたが、実績主義の中に入り込んでいる機会の不平等が目に見えなくなってしまったことを、著者は説得的に示しています。

    結果の平等原理に基づく社会では、一人ひとりの持つどのような背景がどの程度有利・不利に働くのかということは、後になってからでないと分からないと著者は言い、それゆえ結果の平等がどの程度実現されているかをつねにチェックし、その不公正を事後的に補償できる仕組みをあらかじめ用意しておかなければならないと、著者は提言しています。

  • データの分析の解説が難しくてよく分からなかった。

    いまのお嬢様は、親の学歴・職種が資産となっているが自覚が無く自らのステイタスを実績と勘違いしている。

  • 高学歴エリートは都会のアッパーミドルの既得権益。
    なのに、彼らは自分の実力だと思ってる。ウケる。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科教授

「2023年 『メディアと社会の連環』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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