鳥羽伏見の戦い: 幕府の命運を決した四日間 (中公新書 2040)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (328ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121020406

作品紹介・あらすじ

「歴史にイフはない」なんて誰が言ったのか-幕府の命運を決した慶応四年(一八六八)一月三日から六日にかけての四日間の戦いは、さまざまな偶然に満ちている。なぜ幕府歩兵隊の銃は装弾していなかったか、吹きつける北風は幕府軍にどう影響したのか、そして慶喜の判断はなぜ揺れ動いたのか-。誰もがその名を知っているけれど、詳しくは知らないこの戦いをドキュメンタリータッチでたどる。

感想・レビュー・書評

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  • 面白い!たったの4日間の戦闘がこれほどドラマチックとは。

  • 鳥羽伏見の戦いは幕末期における天下分け目の合戦だったのに、その戦況の推移を詳しく知っている人はそれほどいない。学校でもさらりと流して終わるし、鎖国により兵器の近代化に遅れた保守的な幕府が、いち早く開明し軍備を近代化した薩長に負けたという図式でいつも語られる。本当にそうなのか?という疑問にこの本は答えてくれてる。

    結論を先に言うとNOだ。


    幕府もフランス式に軍備を近代化して、伝習隊という精鋭歩兵部隊を組織している。しかも伝習隊の装備していた銃は元込式のシャスポー銃で、先込式のミニエー銃しかなかった薩長よりはるかに威力があるものだった。ミニエー銃が1発撃つ間にシャスポー銃なら3発撃てる。しかも装填も寝そべったまま(頭をあげなくてもいい)できた。ミニエー銃は一度立ち上がらないと装填できないので、その間は無防備になる。
    だから幕府が近代化に遅れ、薩長が進んでいたなんてことはない。


    では、なぜ四日にわたる戦闘のすべてで幕府は負け続けたのか。
    これは偏に将軍慶喜は暗君だったからである(著者はそこまで断定してないが、自分はそうとしか思えない)


    まず都に入京するときに武装し大軍で行きながら、銃に装弾していないという失策。薩長が仕掛けてくるとは露ほども思っていない。示威行動で怖気づくとでも思っていたのか、情報収集がなってない。これでは出鼻をくじかれても仕方ない。




    二日目には装備を整えた幕府軍だが、強風の風下に布陣したばかりに戦況を不利にする。(風下で発砲すると硝煙や発砲時の火花をもろに顔にうけてやけどするため、火力をいかしきれなかった) これは兵力への過信が招いた敗戦だが、逆にいうと幕府軍のほうが火力では勝っていたのだろう。


    三日目以降の戦闘でも、戦況を分析し指揮する指揮官がいなかった幕府軍は正面攻撃に終始したため、薩長に側面攻撃されて押された。そういう意味では用兵の妙は薩長に分があり、先見性があったことは認めざるをえない。しかし、個々の戦場では会津兵の奮闘もあり、押している場所もあった。そして何度か敵の背面に抜け出して挟撃するチャンスがあった。しかし現場の指揮官が形勢逆転の勝機を見抜けず、会津兵の再三の追撃要請にも応じなかったため、ついに勝機をつかめなかった。


    兵力は足りていたのに、用兵がまずくて負けたとしか言いようがない。


    最悪なのは、大阪城に籠城してからの慶喜の行動だ。城を枕に徹底抗戦をするという決死の表明をしておきながら、舌の根の乾かぬ内に城から逃亡するという総大将にあるまじき行為。天下の堅城で籠城戦をしていれば、戦況はどっちに転ぶかまだまだわからなかったのに。というより、おそらく幕府軍に有利になったはずだ。しかし総大将が逃げてしまっては戦にならない。あろうことか慶喜は逃亡するときに妾を同船させている。保身しか考えていない


    維新後、慶喜は自分は戦争したくなかったのに会桑らが勝手にはじめた、などと回想記に記している。大阪城を抜け出した件に関しては、もとから江戸に帰って恭順の意志を示すつもりだった、そのためには味方をも欺く必要があった、と恥じることなく言っている。妾には本当のことを言えるのに、命を懸けている兵には嘘をつくのか。


    平気で嘘をつけて人に責任を押し付け、それによって人がどれだけ傷ついても良心の呵責を感じない。こいつはサイコパスの典型じゃないか。



    戦後、桑名藩がまとめた史書は慶喜の行動を「天魔の所為」と断じている。
    これ以上に慶喜を的確に表現した言葉はない。

  • 改めて鳥羽伏見が維新期におけるターニングポイントであったことがわかる。鳥羽伏見以前において慶喜はまだ権力を放棄する意思はなく、在京の薩長の兵力は幕府の兵に比べて少数で、薩長の頼みとする土佐藩は日和見な態度であった。そのような環境の中では、その後の権力が幕府に転がるのか薩長に転がるのか不透明な状態だった。ゆえに多くの藩は日和見な態度を見せていたのである。
    結果劣勢と思われた薩長が勝ち、錦の御旗が揚がったことは明治の到来を決定付ける極めて象徴的な出来事だったことがわかる。
    どうも明治に入ってから慶喜の弁明が受け入れられたことにより、鳥羽伏見の本来の意義が後世長い間過小評価されたのではないかと思う。

  •  幕末には、「大政奉還」をなしとげた「徳川慶喜」が生き残る可能性も充分あったとの見方もあるが、本書はその可能性を断ち切った幕府の敗戦である「鳥羽伏見の戦い」についての詳細な考察である。
     しかし、「軍事的」推移を追いかけすぎて、もっとも重要な「政治面」の考察が少ないように思えた。
     本書のプロローグには「鳥羽伏見の戦史ドキュメントである」とはっきりと記載されているが、「徳川慶喜の大阪城逃亡」やその後の幕府の「徹底恭順」などは、「徳川慶喜」の特異なキャラクター抜きには語れない。
     歴史の動きは、だれもが見てわかりやすい「軍事」以外にも、独特の論理で動く「政治」の動きがある。
     一般に「軍事」は「政治」の動きに規定されて進められるといわれる。
     本書では、鳥羽伏見の「軍事」の動きはよくわかるが、徳川幕府の総大将である「徳川慶喜」が当時の政治状況の中で何を考えて、どう判断したのかを充分に追いかけているようには思えない。
     本書を読んでも「鳥羽伏見の戦い」の勝ち負けは、「軍事的合理性」だけでは理解しにくい。
     やはりこの戦いは「政治」の考察抜きには理解できないのではないのかとも思えた。

  • 「歴史にイフはない」なんて誰が言ったのか――幕府の命運を決した慶応四年(一八六八)一月三日から六日にかけての四日間の戦いは、さまざまな偶然に満ちている。なぜ幕府歩兵隊の銃は装弾していなかったか、吹きつける北風は幕府軍にどう影響したのか、そして慶喜の判断はなぜ揺れ動いたのか――誰もがその名を知っているけれど、詳しくは知らないこの戦いをドキュメンタリータッチでたどる。(2010年刊)
     プロローグ 鳥羽伏見の墓碑銘
     第一章 開戦前夜
     第二章 伝習歩兵隊とシャスポー銃
     第三章 鳥羽街道の開戦  戦闘第一日目
     第四章 俵陣地と酒樽陣地 戦闘第二日目
     第五章 千両松の激戦   戦闘第三日目
     第六章 藤堂家の裏切り  戦闘第四日目
     第七章 徳川慶喜逃亡
     エピローグ 江戸の落日

    日本史上でも有名な鳥羽伏見の戦いですが、その実態は知りませんでした。今年の大河ドラマ「八重の桜」でも取り上げられていたので、興味が湧き実態はどうだったのかということで読んでみました。

    大政奉還後、復権をめざして徳川慶喜は朝廷側と駆け引きをします。思惑通り進めば、新政府の中でしかるべき地位につく見込みがありました。計画が狂ったのは江戸の出来事でした。庄内藩らが薩摩藩邸を焼き打ちしたのです。事件をきっかけに両軍の緊張が増します。
    そんな中、旧幕府側は大軍を持って上洛しますが、鳥羽伏見の地で入京を拒まれ戦争が始まります。

    本書を読むと、旧幕府側が戦争を始める覚悟が無かった事がわかります。ゆえに作戦は稚拙で、銃に玉も込めておらず、死傷者を出し退くこととなります。ただし、一方的に負けたわけではありません。1日目こそ混乱したものの2日目は元込銃を装備した伝習隊の活躍や工兵隊が的確に陣地を構築したことにより、一進一退の攻防を続けますが、旧幕軍は体制を立て直すため淀まで退くこととなります。3日目に淀藩が裏切り入城を拒んだためさらに退くことに。旧幕軍は最後の防衛線として山崎地峡の橋本関門で戦いますが、新政府軍の渡河を阻止すべき的確な軍事行動を行わなかったことや、藤堂藩の裏切りにより大坂城へ敗走することとなります。ここの件について、藤堂藩が単に節操無く裏切ったという訳では無く、旧幕側にも手落ちがあった事が解ります。

    面白いのは、1日目の時点では、大勢がこの戦いは徳川家(会津・桑名)と薩摩藩、長州藩の私闘と見なしていることです。旧幕側としても諸外国にはその様に説明しています。ところが初日の勝利で朝廷側の空気が変わります。日和見を決め込んでいた諸藩は決心を固めます。特に土佐藩の暗躍が面白いです。
    勝てる戦を取りこぼした原因は何か。1番の責任は慶喜にあります。二心殿と言われ肝心なところで胆力に欠けました。かといって徹底して恭順した訳でもありません。激昂した臣下を御するための方便だったのかもしれませんが、何とも殿様らしく無責任な人を最後の将軍にしたものだと、歴史の皮肉を感じざるおえません。

    著者は史料を渉猟し4日間の出来事を克明に描いており参考書目録には圧巻される。充実した1冊でありおススメである。

  • 明治元年のタイトル名の戦いは、圧倒的な優勢であるはずの旧幕府軍がどうして敗れたのか?錦の御旗を掲げた新政府軍に敗れてしまったのか、著者は長州戦争では賊軍とされた長州が決して負けなかったことから、賊軍とされても旧幕府軍は勝てた要素が多くあったこと、その中でなぜ?を説得力ある論調で展開しています。薩摩と会津・桑名の私闘であったかのような最初の取り上げ方であったように、旧幕府軍といいながらも主力は会津・桑名藩で、大かたは様子見であったこと、激しい北風が続いたこと、旧幕府軍が背後から京都を突こうとせず、一方からのみ攻めたこと、そして鉄砲の性能、最後に徳川慶喜の優柔不断と大阪からの逃亡!などを書いています。慶喜に随分厳しい断罪をしていますが、旧幕府軍に従軍した兵士の記録などを引用し、元にしていることから少なくとも、配下にそう思われていたことは間違いないのでしょう。260年続いた幕府が4日間で崩壊するそのドラマティックな瞬間だったと痛感しました。

  • 鳥羽伏見の戦いの4日間が詳細に分かる。旧幕側の統率の無さが各地での敗戦に繋がっていく様が残念な気持ちになる。「この賊ら、銃丸に中るとすぐさま、短刀をもって喉を刺して伏せ候。」(伏見口戦記)の部分は、この時代が腹に銃創を受けると助からないから咽喉を突くとの事だが本当に悲壮だ。慶喜の弱い性格が幕末の運命を決定付けたり早めたりした事は良く知られるが時間を追って慶喜の気持ちの変化が分かって説得力があった。

  • 一夜にして討伐しようとしていた正規軍が賊軍(旧幕府軍)になってしまった鳥羽伏見の戦いには興味があります。幕末や明治の歴史はかつて日本史の授業で習ったはずなのですが、悲しいことに何も覚えていません。

    しかし何も偏見が無い分、本から入ってくる情報は違和感なく受け止めることができます。この本もタイトルにつられて購入したのですが、今後も更に幕末の戦いに関する本は読み続けていきたいと思いました。

    以下は気になったポイントです。

    ・歴史は大小の決断の連続であり、無数のイフの群が相互排除的にひしめき、最後にその一つが他の全てを押しのけて場所を占める瞬間の持続である(p17)

    ・徳川慶喜は大政奉還(10月24日)ですぐに将軍を辞任したわけではなく、公式に将軍職を罷免されるのは、12月9日の王政復古クーデターを待たなければならなかった、徳川家抜きでは日本の政治は動かないと慶喜は読んでいた(p23)

    ・12月16日に慶喜は、英仏蘭米プロシア伊の6カ国代表と謁見して、外交権は自分にあることを示している、12月14日には新政府の出納係が慶喜に泣きついて5万両を引き出している、新政府は無一文であった(p33)

    ・幕末の頃のレートは、1両=1.2ドル、幕府はフランスへ武器を発注したが代金が払えなかったので、受け取れたのは30万ドル分(残りの42万ドル分は保留)であった(p61)

    ・旗本とは、将軍親衛隊の意味であるが、幕末最大の緊急時には役に立たなかった(p97)

    ・旧幕府軍の奮戦により薩長軍は橋本を攻めあぐんでいたが、淀川対岸の山崎を警備していた津藩藤堂家32万石が、戦闘4日目にして新政府軍に寝返った(p239)

    ・慶喜の篭っていた大阪城には、深い堀、高い石垣、堅固な大砲陣地、十分な兵糧があったので、数カ月は持ちこたえられたと考えられる(p269)

    ・大阪城にあった古金の18万両は持ち出されて、箱館政権を樹立する脱走艦隊の軍資金に使われた(p278)

  •  江戸幕府に終焉を告げた最期の戦いであり、戊辰戦争の始まりを告げたまさに時代の転換期ど真ん中、鳥羽伏見の戦い。
     意外なことに、この本が出るまで、この戦について体系だって書かれた文献はなかったそうです。

     旧幕側の敗因はなんだったのか、もし旧幕側が勝つとしたら、勝っていたらどうなっていたのか、そういった歴史の「イフ」にも踏み込みながら、鳥羽伏見の4日間の戦争を、数々の史料の読み下し文と共に時間単位でドキュメンタリーのように綴っています。
     内容はどちらかというと旧幕側寄りですが、薩長の官軍側に寄ったものが今まで多かったこと、それを裏付けたり覆したりする意図があることを踏まえれば妥当かと思います。

     読み下し文を理解するために何度か立ち止まりましたが、ドキュメンタリーのような形式は当時の緊迫した雰囲気を伝えてくれるようで、物語のように次が気になってページを繰る手が止まりませんでした。
     「なんでそこでこうしないんだ!」とじれったくなるほど、機を逸し続ける旧幕軍。その一方で、前線で薩長軍をたじたじとさせるほどの勢いを見せる場面も見られました。
     死に物狂いで奮戦する前線と、負けが込んであまりにも早く見切りを付けて逃げ腰の上層部。冷静な判断を欠く上層部に、もう悔しい悲しい……。
     会津と桑名の藩主兄弟らを拉致同然に連れ出したあとの慶喜の足取りや海上での出来事が、なかなか興味深かったです。

     前半で一章割いたりして散々持ちあげたシャスポー銃や伝習隊の足取りが、後半で全然取り沙汰されなくなってしまったところにやや不満は残りますが、全体的に当時の武具にもスポットを当ててくれているのが嬉しかったです。
     刀槍や鎧から銃や大砲、動き易い近代的な軍服といったところにも時代の移り変わりを感じることができます。

  • 鳥羽伏見で幕府側が負けるのは必然だった
    幕府にまかせてたらいつまでも古い悪習から抜け出せない
    など、今日教科書等で言われることはまったくの嘘である。

    『事実』について、様々な角度から真実に迫ろうとした本であると思う。
    銃や地形から論じている点は面白く
    また藤堂藩が裏切った、というのは他の本でも読んだが
    「何故裏切ったのか」という理由についてが描かれており
    個人的に非常に興味深い内容だった。

    「伝習歩兵隊とシャスポー銃」については一章まるまるというのは
    割きすぎな気がした。読んでいる分には冗長さを感じた。

    amazonのレビューを読んでいてやや気になったのだが
    様々な史料を元にして筆者の考えも入れてまとめてある本であり
    筆者の描写の仕方云々ではなく、単なる事実が凄いのではないのかと自分は思う。

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著者プロフィール

野口武彦(のぐち・たけひこ)
1937年東京生まれ。文芸評論家。早稲田大学第一文学部卒業。東京大学大学院博士課程中退。神戸大学文学部教授を退官後、著述に専念する。日本文学・日本思想史専攻。1973年、『谷崎潤一郎論』(中央公論社)で亀井勝一郎賞、1980年、『江戸の歴史家─歴史という名の毒』(ちくま学芸文庫)でサントリー学芸賞受賞。1986年、『「源氏物語」を江戸から読む』(講談社学術文庫)で芸術選奨文部大臣賞、1992年、『江戸の兵学思想』(中公文庫)で和辻哲郎文化賞、2003年、『幕末気分』(講談社文庫)で読売文学賞、2021年に兵庫県文化賞を受賞。著書多数。最近の作品に『元禄六花撰』『元禄五芒星』(いずれも講談社)などがある。


「2022年 『開化奇譚集 明治伏魔殿』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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