ヨハン・シュトラウス―ワルツ王と落日のウィーン (中公新書)

著者 :
  • 中央公論新社
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レビュー : 3
  • Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121015679

作品紹介・あらすじ

十九世紀、長かったハプスブルク家の栄光の時代も終わりに近づいたころ、そのお膝元ウィーンの街は、山積する国内外の問題に意気消沈していた。そこへ登場したヨハン・シュトラウス二世の、人を踊らせずにはおかないワルツやポルカやガロップは、瞬く間に一世を風靡する。シュトラウスとは、何者か。華やかさの裏に深い翳りを湛えた彼の生涯をたどりながら、落日のウィーンの世相を眺めてみよう。

感想・レビュー・書評

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  • 南図書館で読む。興味深い新書です。非常に読みやすい本です。ライターとしての能力は抜群です。ワルツは、もともと品の悪い音楽だったんですね。この人の音楽を聞いてみよう。

  • ヨハン・シュトラウスといえば「美しき青きドナウ」。ヨハン・シュトラウスといえば19世紀ウィーンの売れっ子作曲家。ヨハン・シュトラウスといえば音楽一家のワルツ王・・・。

    ヨハン・シュトラウスについての少ない知識を挙げてみると,優雅で華やかな印象ばかりが思い浮かぶ。同じウィーンに居を構えながら,ベートーヴェンの苦悩やモーツァルトの憂鬱,ブラームスの諦観とはまったく異質の場所にいるような気がする。シュトラウスにとっては,創造の苦悩や時代との軋轢など無縁のものかと思っていた。けれど本書を捲って,その印象はあっさりと覆された。

    もともと,ぼくが本書を読もうと思ったのはヨハン・シュトラウスに対する関心からではない。
    『ブラームス』(新潮文庫)に載っていたブラームスとシュトラウスのツーショットかきっかけだった。

    今ぼくが関心を持っている作曲家であるヨハネス・ブラームスは,30歳を迎えた1963年にウィーンに住み始め,その後,生涯この地を離れることはなかった。ブラームスは1966年に保養地のバーデン・バーデン(ここにはクララ・シューマンが小さな家を持っていた)でシュトラウスと知り合って以来,シュトラウスの音楽に尊敬の念を抱いていたようだ。

    当時のウィーンは,貴族と市民からなるエリート階級と庶民階級の2つの階層から成り立っていた。もともと貴族への憧れが強い傾向があるウィーンでは,近代化の急速な進行により台頭してきた市民たちは,こぞって貴族の真似をし始めた。

    当時の「別荘ブーム」もその一つだ。もともと貴族の特権であった別荘生活を味わうために,市民は郊外に豪華な別荘を建てて,夏の間はそこでウィーンと同様の生活を繰り広げた。なかでも,シュトラウスが別荘を構えたバート・イシュルは,皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の館があるということもあって,大人気の別荘地だった。カフェあり劇場ありカジノありのこの場所は,夏になると「ウィーンの半分が引っ越してきたような」賑わいだったという。

    ブラームスとシュトラウスの友情は,この賑々しい避暑地であるバート・イシュルで育まれたようだ。本書には2人の交遊について,次のように書かれている。

    「一介の流行音楽家にすぎなかったシュトラウスの曲に深みが増し加わったのも,ブラームスとの交遊によるところが大きい。しかもブラームスは,ウィーンの辛口音楽批評家エドゥワルト・ハンスリックの友人だった。ハンスリックは以前,シュトラウスのワルツを現代的すぎるとし,「ワルツのレクイエム」とこきおろしたこともある。そして彼の毒舌にかかった以上,ウィーンの音楽界で生きてゆくのはたいへんなことだった。ところがこうした批判も,ブラームスが仲立ちとなることで影を潜めていった。」(p135)

    音楽上の個性においては正反対のように思える両者が,「仕事上の話題を口に出す行為がはしたないとされていた」夏の避暑地で,トランプゲームや雑談に興じている姿は,想像しただけでもワクワクしてくる。もしかしたら個性がまったく相容れなかったからこそ,交友関係がこじれることなく済んだのかもしれない(ブラームスは人間関係でつまずくことがとても多かった)。

    ブラームスとシュトラウスの関係についての話しが長くなってしまった。最後に本書を読んで初めて知ったことを列挙しておく。そこから,いままでの華やかな印象とはいくぶん違ったヨハン・シュトラウス像が浮き彫りにできるはずだ。

    ① シュトラウスの父ヨハンの祖父は,ハンガリー出身のユダヤ人で,ウィーンにやってきた流れ者だった。父ヨハンの誕生までの一家の境遇は壮絶極まりないものであり,父ヨハンは丁稚奉公の身から音楽家として身を起こした。

    ② シュトラウス父子はウィーンでの人気を巡って,熾烈な戦いを繰り広げた。独学で音楽を身につけた父と,正統的な教育を受けた息子。父の反対を押し切って18歳でデビューした息子は,演奏会で父のやり方をそっくり真似て大成功を収めた。

    ③ パリの音楽家,イザーク・シュトラウス(ヨハン・シュトラウスとは全く関わりがない)は,自分の名前がヨハン・シュトラウスに似ているというだけで,生涯に渡ってヨハンと混同され,出版社や興行主に踊らされた。

    ④ シュトラウスは1892年,62歳の頃に初めてのオペラ『騎士パスマン』を制作したが,あまりにつまらなかったため,失敗に終わった。晩年には宮廷歌劇場総監督のグスタフ・マーラーからの依頼により,初めてのバレエ音楽『灰かぶり姫』の制作に取りかかったが,未完のまま1899年6月3日,息を引き取った。

    ⑤ 死後数年たってからも,追悼演奏会においてシュトラウスの「新作」は上演され続けた。そのなかの一つ,『夢の形』という作品は,ブラームスの流れをくみマーラーのさきがけともいえる優れた曲だったが,市民に受け入れられることなく忘れ去った。

    ⑥ ウィーンを手中に収めたアドルフ・ヒットラーは,シュトラウスがユダヤ人の血を引いている事を隠蔽し,彼の作品の演奏をおおやけに認めた。第二次世界大戦が勃発した1939年の大晦日に,シュトラウスの作品のみを並べて行われた特別演奏会が,今日,ニューイヤー・コンサートとして世界的に有名な演奏会のはじまりである。

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