科学の世界と心の哲学―心は科学で解明できるか (中公新書)

著者 :
  • 中央公論新社
3.33
  • (2)
  • (3)
  • (9)
  • (0)
  • (1)
本棚登録 : 84
レビュー : 7
  • Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121019868

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • 「こころ」とは何か?「こころ」と「からだ」の境目は?
    脳科学や医学からのアプローチは、たまに見聞するが、哲学からのアプローチを読むのは初めて。かのデカルトなんかは、流石この問題を深く考えていたようだ。しかも、脳や神経に関する医科学は相当進んだのに、デカルトの論点はいまだ有効のようで、結局のところ、「こころ」は、フィジカルで因果律に則った実体なのか、もしそうでなければ、なぜフィジカルな「からだ」と相互作用するのかということ。心だって、自然科学の法則に従うという、機械論・唯物論は単純でわかりやすいし、きっと科学からのアプローチでは、この説の証明に躍起になるでのあろうが、生身の人間としては、そうあって欲しくない本能的希望も感じる。ちょっと残念なのは、いくら哲学者が、いろいろな理屈を思想しても、科学の立場からでなければ、エビデンスが出せないのではないかということだ。

  • 面白かった!

    特に前半の科学哲学の部分。
    科学哲学をまともに勉強したことが無かったので、アリストテレスの自然学に始まりガリレオやデカルトの創始した近代科学の革新性など、勉強になることが非常に多かった。

    後半の心の哲学については、形而上的な存在である「心」に対して科学がどこまでリーチするかを論証していて、なかなか面白かった。
    デカルトの心身二元論から発した哲学のアポリアを中心に、その周辺を掘りまくる形式。
    小林道夫はデカルトの研究者なのかな?

    何にせよ、科学哲学について勉強するために取った本としては、かなり満足でした。

  • デカルトに取り憑かれて二元論から抜け出せなくなった
    悲惨な哲学者の本。

    「私は疑う。だから心は存在する。」って、
    「疑う」事だって思考のバリエーションの1つに過ぎないんじゃないの。

    デカルトが自然科学の祖であることを頼みの綱にして、
    彼の二元論を否定するなんて自然科学も否定する気か?なんていう
    くだらないレトリックに頼りながら、
    手っ取り早く反論しやすい理屈を否定することで、自分の正しさを証明しようとする。

    そんなただの言葉遊びに終始した本。

    こういうことしてるから哲学が暇人の趣味だなんて
    思われてしまうんだってのに。まったく。

  • 近代科学(及びそれを引継いだようなものとしての現在の我々の考え方)が前提としている世界観(人間観、心身を考える枠組、とか)の哲学的基礎付けが、デカルトとかによってどの頃どうやってなされたか、またどういう内容のものか、について。

  • 昨今、「心の哲学」と呼ばれる分野が、哲学界に於ける主要な領域の一つとなっている。それは、「心」や「意識」の在りようは如何なるものか、そしてそれらは物理的な事象と如何なる関係にあるのか、を研究する哲学の一学科である。本書は、デカルト研究者である著者が、その「心の哲学」に於いて支配的な(そして恐らく俗論という形で広く一般にも浸透しているであろう)「心の哲学の自然化」という考え方を様々な観点から批判する。以下、本書で展開されている幾つかの興味深い議論を取り上げながら、「心の哲学」に於いて真に問われるべき問題は何なのか、本書を通して考えたことを述べてみる。

    ○ 近現代の科学をそれ以前の自然学から弁別する要件は何か

    まず、中世までのアリストテレス的自然学と17世紀の科学革命以降との比較を通して、近現代の科学的説明を科学的たらしめる3つの要件を抽出する。第一に、その対象として数量化可能なもののみを扱い、アリストテレス的自然学には組み込まれていた「知覚的性質」「目的」「価値」「意味」といった主観的で計量不可能な概念は、科学的説明から排除されることになる。第二に、科学的説明には、個別具体的な事象を表現する日常言語ではなく抽象的な数学が採用され、厳密な数学に訴えることで自然現象の内に潜む法則性を追求していくことになる。第三に、科学的説明がその妥当性を獲得する為には、主観的な知覚経験ではなく精密な観測装置を用いた実験・検証という手続きを通過することが要求されるのであり、この要請によって科学は実験によって再現可能な事象しかその対象とすることができないということになる。こうして近現代の科学は、アリストテレス的自然学が扱うような我々個々人の知覚経験を通して目の前に現れる日常的で具体的な世界の記述ではなく、そうした日常的な世界とは直接的には呼応しない抽象的な物理的世界の内に潜む普遍的構造の解明を目指していくことになる。

    ○ 「心の哲学」の端緒としてのデカルト哲学

    近代以降の「心の哲学」の問題は、デカルト哲学の第一命題【Cogito, ergo sum】に端を発する。デカルトは、「わずかでも疑い得る余地があるものは、全て偽なるものとして否定する」という方法論的懐疑を遂行し、感覚によって捉えられる外的対象の存在や数学的命題の真理性をも否定して、終にその極点に於いて、「確実なものは何もない(全ては否定された)」と疑っている自分自身の存在の確実性に到達した。そこで見出されたのは、「懐疑と否定の対象になった全ての事物」を超えた、それらに対してメタ・レヴェルに立つ、「疑う自己」である。「懐疑と否定の主体である自己」が「懐疑と否定の対象である事物」に属することは、その逆の場合と同様に、論理的に不可能であることから、「懐疑と否定の主体である自己」と「懐疑と否定の対象である事物」とは存在論的に異なる二つの実体として、則ち「精神(心)」と「物体(身体)」として定立される。精神は「思考」を本質とし、物体は「延長」をその本質とする。これがデカルトの心身二元論である。

    ○ 「心の哲学の自然化」批判

    そしてここに、「心の哲学」のアポリアとされる「心身問題」が立ち現れることになる。則ち「存在論的に異なる実体である心(精神)と身体(精神)との相関関係を如何にして説明するか」。この問題を解決しようとする試みとして、現在最も有力視されているのが「唯物論」「自然主義」「物理主義」等々の名で呼ばれる学説群である。曰く、「心を物体とは別の実体と見做すのは非科学的な形而上学的乃至神秘主義的妄想であり、心的活動も物理現象として科学的に説明可能である」。或る意味で単純明快なこの物質還元主義は、近年の脳科学・神経科学・認知科学等々の輝かしい発展を受けて多くの人々を魅了している。しかしそこでは、諸学が達成した多彩な果実の華やかさに眩惑されて、心や意識の在りようの本質を見誤っているのではないか。以下、本書で展開された議論に私なりの考えを組み込みながら、幾つかの自然主義批判を試みる。

    【Ⅰ】
    我々の心的活動は、固有名をもつ具体的な個人を主体とする一回限りの人生の中で一回限りの或る瞬間に生じる事象であり、個人が主観的な知覚経験を通して目の前に現れる日常的な世界の中で「目的」「価値」「意味」等々を追求する中で生じる事象である。一方、科学とは、先に確認した通り、その対象から数量化不可能なあらゆる属性を捨象し、その理論は固有名を排除した数学的言語で記述され、実験によって誰にとっても再現可能な事象しか扱い得ない。よって、抽象化された世界の普遍的な構造を記述するべくその方法論が構成されている自然科学では、具体的で個別的で一回限りである心的活動を、自らの対象として取り扱うことがそもそもできない。

    【Ⅱ】
    自然主義は、そもそも、どうして 脳の科学的解明 を 心や意識それ自体の解明 と同一視できるのか、その根拠を示せていない。というよりも、予め「脳の科学的解明 が則ち 心や意識の解明 である」という前提に立って議論を進めているのであり、これは論点先取の誤謬を犯していることになる。或る心的活動と脳内状態とが、脳科学的・神経科学的・認知科学的観点からみて、如何なる対応関係にあるのか、この点については自然科学の更なる発展によって幾らでも精緻に記述することが可能であろう。しかし、「何故に(why)或る脳内状態が当該の心的活動を産み出すのか」「何故に(why)脳内状態の物質的解明が心的活動それ自体の解明といえるのか」、この問いに自然主義は決して答えることができない(デュ・ボア・レーモンも『自然認識の限界について/宇宙の七つの謎』に於いて全く同様の批判を展開している。以下を参照http://booklog.jp/users/transcendental/archives/4003392310)。

    「心の哲学」に於いてまず第一に問われるべきは、「【意識それ自体を解明する】とは如何なることか」という根源的な問題でなければならない。自然主義はこの問いを無視して、根本を欠いた議論を展開しているに過ぎない。

    【Ⅲ】
    自然主義・唯物論の主張は、自己論駁的である。以下"証明"(これより先の記述では、ひとつの文の中に〈P〉と《Q》とある場合、【P は Q に対してメタ・レヴェルに在る】ことを表すこととする)。自然主義は「《意識》は〈物質現象〉に還元できる」と主張する【ここでは〈物質現象〉は《意識》に対してメタ・レヴェルに在る】。この主張が正しいと仮定するならば、「〈意識〉は、《意識を生ぜしめる当該の物質現象》について、何らかの《意識》をもつことができる」という主張も正しいことになる【このとき〈意識〉は《物質現象》に対してメタ・レヴェルに在る、つまり意識と物質現象との間でオブジェクト/メタの関係が反転する】。とすると、〈意識〉は、《意識を生ぜしめる物質現象》の外部へと超え出て、その外部から《意識を生ぜしめる物質現象》それ自体を対象化することができることになる。これは、当の物質現象の内部に於いては説明できない事態であり、「《意識》が〈意識を生ぜしめる物質現象〉に還元可能である【〈物質現象〉は《意識》に対してメタ・レヴェルに在る】」という主張と矛盾する。

    ここには、意識の還元可能性を主張することに本質的に孕まれている矛盾が表れている。「《意識》は〈A〉に還元可能である」と主張するとする【ここでは〈A〉は《意識》に対してメタ・レヴェルに在る】。この主張が正しいと仮定するならば、「〈意識〉は、《A》について、何らかの《意識》をもつことができる」という主張も正しいことになる【このとき〈意識〉は《A》に対してメタ・レヴェルに在る、つまり意識と A との間でオブジェクト/メタの関係が反転する】。とすると、〈意識〉は、《A》の外部へと超え出て、その外部から《A》それ自体を対象化することができることになる。これは、当の A の内部に於いては説明できない事態であり、「《意識》が〈A〉に還元可能である【〈A〉は《意識》に対してメタ・レヴェルに在る】」という主張と矛盾する。

    よって、意識は何ものにも還元することは不可能なのである。ここで本質的なのは、意識と A との間でオブジェクト/メタの関係を反転させることができる、という意識に固有な存在形式である。意識は、それ自体として、還元不可能性を含意しているといえる。

    【Ⅳ】
    〈意識〉は、如何なる《形式体系》の内部にも埋込むことはできない。〈意識〉は、如何なる《形式体系》をも超越することができる。以下"証明"。「《意識》は〈形式体系A〉に埋込み可能である」と主張するとする【ここでは〈形式体系A〉は《意識》に対してメタ・レヴェルに在る】。この主張が正しいと仮定するならば、「〈意識〉は、《形式体系A》について、何らかの《意識》をもつことができる」という主張も正しいことになる【このとき〈意識〉は《形式体系A》に対してメタ・レヴェルに在る、つまり意識と形式体系Aとの間でオブジェクト/メタの関係が反転する】。とすると、〈意識〉は、《形式体系A》の外部へと超え出て、その外部から《形式体系A》それ自体を対象化する(否定を含む)ことができることになる。これは、当の形式体系Aの内部に於いては説明できない事態であり、「《意識》が〈形式体系A〉に埋込み可能である【〈形式体系A〉は《意識》に対してメタ・レヴェルに在る】」という主張と矛盾する。

    よって、意識は如何なる形式体系にも埋込むことはできない。ここで本質的なのは、意識と 形式体系Aとの間でオブジェクト/メタの関係を反転させることができる、という意識に特有の存在形式である。それは換言するならば、意識はあらゆるものを対象化することができる(意識それ自体をも!)、意識はあらゆるものに対してメタ・レヴェルに立つことができる、意識はあらゆるものに対して超越的な位置に立つことができる、意識はあらゆる自己規定を超越することができる、ということである。意識は、それ自体として、自己超越性を含意しているといえる。【Ⅲ】の証明と同型であることから、意識の還元不可能性と意識の自己超越性とは、ともに【意識の対象化作用】という意識に固有な存在形式の表れであるといえる。

    ○ 【意識を解明する】とは如何なることか

    以上述べてきたとおり、「心の哲学」に於いて最も根源的な、それ故にまず以て問われねばならないのは、「【意識を解明する】とは如何なることか」という問題である。この問いの重要性と比較すれば、「心身問題」は本質の枝葉に過ぎない。というよりも、この問いを突き詰めることなく「心身問題」を議論するのは、本末転倒なのである、順序が逆なのである。

    では意識を解明するとはどういうことだろうか。方法論の一つとして、意識のモデルを構成する、ということが考えられる。意識の形式化、則ち意識と同型の形式体系を構成することは可能だろうか。【Ⅳ】の"証明"によればそれは不可能ということになる。この不可能性の本質的な要因は、【意識の対象化作用】という意識に固有な存在形式に求められるのであった。しかしこの証明に於いては、オブジェクト・レヴェル/メタ・レヴェルという語が指す意味内容が明確に規定されていない。

    意識の形式化が可能であるとするならば、それは「理論を対象化するという機制を、当該の理論の内容として予め内包している、というような理論」「理論に対してメタ・レヴェルに立つという機制を、当該の理論のオブジェクト・レヴェルの内容としている、というような理論」といったものになるのではないだろうか。このような理論は構成可能であろうか。構成不可能であるならば、その不可能性は証明可能であろうか。この不可能性が厳密に証明することができれば、【Ⅲ】【Ⅳ】の"証明"が厳密なものになるのではないか。逆に、もし仮にこのような理論が構成可能であるとするなら、それは恐らく従来の科学理論とは全く異なる異形の体系となるのではないだろうか。

    意識の形式化は可能か。


    ※ ※ ※

    拙文を最後までお読み下さり有難うございます。上記の問題を考察する上で参考になる書籍や論文を御教示頂けたら有難いです。

  • [ 内容 ]
    科学や技術の圧倒的な進歩によって、私たちを取り巻く多くの現象が解明されてきた。
    そうした中、「認識論の自然化」、「心の哲学の自然化」と呼ばれる考え方が登場し、心も科学で解明されると主張する。
    本書では、近代科学が産声を上げた一七世紀に遡って、科学の目的と規範を明らかにし、心が科学によっては解明し尽くせないことを示していく。
    消去的唯物論や認知的アプローチなど科学主義路線の限界を示し、デカルトが提出した「心身合一」概念の豊かな射程を再評価する。

    [ 目次 ]
    第1部 科学の目的と規範(近代科学の原点―一七世紀における科学革命と近代科学の形成;科学的知識の三つの基本的規範;理論的対象の実在性と科学的知識の客観性)
    第2部 心の存在と哲学―心の哲学は自然化(科学化)しうるか(近代の心の哲学の原点―デカルトの心の哲学と心身問題;心の哲学の自然化の問題;心の存在の実在性と因果性;自由意志と他者の心)

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 『科学の世界と心の哲学』(小林道夫、2009年、中公新書)

    哲学の観点から「科学」をとらえたもの。歴史的に「科学」がどのように扱われてきたのかということから、心は科学で解明できるかということを論じている。

    自然科学の観点から書かれたものではないので、デカルトなどの哲学を知ってないと難しいかもしれません。

    (2009年12月4日)

全7件中 1 - 7件を表示

小林道夫の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ウィトゲンシュタ...
國分 功一郎
有効な右矢印 無効な右矢印

科学の世界と心の哲学―心は科学で解明できるか (中公新書)を本棚に登録しているひと

ツイートする