言論統制: 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書 1759)
- 中央公論新社 (2004年8月25日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (437ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121017598
作品紹介・あらすじ
言論界で「小ヒムラー」と怖れられた軍人がいた。情報局情報官・鈴木庫三少佐である。この「日本思想界の独裁者」(清沢洌)が行った厳しい言論統制は、戦時下の伝説として語りつがれてきた。だが、鈴木少佐とはいったい何者なのか。極貧の生活から刻苦勉励の立志伝。東京帝国大学で教育学を学んだ陸軍将校。学界、言論界の多彩なネットワーク。「教育の国防国家」のスローガン。新発見の日記から戦時言論史の沈黙の扉が開かれる。
感想・レビュー・書評
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戦時中の言論統制の象徴とされた軍人鈴木庫三の評伝と言うべき内容。極貧から下士を経て陸士へ、しかし輜重兵となり失望。陸大は受験資格すら得られない。一方で日大の夜学に通い、帝大派遣学生となる。典型的エリート軍人ではなく、努力を重ねた人物という感じだ。
国防国家論など鈴木の信念に現代の感覚では賛同できないが、本書からより強く感じるのは、戦時中は鈴木に追従しつつ、戦後は自らを被害者として事実関係も詰めずに鈴木を一方的に糾弾する新聞・出版側の欺瞞だ。そもそも鈴木が言論統制に携わる配置にあったのは1938〜42年の3年半のみ、階級は少佐から中佐であり、どれほど鈴木個人の影響力があったのか。また、新聞・出版側にも商業的動機はなかったのか。
また著者は、「大衆の世論形成への参加欲求においてファシズムとデモクラシーに変わるところはない」と言い切り、デモクラシーとファシズムを共に「政治の大衆化」「大衆の国民化」とする。鈴木が富裕層や天保銭組を敵視し大衆側に共感を持っていたことも、彼を国防国家論に駆り立てた要因だったのだろう。 -
旧日本軍による言論統制、知識としては三谷幸喜の「笑の大学」くらい。そんな程度で読んでみた。
タイトルが「言論統制」なんだけど中身は鈴木庫三一代記でまず鈴木庫三が情報班に入る前の話で半分使ってるのはどうなのか。いや、貧乏な子が勉強、立身出世するには軍隊ってロールモデルとしてオモロいけどさ、タイトル詐欺感無きにしも非ず。しかも半分から情報班の話かと思ったら案外すぐ異動。いや、そこもっと読みたいやん。オモロいけど何かもの足らん感じは否めず。 -
本居宣長や菅原道真は「天才」だが、鈴木はそうではない。あるいは秀才であり、あるいは凡才かもしれないが、そこに自分の姿を重ね見ることも困難ではあるまい。
彼は和辻にはなれなかった。されど、僕も和辻にはなれないのである。 -
「(中略)この改革案が国防国家の挫折とともに消えた、と本当に言えるだろうか。内申書重視、資格社会化、奉仕活動の義務化といった二一世紀の日本で構想、模索されている新たな学校化システムを逆照しているのではあるまいか。」p.268
「つまり、国防国家は教育によって真の自由と平等を実現するのである。しかも、そこで被教育者の進路は「個性」に応じて「合理的」に決定される。能力主義の真の実現を彼は訴えたのだといえよう。第一章で見た鈴木の生い立ちを考えれば、当然の改革要求と言えるだろう。当時の中等学校制度が階級を文化的に再生産するシステムであることを鈴木少佐は十分認識していた。」p.260-261
【感想】
面白かった。特に前半部は戦前のリアルな立身出世物語として興味深く読めた。
全体を通じて、随所に出てくる「ハビトゥス」(社会的に形成された習慣)がキーワードになっていると感じた。
貧しい農村的ハビトゥスをもつ鈴木にとって、裕福な都会的ハビトゥスをもつ出版社や高級官僚の人々とは感性が合わなかったに違いない。
最近話題となっているポピュリズムなどはハビトゥスの違いから起こるものなのだろう。 -
巻末の鈴木庫三年賦を見ていただきたい。小学校卒から19歳までの空白の期間を経てその後30歳に日本大学に入学するまで、学校教育をほとんど陸軍内の学校で受けている。格差が激しく本人の経済的に恵まれない出自の中で相当な努力をもって地位を築いていったことに大変驚く。貧しくとも実力のある若者にとっての軍が上級学校の役割を担っていたという話をよく聞くが、その典型的なパターンを鈴木庫三が踏襲していたことがわかる。
そのような鈴木の思想信条は公平な社会の創造であった。貧しいものと富めるものとの差異を意識せざるを得なかった。だからその解消のために教育を重要視するし、資本主義の手先である出版社に手厳しい。個人的に鈴木に抱いたイメージは残された皇道派だった。ただし社会変革を求めていることに変わりがないが、暴力ではなく組織から社会から変えて行こうという意思を強く感じる。それは大学を主席で卒業したり、東京大学で学んだりしてきたことと無縁ではないのだろう。
戦後に出版界は散々鈴木を指弾してきたというが、プロレタリアの視点から公平な社会を目指す鈴木像を全く無視すれば無視するほど、まさに出版社の戦前の行いについて自己正当化の誹りを免れることはできない。 -
鈴木庫三(1894-1964)という人物についての本。この人物は旧陸軍において情報局情報官を勤め、出版界に対する言論統制に携わったことでその名を知られている。戦後に語られるその言論統制の様子はまるでヒムラー。大声で相手を抑止し、言論の自由を弾圧する姿が描かれ、暗い時代の象徴として記憶される。しかしそもそもこの人物はどんな出自を持ち、どんな思想を持ち、どんな背景で言論統制に関わっていたのか。著者の呼びかけに応じて発見された彼の戦前・戦中の日記を用いながら、鈴木庫三という人物を明らかにしていく。
著者の手法はこれぞ歴史学。実に素晴らしい。性急な正邪の評価をすることなく、あくまで何が事実であったのかを突き止めようとする姿勢は稀有なものだ。例えば、丸山真男を批判するくだり(p.89f)は特に印象に残る。軍隊においては、基本的にはすべての軍人は家柄や出自がどうあれ(一部、宮家の人間などは除いて)一律の規律のもとにある。能力差による昇進の違いはあれど同じ訓練を受ける。ここにはある種の平等性、民主主義がある。丸山真男はこれを「擬似デモクラシー」と呼び、「畸形児」と称している。これに対する著者の批判は胸のすく思いがする。
「政治学者がどんな理想型を立ち上げようと自由だが、歴史的には『本物』や『正常』な民主主義など存在したためしはない。[...]「擬似」という言葉は、歴史の前ではまったく非実用的である。」(p.90)
さてこの鈴木庫三という人物だが、まずもって評価するのが難しい。彼に対する戦後の様々な言説をかいくぐらなければならない。出版界の人間は戦後に鈴木庫三を言論弾圧者として非難するのだが、その非難には事実でない事柄や、そもそもこの人物をよく知らないとおもわれる事柄も散見される(p.301)。つまり、出版界は戦時下にあって戦争を鼓舞し賛美する言説を振りまきつつ、戦後になって自分たちは言論弾圧の被害者であると主張している。そうした自己弁護のために事実の捏造まで行われている(p.367-371)。こうした事実に反する非難に対して、「戦後、「鈴木少佐」が言論弾圧者として集中砲火を浴びたとき、報道部における彼の元上官や元同僚は誰一人として彼のために弁明しようとはしなかった」(p.382)。まして本人も沈黙し、熊本の農村で戦後を過ごしている。
著者は鈴木庫三の活躍した場面を情報官としての言論弾圧と、教育将校の教育改革・国防国家論に見ている(p.276)。この人物は元々、陸軍内の教育将校として現れてきたものであり、その教育を国家全体に広げたものとして国防国家論、そして言論弾圧が出てくる。出生から時系列的に鈴木庫三の軌跡をたどっていく本書は、いきおい教育者としての記述が多い。言論弾圧の場面はセンセーショナルではあるが、それは鈴木庫三のコアをなすものではないということか。
その出生を巡って強く印象づけられるのが、メリトクラシーである。鈴木庫三は極貧生活のなかから猛烈な勉強によってキャリアを築いていく。しかし出身校や年齢制限などに引っかかり、結局は大佐止まりとなる。これが意味するのは、出生や資産などではなく能力によって評価される社会というメリトクラシーへの思いであり、挫折感である。すなわち、鈴木庫三を根本で規定するのは、言ってみれば「田舎者根性」である。難く言えば都会と農村のハビトゥス対立(p.112f)。華美で奢侈なものに対する反発である(p.166-172)。だから後の言論弾圧の対象もそうしたものとなる。実はこうした考え方を背景に持つ鈴木庫三の国防国家論、戦争=福祉国家論が「ほとんどソヴィエト体制である」(p.365)ことになるのは面白い。また見ようによってはメリトクラシー的な教育制度は戦後になって国家的に実現されたとも言える(p.408)。
「鈴木少佐の攻撃対象はすでに見たとおり、「現状維持の重臣」、利己主義の「財閥」、エリート主義の「海軍」である。すでに「左翼雑誌」は鈴木少佐登場以前に弾圧済みだったとはいえ、鈴木少佐が「共産主義者」を問題にした文言は日記では一件も確認できない。」(p.290)
ただ軍隊といえど旧陸軍と海軍は異なっていた。志願兵制を基とする海軍は陸軍よりメリトクラシーが大きく競争原理が支配していた。加えて、海上ではもともと脱兵もできず軍紀が維持しやすいため、やや自由主義的な思想が許される傾向にある(p.217)。すなわち海軍はスマートで都会的で「善玉」、陸軍はドン臭く、田舎っぽく「悪玉」という見方が(戦後を通じていまでも)ある(p.347)。陸軍は連帯感の醸成を主とし、家族的である。つまり「陸軍は属性原理にもとづくゲマインシャフト(共同社会)であり、海軍は業績原理にもとづくゲゼルシャフト(利益社会)といえる」(p.218)。陸軍の教育方針のほうが国民教育と同一視されていくのは自然の道行である。そして、戦後はこの逆を行った。
「ついでに言えば、陸軍的組織モデルを否定した戦後社会、とくに「競争」の激しいビジネス社会で海軍教育が高く評価されたのは当然である。一方で皮肉なことだが、「競争」を否定した脱偏差値の学校教育のため、今日の公立学校で極端な「員数主義」や陰湿な「イジメ」といった内務班的現象が発生していることも想起すべきであろう。」(p.218)
閑話休題。毀誉褒貶の大きく評価も微妙な問題について、ともあれ何が事実なのかを膨大な資料を駆使して突き止めようとする歴史学者としての著者の態度は素晴らしい。先入観に惑わされず、バランスを取って考えることの大切さを教えられる。 -
必要に迫られて読んだ。
鈴木庫三という人物についての本。歴史的資料を用いて、どのような人物であったかをできるだけ正確にたどろうとしている。それだけ、虚言をもって書き残された人物らしい。
理系人間としては非常に読みづらい。
専門的な用語が多用されているため、簡単には読み進めることができない。
僕向けの本じゃないなって思った。
(読みやすさを感想に入れるのは、読みやすい本しか読まないという傾向の若者らしい見方かもしれない。)
そして論理もついていきにくい。筆者の脳内では完成された論理かもしれないが、読者には飛躍しすぎているように思えた。
いきなり変な文章が出てきて、「は?」と思うこともしばしば。そして少しあとに「ああ、そゆこと」ってなった。非常に読みづらい。せめて、接続詞的なものをつけてくれればわかるのに。
どのような人に向けて書かれたのかが気になるところ。歴史マニアだろうか。歴史学者だろうか。一般人だろうか。若者だろうか。
疑問が残る。
ただ個人的には尊敬する学者の方なので、僕の考えの及ぶ範囲外に何かはあると思う。これはあくまで僕のレベルから見た評価である。 -
本書の主人公は,戦前の言論弾圧の代名詞とされ,長らく悪玉と決めつけられてきた情報官・鈴木庫三陸軍少佐だ。本書は,著者が発掘した新史料に基づき,彼の再評価を試みたものである。著者はメディア史が専門。『現代メディア史』,『八月十五日の神話』,『テレビ時代の教養』,『輿論と世論』など,多数の著書がある。最近私が傾倒している著者の一人である。
出版史の通説によれば,満洲事変以来,出版業界は軍や警察の事前検閲,事後指導によって統制され,言論の自由は封殺されてきた。用紙の配給権を国家が握り,いうことをきかない出版社は潰される。軍部の圧力によって自由主義的言論は影を潜める。国家主義的言説がはびこり,全体主義的雰囲気が醸成され,その世論に後押しされて,ついに無謀な対米開戦に至る。そのような戦時中の言論弾圧の象徴として,戦後,激しい批判のやり玉に挙がったのが,鈴木庫三であった。
「小ヒムラー」などと,戦後知識人がこぞって指弾した重要人物であるにもかかわらず,意外にもその経歴,思想など,鈴木に関する情報は乏しい。鈴木個人についての研究もない。彼にはいくつかの著書があるものの,それがしっかり読まれた上で批判されてきたともいえない。鈴木庫三とはいかなる人物だったのか?
このような問題意識をもち,著者は新聞社などを通じて関係者を探していた。そしてついに鈴木の遺族と連絡がつき,彼の遺した厖大な日記類が日の目を見る。これら一級の一次史料をもとに,鈴木庫三という人物を描きなおす。同時に,各出版社の社史などによる戦後の不正確な告発が,引用を繰り返すうちに肥大化し,彼の虚像がつくりだされてしまった経緯にも分析を加える。
鈴木に代表される軍の情報官のマイナスイメージ。それを,戦後初めて大衆に植えつけたのが,石川達三の小説「風にそよぐ葦」である。映画化もされたこの作品に登場する,泣く子も黙る情報官のモデルが鈴木である。言論や出版のことなど何もわからぬ若い情報将校が,ただ軍の権威を笠に着て,老練な大出版社の幹部連を呼びつけ,国策に沿うよう威嚇する様子が描かれている。当然,小説ということもあり,軍=悪というステレオタイプによる誇張や想像が多い。賄賂を取り,接待を仕向けるような記述もあるが,鈴木日記によると,彼個人はこのような不正を毛嫌いしていた。鈴木は若き情報官でもない。彼が情報官として活躍したのは1940年前後,40代後半のころである。その時点で少佐というのはだいぶ遅く,停年までに彼が将官になる可能性はなかった。貧しい家で育ち,家業の手伝いで受験が遅れた。陸軍士官学校を出て職業軍人となるも,年齢制限で陸軍大学校へは行けなかった。エリートコースには乗れなかったのだ。陸大を出た同僚はどんどん昇進してゆく。このような出身階級間の,決して超えられない壁という矛盾が,彼の思想に大きく影響を与えた。
小説には誇張がつきものとはいえ,どうしても世間ではそれをもっともらしいこととして受け取ってしまう。さらに悪いことに,この小説に便乗して,戦後を支配したステレオタイプに沿った回想録が,次々と出版され蓄積されてゆく。不確かな伝聞の形で述べられた証言も,いくつも積み重ねられるうちに事実として一人歩きしていく。中には全く事実に反する証言をする者もいた。治安維持法で服役した経験をもつ教育批評家国分一太郎は,出獄後の昭和18年に鈴木中佐に威嚇され殴打までされた事実を書いた。しかし,当時鈴木は情報部を転出し,輜重連隊長として大陸にいたため,これは不可能である。自己正当化のための虚言だが,当座をそれでしのげば,目的は達せられる。時流に乗ったこの種の証言の信憑性が,当時問題にされる心配はなかったろう。旧軍関係者が着せられた濡れ衣は相当数あったに違いない。
戦後は言論界でも戦犯捜しがなされ,講談社,実業之日本などは戦犯出版社とされた。脛に傷もつ者は皆,自らの罪を少しでも軽くするため,事実を曲げて責任を軍や政府に転嫁した。むしろ戦時中の出版社は言論統制で潤っていた。統制によって返本がないためである。検閲も最初から権力によって押しつけられたのではない。発行後に難癖をつけられたのでは打撃が大きいので,出版社の方から積極的に国家による事前内閲を希望した。そういう相互作用の中から戦時下の各種制度は作られた。鈴木が活躍したころ,情報官詣ではすでに出版社の常識だった。軍への阿諛追従によって出版社は空前の利益を上げており,両者の間には持ちつ持たれつの関係があった。潔癖で,宴会で籠絡できない鈴木は,扱いにくかっただろう。担当者のその鬱屈した心理が,戦後の彼への集中砲火につながったのかも知れない。
往々にして歴史観はこのように構築される。後世からの厳密な史料批判が,いかに重要かがわかる。敗戦後の情勢におもねった言説や,それのみを引用してただステレオタイプを強化するだけの論説を,頭から信用することはできない。新発見の日記によって,出版社史をはじめとする,戦時下の言論状況について書かれた書物と事実関係をつきあわせ,批判的に読んでいく作業が,本書では展開される。
日記から見えてくる彼の実像は,誠実で勉強熱心な知識人将校である。庶民の窮状を憂え,上流階級の頽廃を批判し,そういった閉塞した社会を打開するために国民教育の必要を説く,平等主義者であった。初入営のころから,いじめ,員数合わせといった内務班の悪弊に憤りを感じ,これを改革する意見を上官へ具申する。内務班とは,寝食をともにする,平時の兵営生活の基本単位である。そこでは,上官からのシゴキや理不尽な仕打ちが絶えず,紛失した備品を他班から失敬する員数合わせも日常茶飯事だった。そのような旧弊を打破しようとする鈴木の行動は,当然組織の中でさまざまな軋轢を起こす。不利益な処分をされることもあったが,こういう面での彼の潔癖さは,その後も変わることがなかった。苦学の末軍人となった後も,彼は軍務の傍ら日大の夜学に通い,さらに東京帝大派遣学生として,倫理学,教育学を学ぶ。このときの経験と人脈が情報局で活かされることになる。
情報局では,年二百回の講演をこなし,多くの自署論文を発表し,座談会に出席し,幹部の代筆で雑誌向けの記事も相当数執筆した。まさに能吏であった。彼は,機会の平等を上から実現し,貧しくとも能力があれば大学へ上がれ,貴重な人材となって国に貢献できるような社会を夢見ていた。富裕層や中流の生活水準を下げてでも,社会的弱者へ資本を配分すべしという信念をもち,そのためには国を挙げての教育と統制が肝要であると説いた。正義感,使命感に燃え,思想,言論についての知識も充分で,出版社と議論で渡り合った。恫喝・強要する軍人ではなく,学習し計画する軍人であった。精神主義者でなく合理主義者であった。
このような鈴木を,著者は造語で「教育将校」と呼ぶ。軍と教育は相反するように感じるが,両者は実はとても親和的なのだ。平時における軍隊の任務とは,教育に他ならない。陸軍は士官学校のほかに,自動車学校,砲工学校,砲兵工科学校など各種の学校をもち,専門的教育を施していた。閉鎖的な農村から徴兵した若者を,兵営に集めて二年間集団生活させることも,国民教育に資するところ大であった。敗戦後,鈴木の思い描いた方法とはまた違った形で,教育の普及が模索されていくことになる。
戦後鈴木は,東京から熊本へ移り住む。農業で生計を立てるが,講話条約発効により公職追放が解けると,公民館の館長に就任。自ら発行する弘報を通じて住民教育に寄与する。彼の思想の根幹は戦中と何らぶれることがなかった。
時間が経たなければ,本当に歴史を語ることはできない。事件に関する当事者が多数残っている状況では,史料があってもそれを冷静に分析できない。戦後しばらくは戦争の生々しい記憶が社会を支配した。その雰囲気の中で,鈴木が声をあげることは難しく,その死後に遺族が口を開くこともあり得なかった。人間は政治的動物であり,誰でも周りの状況と自分の置かれた立場に基づき,我が身を処してゆかなければならない。そのような圧力と,時間の経過の中にあって,人間の記憶は簡単に改変をうける。改変された記憶によってステレオタイプは一層強まり,それが次の世代に受け継がれてゆく。一次史料に基づく地道な歴史研究は,それに一石を投じる点で非常に重要である。善悪二分論はわかりやすいが,それに寄りかかってしまうと実情を見失う。過去の過ちも,責めを帰すべきは個々の人間ではなく,社会システムではないだろうか。 -
2006年11月16日
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これまで被害者側からのみ語られてきた戦前の言論弾圧の有様を加害者側に焦点を当て、特に弾圧者として「有名」を馳せた軍人・鈴木庫三の実像を詳細に描くことによって解き明かしています。
歴史をよむということは、まさにこういうことなのだろうと、読み始めたら止まらないおもしろさ。同時に、戦前戦後を通してマスメディアの姿勢というのは基本的に不変なのだと痛感させられました。
一般に知らせ解き明かすことこそマスメディアの信条かのように思ってますが、その行為は、必然的に知らせなかったこと・解き明かさなかったことを生む。つまりは隠蔽することと同在しているのですね。しかも、前者を掲げて、実際には後者を積極的に推し進めすことすら可能です。どちらにしても意識をもって行うのであれば、端からも見透かしやすいのでしょうが、問題なのは無意識の行為の場合。ある考え方・ものの見方がパラダイム(共通意識)として固定化されてしまうと、そこからぬけだすことはとても大変なことなのだと思う。この本を読んでいて、あっまた思い込みだけで物事知ったつもりでいたと痛感させられました。 -
中公新書「言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」(佐藤卓己著)が話題となっている。
茨城県の農家に生まれ、輜重兵(しちょうへい)として勤務。かたわら日本大学文学部に学び首席で卒業し、東京帝国大学文学部派遣学生となる。その後は軍隊の「教育」、やがては言論界の「指導」に自らのアイデンティティーを見出した人物である。
この「日本思想界の独裁者」(清沢洌)が行った厳しい言論統制は、戦時下の伝説として語りつがれてきた。