言論統制: 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書 1759)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (437ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121017598

感想・レビュー・書評

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  • 「(中略)この改革案が国防国家の挫折とともに消えた、と本当に言えるだろうか。内申書重視、資格社会化、奉仕活動の義務化といった二一世紀の日本で構想、模索されている新たな学校化システムを逆照しているのではあるまいか。」p.268

    「つまり、国防国家は教育によって真の自由と平等を実現するのである。しかも、そこで被教育者の進路は「個性」に応じて「合理的」に決定される。能力主義の真の実現を彼は訴えたのだといえよう。第一章で見た鈴木の生い立ちを考えれば、当然の改革要求と言えるだろう。当時の中等学校制度が階級を文化的に再生産するシステムであることを鈴木少佐は十分認識していた。」p.260-261

    【感想】
    面白かった。特に前半部は戦前のリアルな立身出世物語として興味深く読めた。
    全体を通じて、随所に出てくる「ハビトゥス」(社会的に形成された習慣)がキーワードになっていると感じた。
    貧しい農村的ハビトゥスをもつ鈴木にとって、裕福な都会的ハビトゥスをもつ出版社や高級官僚の人々とは感性が合わなかったに違いない。
    最近話題となっているポピュリズムなどはハビトゥスの違いから起こるものなのだろう。

  • 巻末の鈴木庫三年賦を見ていただきたい。小学校卒から19歳までの空白の期間を経てその後30歳に日本大学に入学するまで、学校教育をほとんど陸軍内の学校で受けている。格差が激しく本人の経済的に恵まれない出自の中で相当な努力をもって地位を築いていったことに大変驚く。貧しくとも実力のある若者にとっての軍が上級学校の役割を担っていたという話をよく聞くが、その典型的なパターンを鈴木庫三が踏襲していたことがわかる。

    そのような鈴木の思想信条は公平な社会の創造であった。貧しいものと富めるものとの差異を意識せざるを得なかった。だからその解消のために教育を重要視するし、資本主義の手先である出版社に手厳しい。個人的に鈴木に抱いたイメージは残された皇道派だった。ただし社会変革を求めていることに変わりがないが、暴力ではなく組織から社会から変えて行こうという意思を強く感じる。それは大学を主席で卒業したり、東京大学で学んだりしてきたことと無縁ではないのだろう。
    戦後に出版界は散々鈴木を指弾してきたというが、プロレタリアの視点から公平な社会を目指す鈴木像を全く無視すれば無視するほど、まさに出版社の戦前の行いについて自己正当化の誹りを免れることはできない。

  • 鈴木庫三(1894-1964)という人物についての本。この人物は旧陸軍において情報局情報官を勤め、出版界に対する言論統制に携わったことでその名を知られている。戦後に語られるその言論統制の様子はまるでヒムラー。大声で相手を抑止し、言論の自由を弾圧する姿が描かれ、暗い時代の象徴として記憶される。しかしそもそもこの人物はどんな出自を持ち、どんな思想を持ち、どんな背景で言論統制に関わっていたのか。著者の呼びかけに応じて発見された彼の戦前・戦中の日記を用いながら、鈴木庫三という人物を明らかにしていく。

    著者の手法はこれぞ歴史学。実に素晴らしい。性急な正邪の評価をすることなく、あくまで何が事実であったのかを突き止めようとする姿勢は稀有なものだ。例えば、丸山真男を批判するくだり(p.89f)は特に印象に残る。軍隊においては、基本的にはすべての軍人は家柄や出自がどうあれ(一部、宮家の人間などは除いて)一律の規律のもとにある。能力差による昇進の違いはあれど同じ訓練を受ける。ここにはある種の平等性、民主主義がある。丸山真男はこれを「擬似デモクラシー」と呼び、「畸形児」と称している。これに対する著者の批判は胸のすく思いがする。
    「政治学者がどんな理想型を立ち上げようと自由だが、歴史的には『本物』や『正常』な民主主義など存在したためしはない。[...]「擬似」という言葉は、歴史の前ではまったく非実用的である。」(p.90)

    さてこの鈴木庫三という人物だが、まずもって評価するのが難しい。彼に対する戦後の様々な言説をかいくぐらなければならない。出版界の人間は戦後に鈴木庫三を言論弾圧者として非難するのだが、その非難には事実でない事柄や、そもそもこの人物をよく知らないとおもわれる事柄も散見される(p.301)。つまり、出版界は戦時下にあって戦争を鼓舞し賛美する言説を振りまきつつ、戦後になって自分たちは言論弾圧の被害者であると主張している。そうした自己弁護のために事実の捏造まで行われている(p.367-371)。こうした事実に反する非難に対して、「戦後、「鈴木少佐」が言論弾圧者として集中砲火を浴びたとき、報道部における彼の元上官や元同僚は誰一人として彼のために弁明しようとはしなかった」(p.382)。まして本人も沈黙し、熊本の農村で戦後を過ごしている。

    著者は鈴木庫三の活躍した場面を情報官としての言論弾圧と、教育将校の教育改革・国防国家論に見ている(p.276)。この人物は元々、陸軍内の教育将校として現れてきたものであり、その教育を国家全体に広げたものとして国防国家論、そして言論弾圧が出てくる。出生から時系列的に鈴木庫三の軌跡をたどっていく本書は、いきおい教育者としての記述が多い。言論弾圧の場面はセンセーショナルではあるが、それは鈴木庫三のコアをなすものではないということか。

    その出生を巡って強く印象づけられるのが、メリトクラシーである。鈴木庫三は極貧生活のなかから猛烈な勉強によってキャリアを築いていく。しかし出身校や年齢制限などに引っかかり、結局は大佐止まりとなる。これが意味するのは、出生や資産などではなく能力によって評価される社会というメリトクラシーへの思いであり、挫折感である。すなわち、鈴木庫三を根本で規定するのは、言ってみれば「田舎者根性」である。難く言えば都会と農村のハビトゥス対立(p.112f)。華美で奢侈なものに対する反発である(p.166-172)。だから後の言論弾圧の対象もそうしたものとなる。実はこうした考え方を背景に持つ鈴木庫三の国防国家論、戦争=福祉国家論が「ほとんどソヴィエト体制である」(p.365)ことになるのは面白い。また見ようによってはメリトクラシー的な教育制度は戦後になって国家的に実現されたとも言える(p.408)。
    「鈴木少佐の攻撃対象はすでに見たとおり、「現状維持の重臣」、利己主義の「財閥」、エリート主義の「海軍」である。すでに「左翼雑誌」は鈴木少佐登場以前に弾圧済みだったとはいえ、鈴木少佐が「共産主義者」を問題にした文言は日記では一件も確認できない。」(p.290)

    ただ軍隊といえど旧陸軍と海軍は異なっていた。志願兵制を基とする海軍は陸軍よりメリトクラシーが大きく競争原理が支配していた。加えて、海上ではもともと脱兵もできず軍紀が維持しやすいため、やや自由主義的な思想が許される傾向にある(p.217)。すなわち海軍はスマートで都会的で「善玉」、陸軍はドン臭く、田舎っぽく「悪玉」という見方が(戦後を通じていまでも)ある(p.347)。陸軍は連帯感の醸成を主とし、家族的である。つまり「陸軍は属性原理にもとづくゲマインシャフト(共同社会)であり、海軍は業績原理にもとづくゲゼルシャフト(利益社会)といえる」(p.218)。陸軍の教育方針のほうが国民教育と同一視されていくのは自然の道行である。そして、戦後はこの逆を行った。
    「ついでに言えば、陸軍的組織モデルを否定した戦後社会、とくに「競争」の激しいビジネス社会で海軍教育が高く評価されたのは当然である。一方で皮肉なことだが、「競争」を否定した脱偏差値の学校教育のため、今日の公立学校で極端な「員数主義」や陰湿な「イジメ」といった内務班的現象が発生していることも想起すべきであろう。」(p.218)

    閑話休題。毀誉褒貶の大きく評価も微妙な問題について、ともあれ何が事実なのかを膨大な資料を駆使して突き止めようとする歴史学者としての著者の態度は素晴らしい。先入観に惑わされず、バランスを取って考えることの大切さを教えられる。

  • 2006年11月16日

  •  これまで被害者側からのみ語られてきた戦前の言論弾圧の有様を加害者側に焦点を当て、特に弾圧者として「有名」を馳せた軍人・鈴木庫三の実像を詳細に描くことによって解き明かしています。
     歴史をよむということは、まさにこういうことなのだろうと、読み始めたら止まらないおもしろさ。同時に、戦前戦後を通してマスメディアの姿勢というのは基本的に不変なのだと痛感させられました。
     一般に知らせ解き明かすことこそマスメディアの信条かのように思ってますが、その行為は、必然的に知らせなかったこと・解き明かさなかったことを生む。つまりは隠蔽することと同在しているのですね。しかも、前者を掲げて、実際には後者を積極的に推し進めすことすら可能です。どちらにしても意識をもって行うのであれば、端からも見透かしやすいのでしょうが、問題なのは無意識の行為の場合。ある考え方・ものの見方がパラダイム(共通意識)として固定化されてしまうと、そこからぬけだすことはとても大変なことなのだと思う。この本を読んでいて、あっまた思い込みだけで物事知ったつもりでいたと痛感させられました。

著者プロフィール

佐藤卓己(さとう・たくみ):1960年生まれ。京都大学大学院教育学研究科教授。

「2023年 『ナショナリズムとセクシュアリティ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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