- Amazon.co.jp ・本 (241ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121020352
作品紹介・あらすじ
ヴィーコ(一六六八‐一七四四)は、学問的な世界把握にはらまれる理性主義的錯誤の危険性をことのほか鋭く認識していた、ナポリ生まれの哲学者である。大量破壊兵器、環境破壊など、ヨーロッパ的諸科学のもたらした弊害がかつてにも増して深刻味を帯びつつある今日、ヴィーコの学問批判のもつ意味は大きい。本書は『新しい学』の新訳等を完成させた碩学による、ヴィーコの学問観への透徹した案内である。詳細な文献表付。
感想・レビュー・書評
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難しい。
「ヴィーコが「学識の錯誤」ないしは「学者たちのうぬぼれ」と呼んでいるものは、学的な世界把握一般にはらまれる理性主義的錯誤の危険性であると受け取ってさしつかえない。…ヴィーコの試みはたしかにひとつの新しい学を基礎づけようとする試みでありながら、同時にそこには、そうした基礎づけの試み自体をたえず自ら反省に付そうとする姿勢が認められる」(p.218)。この最後で、ようやく「あ、そういうことなのか」と得心がいった感もある。
(1)ヴィーコの話じゃないけど。ヴィーコを援用したハーバーマスの話。
「ハーバーマスは、近代の社会科学は「科学」への道をたどるなかで、かつて古典的政治学が実践知としてなしえていたもの、すなわち、その時々の具体的状況のもとにあって正しく行為するための実践的方法の呈示ということをなしえなくなってしまったと見るところから議論を始めている。そして、「実践的に統御されるべき状況が理論的に洞察されるようになるにつれて、状況解釈能力が失われていくということについては、すでにヴィーコがこのことを見抜いていた」として、ヴィーコの右のくだりを参照すべく引いている」(p22)「実践は理論の技術的応用ではない」(p22小見出し)
という部分は、歴史学の有用性を考えるときにも援用がきくんじゃないか。理論一辺倒でなしに、個々の「状況」から状況を解釈する能力の重要性をヴィーコが重視しているのが知れたのは良かった。歴史学は「実践知」なのかもしれない。
むろん、ヴィーコは単なる個別現象の蓄積に耽溺しているわけではない。「新しい学」を打ち立てるために、「真らしく見えるもの」を擁護し、そこを起点に真理へと迫ろうとしているのだ(たぶん)。
(2)もうひとつ、ヴィーコの話じゃないけど。フッサールとヴィーコ。
「フッサールは、あらゆる歴史的現在をつうじて、その根底には〈意味の本質的に普遍的な構造的アプリオリ〉が横たわっているとしている。そして、このアプリオリを露わにすることによってのみ、本来の意味においての科学的な歴史学、真にことがらを理解したといえる歴史学は可能になるとしている。
…ヴィーコが「人類の共通感覚」のなかから取り出そうとした諸国民に共通の「知性の内なる辞書」、そしてこれにもとづいて導き出されるという「永遠の理念的な歴史」とは、ここでフッサールが〈意味の本質的に普遍的な構造的アプリオリ〉と呼んでいるものに相当するのではないだろうか」(p157)
だとすると、やっぱりヴィーコも個別現象の蓄積で良しとしているわけではなく、「永遠の理念的な歴史」を求めているのだな、という気がする。 -
17世紀のイタリアの哲学者ヴィーコの解説書です。
ヴィーコは、デカルト的な理性主義を批判し、実験的自然学を評価した人です。
自然のことがらについての思索を実験に付し、実験を通じてなにか自然に似たようなものを作り出してみせる場合には、その思索はことのほか明晰であると見なされて万人の賛同を得られるだろう。
なるほど。
★★★
それから、人類の共通感覚についての考察も面白かったです。
ヴィーコは『新しい学』の第二版においてこう定義しています。
ある階級全体、ある都市全体、ある国民全体、あるいは人類全体によって共通に感覚されている、なんらの反省をもともなっていない判断
つまり、自然法というものを考え、「人間の知性の根底に隠されている共通の感覚」にはどのようなものがあるかと考察しているのです。
哲学って、根本をどこに置くかで色々と分かれてくるけど、こういう考えも面白いと思いました。 -
あくまでも知性の発達の自然の流れに即して堕落からの救済の道を探ろうとするヴィーコはかえって人間における陽知的なもの、前理性的なものを擁護することから始めなければならなかった。
人間の知性にはたかだか物事のもっとも外的な要素を拾い集めるという意味での思考しかゆるされていないというようにも指摘されている。神の知性と人間の知性のこのような比較論がキリスト教神学の伝統に根ざしたところからの発言であることは疑いの余地がない。
ヴィーコは文献学という語をたんに言語の歴史だけでなく、事物の歴史をも含めた広い意味で使用している。
人間における知識を紙における知識の規準にするのではなく、神における知識を人間における知識の規準にする、キリスト教信仰に適合した形而上学という立場は新しい学においてもゆるぎなく堅持されているとみるべきだろう。
歴史家はすでに起こったことを語るのに対して、詩人は起こる可能性があることを語るという点に両者の差異はある。したがって歴史に比べて詩の方がより哲学的であり、より深い意義を持つ。なぜなら詩はどちらかといえば普遍的なことがらを語るのに対して、歴史が語るのは個別的な事件であるからである。 -
本書は、東京外語大学名誉教授であり、
イタリア思想を専門とする著者が、
17世紀イタリアの哲学者ヴィーコについて解説する著作です
幅広い分野を包括する議論を展開し、
クローチェ、ハーバマス、バーリン、清水幾太郎など
錚々たる思想家によって取り上げられながらも
日本では、十分に知られているとは言えないヴィーコ。
著者はヴィーゴの自然科学者、キリスト教者、バロック人等の側面に注目し
実験・実証を重視しつつも、理性の限界を強調したヴィーコの思想を紹介します。
同時代を生き、近代思想の基礎を築いたデカルトに対する厳しい批判
「人類の共通感覚」を通じた「最初の人間たち」の理解
彼の著作の表紙に登場する「叡智の目」など、
興味深い記述が多くありました。
なかでも個人的に特に興味深いのは
キリスト教者であり、ピエール・ベールを批判したヴィーゴが
神学的な傾向を薄め、「共通感覚」に依拠していく経過と
それに対する著者の評価です。
「自然の学と自然の同一視」や「学識の誤り」など近代が内包する危うさを、
その創成期において指摘したヴィーコの鋭い問題意識と
今日における重要性を簡潔に知ることができる本書
思想史に関心がある方はもちろん
一人でも多くの方にオススメしたい著作です。