ハックルベリー・フィンのアメリカ: 「自由」はどこにあるか (中公新書 2002)
- 中央公論新社 (2009年5月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (195ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121020024
作品紹介・あらすじ
ヘミングウェイが語ったように、アメリカ近代文学は、すべてマーク・トウェインに始まる。自然児から文明人になってしまうトム・ソーヤと、あくまで「自由」を求めるハックルベリー・フィン。これこそ「自然」と「文明」の間で揺れ続けるアメリカ社会の根源的かつ矛盾した欲求の原型である。本書はアメリカ文化のなかで姿を変えて生き続けるハック・フィンの系譜をたどり、アメリカ文化とは何かを探るものである。
感想・レビュー・書評
-
マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を中心に、「文明」と「自然」のはざまで「自由」を求めようとしてきたアメリカ文学の諸相について考察している本です。
著者は、アメリカ文学を考察するための枠組みとして「文明」と「自然」という対立軸を用いているにすぎず、また本書の考察は、そのどちらか一方を選択するのではなく、相克を通じて「自由」にいたろうとする道をさぐろうとする作家たちの努力に焦点をあてたものであることもたしかだと思うのですが、あまりにもわかりやすい図式に整理されていることに多少のもの足りなさを感じてしまいました。
たとえば本書では、逃亡奴隷のジムの置かれている立場や、トウェインのロマンティックな「インディアン地区」観が裏切られたことについて考察がなされているのですが、いずれも「文明」と「自然」との相克という枠組みのなかで処理されてしまっており、これらの問題がもつ重層的な意味が十分に解き明かされていないように思われます。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ハックルベリー・フィンを通してみたアメリカ文化論といった内容。「自然」と「文明」をあいだの揺らぎのなかにあるアメリカ的世界観をハックというキャラクターをものさしとして論じられている。
-
・「アメリカの現代文学はすべてマーク・トゥウェインの『ハックルベリー・フィン』という1冊の本から出発している。・・・それ以前には何もなかった。それ以降にもこれに匹敵するものは何もない」(ヘミングウェイ)
・つまり彼(ハック・フィン)は,自分の自由な存在を探求し続け,それはついにつかみ取れなかったけれども,探求すること自体が自己の自由を証明する行為であった,ということができるだろう。問題は必ずしも結果ではない。より多くプロセスである。プロセスそのものが「生」の証明となるのだ。
・アメリカの状況が「人間」の存在にとって困難になればなるほど,その存在の自由を探求し表現することは,ごく自然にアメリカの真剣な文学者の使命となった。
・「『ハックルベリー・フィン』のいつまでも価値ある富は,それが我々を解放し,デモクラシーと,その崇高で途方もない前提を考えさせてくれることだ」(ノーマン・メイラー「ハックルベリー・フィンーー百歳にて生きている」) -
再読。マークトゥエィンを中心に、アメリカの小説で表現され続けてきたもの、、、「自由」への憧れや「生」はどうあるべきか、といったこと、、、を考察することで、当時のアメリカ人が求めていたものは何か?を論じた本。
前半は、ジェイムズ・クーパーやヘンリー・ソロー、ウォルト・ホイットマン、ハーマン・メルヴィルなどなど、当時の代表的な文学作品の紹介と読解。
後半は、トゥエインの歩んだ道や時代背景と共に、彼の作品に表れた「アメリカ」を読み解く。
小説の読解というのは、最終的には個人の感じ方次第だとは思うけれど、そこに共通して流れる時代背景とか、理念のようなものはきっと存在したはず。全作品を読むほどのゆとりがない現代人としては、あらすじも含めひとつの「捉え方」をこうして提示してくれる本はとっても重宝。
多少こじつけのような箇所があるにしても、面白かった。 -
アメリカ文学をハックルベリー・フィンをキーに読み解いた文学史。思ってたのとちょっと内容が違ったのは私の勉強不足のせいか。
-
「自分は立派な行ないをして、良い所(天国)に行けるようにするつもりだ、なんて言いやがるんだ。だが、このばばあが行く所に行ったって、なんのいいこともねぇと思ったから、おいらは心をきめて、そんなことは絶対しねぇことにした。だが、そんなことは、これっぽちも口には出さなかった。なぜって、そんなことをしたら、ゴタゴタがおこるだけで、なんの役にも立たねぇからさ」
「アメリカの現代文学はすべてマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』という一冊の本から出発している。……それ以前には何もなかった。それ以後にもこれに匹敵するものは何もない」とヘミングウェイに言わせ、「アメリカ人の原型」とも言われるという、ハックについての本。
ハック以前、以後の米文学のハック的人物像― 一言で言って悪あがきの系譜のような―や、山師出身ともいえそうなマーク・トウェインが「アメリカはどうあるべきか」という大問題を自身の作品に反映するのにいろいろ苦労したことなどについても書かれてある。
基本自然児でありワイルドを志向しながらも文明との接点を持たざるをえないハックが、文明と自然にひきさかれ、ヨーロッパへの反発と束縛にひきさかれ、「宙ぶらりんの精神状態」もしくは「黒い不安」a dark suspenseという精神を抱えるアメリカ人を代表していると著者は分析する。荒地にありそうな漠然とした自由を求めて生きるハックは、奴隷のジムの救出劇で、精神の自由を自分のものにする、All right, then, I’ll go to hell.という決断をするにもかかわらず、物語的にジムの自由をもたらしたのは法律の書類であったという結末のアイロニー。そしてハックのさらなる脱走は続く。
「だが、おいらは、どうしてもインディアン居留地に向かって、みんなより先に、飛び出さなけりゃならねぇって思っている。なぜって、サリー叔母さんはおいらを養子にして狂育(教育)しようとしているし、おいらには、それが我慢できねぇからだ。おいらは、もう前にも、そんな目にあっているんだからな。
これでおしまい。
本当にみなさんのものである、ハック・フィン」