マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女 (中公新書 1781)
- 中央公論新社 (2005年1月25日発売)
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感想 : 57件
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Amazon.co.jp ・本 (288ページ) / ISBN・EAN: 9784121017819
感想・レビュー・書評
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新約聖書に於ける"マグダラのマリア(マグダラと呼ばれたマリア)"の認知度はイエスと聖母マリアに次いで大きなものとなっており、ある程度の教養を得てある程度の年齢に達した日本人ならば知らない人はいないであろうというイメージがありますが、では実際に新約聖書でどれほどの活躍がなされているかと言えば「キリスト磔刑の立会」「キリスト埋葬の立会」「キリスト復活の証人」という限られた一部の章に登場するのみであるという事実にまず驚かされます。
また例外としてルカの福音書のみに七つの悪霊をイエスに追い出していただいた女であり、使徒たちとともにイエスに従って福音の旅をする旨が記されているとのことです。
新約聖書への登場はそれだけだというのにイエスと出会う以前は娼婦であったとか、イエスが一番愛した人であったとか、イエスの子孫を受け継いだ女性であったとか、実は黒人であったとか色々な説を見聞きする機会も多く、またマグダラのマリアに対して信仰する方々も世界には多く親しみさえ覚える存在であるかと思います。
そんな"マグダラのマリア(マグダラと呼ばれたマリア)"に的を絞って14世紀のナポリではどのように受け止められていたのか、15世紀のフィレンツェではどのように受け止められていたのか、16世紀のローマではどのように受け止められていたのかなどを紐解いていく内容となっています。
本書の魅力はマグダラのマリアに関する絵画や彫刻の写真も多く掲載されており、それら1枚1枚を丁寧に解説してくれることです。同一人物であるはずなのに芸術家によって暗い印象を受けたり、エロティックな印象を受けたり、躍動感ある印象を受けたりするのが面白いところであります。
ときにはヴィーナスと見紛うような絵画も登場しますが、香油の壺が描かれているか描かれていないかで判断できるなど目から鱗の連続であり、マグダラのマリアという人物に興味がある方には大満足の1冊かと思います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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マグダラのマリアを扱った
美術作品の遍歴ついて書かれた本… -
前半のスリリングさは後半にはないんだけども、面白かった
インターネット以降の時代には、こういう情報の流転はどうなってくんでしょうね
出版印刷より前の時代、一次資料ってものにあたれない時代に起こる情報の編集というのは面白い
ポストトゥルースというけども、トゥルースな時代なんてあったのかな、それっぽいのがあったとしてもめっちゃ短い一瞬だったんだろうな、インターネットが一瞬描いた夢なんだろうな
新約とか読んでもマグダラのマリアとかほとんど出てこないのに、どっからあんなイメージ出て来てんのかな、と思ってたのが納得できる
これで外典とかあたり始めたらまた大変なことになるからそこは避ける -
古書店にて108円で。主にイタリアを中心とした美術・文学・宗教のテキスト解読を通じて、西洋の想像力にとってこの聖女がどのような役回りを演じたかを詳らかにしている。四福音書には〈回心した娼婦〉という現在の一般的な見方を特徴づけるいかなる記載も見当たらず、ルカ福音書の〈罪深い女〉や〈ベタニアのマリア〉をマグダラのマリアに結びつけたのは、典礼や聖歌の完成者でもある教皇大グレゴリウスによるものなのだという。娼婦にして聖女という二律背反的性質は、実は後世に作られた作為的なものなのだ。
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マグダラのマリアは、重要な人物なのにヴェールに包まれている。聖書には書かれていないが売春婦だったと言われたりして歪んだ伝承がなされた可能性がある。新約聖書編纂段階で編纂者の主観で「マリアの福音書」が外伝となってしまったのが要因と思われる。初期のキリスト教を理解するためには「ユダの福音書」も含めた外伝も読む必要があると感じた。
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非常に面白い。
これ程ダイナミックで多面的なアイドルがかつていただろうか。
まるで合わせ鏡の奥の奥を覗くようなスリルと
痛みや苦痛の内側にある真の無垢さと人間らしさ
そしてキリストが人間の罪を受け止めるように
彼女は人々の感情を全て生身で受け止めるかのようで
無原罪の御宿りの聖母マリアにはない優しさと
厳しさがマグダラのマリアにはある。
これ程に様々なレッテルを貼られながらも
マグダラのマリアはマリアと言う名に恥じず
不動の地位を守り続けている -
回心した娼婦、聖女にして娼婦というイメージを持つ彼女であるが、聖書を紐解くとキリストの磔刑、埋葬、復活といった場面に登場するものの、罪や悔い改めといったテーマには直接関係していないことを指摘する。
では、いつ、どのようにしてこのようなマグダラ像が形成されてきたのか。時代、宗派、地域などの視点から豊富な絵画・彫刻などの紹介も交えて解説。 -
〈「復活」の最初の証人〉であり、〈最初の「使徒」〉にもなる
=「使徒たちの女使徒アポストロールム・アポストラ」
ヨハネ解釈とマタイ解釈
美術ではマタイのほうが多い
19
アダムのような両性具有的存在への回帰や、あるいは、苦行者たちの禁欲主義的なジェンダー放棄の精神
146
Renaissanceがヴィーナスにしょうち象徴されるなら、baroqueはマグダラのマリアによって象徴される
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・結婚の年齢に達したマリアは、輝くばかりのその身体の愛らしい美しさにおいて並ぶものなく、その手足の動き、美しい容貌、見事な髪の毛、もっとも優雅な身のこなし、優しくて従順な心において、光彩を放っていた。その顔の美しさ、その唇の優美さは、百合の白さに薔薇を混ぜたようなものだった。要するに、造形主たる神の、並ぶもののない驚くべき創造物と呼ばれるほど、彼女の容姿の美しさは輝いていたのである。
・ああ、大いに祝福された十字架よ。わたしが、あなたになり代われたらよかったのに。我が主が、わたしの腕のなかで磔にされ、わたしの手が、彼の手に釘づけにされ、彼の心臓を貫いた矢が、わたしの心臓にまで達していたらよかったのに。そうすれば、わたしは、彼とともに死に、この世でもあの世でも、けっして彼から離れることはないだろうに。 -
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今日多くの人たちが
マグダラのマリアに対して抱くイメージが、
なぜ、どのようにして出来上がったのか?
ということについて書かれています。
新約聖書の中で
彼女について触れられている箇所はごくわずかです。
彼女が登場する場面からすると、
イエスの弟子たちの中でも、
かなり重要な位置にあったということは想像できます。
でも、どのような女性であったのかは記されていません。
なのに多くの人たちが思い描くイメージは、
確立されてしまっています。
なぜそのようなことが起こったのでしょう。
おそらく最も重要な弟子が女性だったということが、
当時は都合が良くなかったのでしょう。
教会は彼女が女性であることを逆手にとって、
うまく利用したようですね。
芸術家たちもその想像力と創造力でもって、
絵画や彫刻、文学などを通じて、
イメージ作りを後押ししていたようです。
そして彼女は
伝説の人になってしまいました。
いずれにせよ
彼女はイエスに認められた人でした。
なにがあったにせよ、
敬虔で清らかな女性であったことに、
間違いはないでしょう。
べそかきアルルカンの詩的日常
http://blog.goo.ne.jp/b-arlequin/
べそかきアルルカンの“スケッチブックを小脇に抱え”
http://blog.goo.ne.jp/besokaki-a
べそかきアルルカンの“銀幕の向こうがわ”
http://booklog.jp/users/besokaki-arlequin2 -
女性史やキリスト教についての内容以上に、芸術についての記述が多数を占めている。
それにがっかりしたわけではなく、むしろそこから女性史やキリスト教が見えてくる。
古代キリスト教から世界宗教となった現在に至るまで、淫売、娼婦であったマグダラのマリアが尼僧の象徴のようになり聖女として崇拝され、現在ではイコンとなっている。
大変面白く読むことができました。 -
マグダラのマリア,聖書に出てくるのは知っていたが,ヨーロッパの世界でこれまで注目を集めている存在であったとは驚きだ.確かに元娼婦で悔い改めたことは事実だが,女性の象徴的な存在となり,数多くの絵画や詩に出現している.なぜここまでこのマリアに囚われるのかよく理解できない.カラヴァッジョとレーニの絵画での扱いを考察した第3章「娼婦たちのアイドル」が楽しく読めた.著者の考えの推移が文章の流れで把握できる,のめり込むような書き方が良い.
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大変な力作である。エヴァでも、マリアでもない、マグダラのマリア。絵画、彫刻、文学を題材に、時代を経ながら、豊かなイメージの源泉であり続ける彼女を浮かび上がらせた著者の該博さと構想力は見事。
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聖書においてマリアと呼ばれる女性は複数存在する。その中で筆頭に来るのは当然に聖母マリアなわけだが、その次はといえばキリストと行動を共にし磔刑と復活とに立ち会ったマグダラのマリアということになる。娼婦から悔悛しキリストの死に相対したマグダラのマリアは、聖処女としてキリストの生誕を担ったマリアとは好対照の存在であり、古今数多くの美術作品のモチーフとされてきた。
しかし、マグダラのマリアが娼婦でありやがて悔悛したということは、新約聖書の四福音書のどこにも書かれていない。それどころか、グノーシス主義の影響を受けた外典の福音書には、預言者・幻視者として卓越した能力を持つ彼女の姿が描かれている。
現在僕たちが知ることのできるマグダラのマリアの姿は、決して初めから固定化されたものではなく、時代ごとの趨勢や要請に応じてその意味づけを変えてきたものであるといえる。聖と俗、敬虔と官能、精神性と肉体性、あるいは人を原罪へと至らしめたエヴァと聖母マリアとの間の存在、そうした両義性を必然的に内包するからこそさまざまな解釈が存在する。そうした変化のなかで「罪深き女」というイメージも付与されてきた。
そんな、時代によって変転するマグダラのマリアを、多くの美術作品を参照しつつ丹念に追っていく。そこには多様な性格を与えられたさまざまなマグダラのマリアがいる。時代ごとにマグダラのマリアの意味づけ・解釈は変わり、そのたびに作品に描かれるマグダラのマリアはその姿を変える。その意味で、作品に表現されたマグダラのマリアの多様なバリエーションを紐解く作業とは、彼女を軸とした西洋美術の歴史を俯瞰することであると同時に、キリスト教信仰の歴史を振り返る作業でもある。 -
キリスト教に馴染みの薄い日本人だと"マグダラのマリア"という言葉と娼婦から聖女になったというイメージだけがひとり歩きしてしまっている感もありますが、本書では、そんな彼女について、聖書内での記述の検証から始め、バロック期からルネサンス期の絵画を中心に、彼女がいったい何者なのかを探っていきます。あまり宗教論にならず、あくまで美術史から検証されているので、キリスト教に馴染みが薄くても読みやすいと思います。参考として挙げられている絵画が口絵以外、全てモノクロなのがちょっともったいないと感じました。
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大学の頃、たしか『オレンジだけが果物じゃない』という外国の本の和訳本を読み、キリスト教文化が分からないときちんと理解できないなぁと思い知った。
その後、遠藤周作の『沈黙』『イエスの生涯』『深い河』、ジッド、等を読む中で、徐々に徐々にキリスト教に触れた。
絵画においても、西洋美術はキリスト教についてよく知らないときちんと理解ができない。
説明として、キリスト、ヨセフ、マリア、カイン、アベル、アダム、エヴァ、弟子たち、新約聖書のどの場面、などが書かれていても、大元の旧約聖書、新約聖書を読んでなければよく分からない。
キリスト教徒は、聖書をすべて読むのだろうか?
旧約聖書はすごく長い。
学校で?教会で?家で?読むのだろうか?
旧約聖書と新約聖書は繋がりがあるのでユダヤ教徒もキリスト教徒も同じ物語を共有できる。
しかし、インドのヒンドゥー教、中東のイスラム教、アジアの仏教、それらは何かを共有しているだろうか?キリストやユダヤと繋がりがあるのだろうか?
寺や神社や仏像が切だけある日本で、私は仏教のことをよく知らない。
外国の方は、宗教の理解がなくとも、日本の小説は理解できるだろう。
仏教も知りたい。
イスラム教も、ヒンドゥー教も。
【撞着語法】
「賢明な愚者」「明るい闇」など、通常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す -
時代と共に変化するマグダラのマリア観を美術品から読み解く。
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著者プロフィール
岡田温司の作品
