仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 (中公新書 2135)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (228ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121021359

作品紹介・あらすじ

紀元前五世紀のインドで生まれた仏教。中国では布教に漢訳の経典が用いられたのに対し、日本は漢文のまま経典を輸入した。両国においてサンスクリットの原典は、ほとんど顧みられていない。中国は漢訳ならではの解釈を生み出し、日本では特権的知識階級である僧が、意図的に読み替えた例もある。ブッダの本来の教えをサンスクリット原典から読み解き、日中両国における仏教受容の思惑・計算・誤解を明らかにする。

感想・レビュー・書評

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  • 仏教がインドから中国、日本へと東伝する過程でどのように変容したかを検証し、そこから三国の文化的異同を明らかにする「比較文化論」の書である。
    仏典受容の経緯を見ると、中国では先ずサンスクリット語から中国語への漢訳が行われ、一旦漢訳されるとサンスクリット語原典はほとんど顧みられなかった。その結果漢訳仏典が独り歩きし、単に音写しただけの漢字が有意なものとして解釈されたり、原意に遡ることなく漢字解釈に終始する不毛な論争が繰り返された。
    一方日本では、漢訳仏典をそのまま受容して音読し、これを和訳するという発想が希薄であった。そのため、仏典解釈において中国と同様の問題に直面するとともに、仏典が一部の特権的知識階級に独占される結果を招いた。こうして、日本では仏教が権威主義化し、ほとんどの日本人には仏教教義が理解されていないという。
    その裏返しだろうが、日本では仏教用語の茶化しが著しい。「お釈迦になる」「三遍回ってワン」などがそれだ。著者は「哲学的・思想的対決を真剣にやろうという姿勢が見られない」と嘆くが、むしろ問題解決の一手法として「茶化し」を積極的にとらえることも可能だろう。
    最近では尖閣諸島問題で日中関係がギクシャクしているが、ここでも日本人は「日本鬼子ネタ」や「実効支配ネタ」という茶化しに狂奔して、事態のクールダウンに貢献している…のかも知れない。

  • やっぱりそうなんだ、と思いました。
    お釈迦様の教えが、長い年月と、膨大な距離、多くの人々を経て、様々に変化して来たのが、今の仏教なんですね。イスラム教やキリスト教、荘子などの影響を受けた部分もある、ということで、一言仏教といってもいろいろなものになっていて、初期の教えから逸脱したり時には、真逆のものになってたりしてるのですね。
    それでも、仏教とひとくくりにできてしまうところが、すごいところかも。
    基本の教えとは何かが、はっきりし、
    原点を気づかせてくれます

  • サンスクリット原典の厳密な解釈にもとづいて『維摩経』や『法華経』の現代語訳を手がけてきた著者が、サンスクリット語・パーリ語原典と漢訳経典、さらに日本における漢訳経典の受容の諸相について検討をおこない、仏教の思想がどのように変容していったのかということを、さまざまな事例を紹介して解説している本です。

    著者の翻訳のしごとを通してあらたに明らかになった事実の紹介が中心となっており、さらにそこから展開されたインド・中国・日本の比較文化論的な内容の議論が示されています。「仏教、本当の教え」というタイトルから、初期仏教の思想的核心を掘り下げていくような内容を期待した読者は、肩すかしにあったような気分になるかもしれませんが、個人的にはおおむね興味深く読むことができました。

  •  インドに生まれた仏教が、中国から日本へと伝わる過程でどう変容していったかを、さまざまな角度から概説した本。仏教受容をフィルターにした日・中・印三ヶ国の「比較文化論」としても、愉しく読める。目からウロコの知見も満載だ。

     私の目からウロコを落とした記述を、いくつか引用する。

    《中国には天命説があり、帝王は「天の子」として民間信仰の神々より上位と見なされ、天命を受けた帝王に民衆は服従すべきものとされた。それは、一切衆生の平等や慈悲を説く仏教とは相対立するもので、中国での仏教の展開は将来の矛盾・対立をはらんで始まった。》

    《インドには歴史書もなければ、地理書もなかった。釈尊のことも、歴史として記録されていなかったので、一九世紀末までヨーロッパ人たちは、架空の人物だと思っていた。ところが、一八九八年にピプラーワーというところで釈尊の骨壺が発掘され、歴史的人物だということが、やっと確認されたのである。》

    《タイやミャンマーの僧侶たちは、独身を貫いているし、お酒も一切飲まず、日本の僧侶が結婚していることを非難している。「彼らは出家者じゃない」と。ところが、タバコは吸っている。戒律のどこにも「タバコを吸うな」とは書いてないと言うのだ。それはそうだ。釈尊の時代にタバコはなかったから。どっちもどっちで、五十歩百歩かもしれない。》

    《「法要」という言葉には本来、儀式の意味は全くなかった。それは、「法の本質」、「真理の教えのエッセンス」という意味であった。
    (中略)
     ところが、わが国では「法要を営む」というように用いられて、仏教の儀式を意味する言葉になってしまっている。「教えの本質」よりも「儀式」、「形式」を重んずる傾向ゆえであろう。》

     ただ、仏典翻訳についての記述は、一般書にしてはトリヴィアルにすぎる部分がある。
     とくに、第2章「中国での漢訳と仏教受容」は、本来のテーマから脱線して「仏典翻訳四方山話」になってしまっている。
     たとえば、法華経の「如蓮華在水」の「蓮華」について、一般には白蓮華(プンダリーカ)のことだと思われているが、じつは紅蓮華(パドマ)のことである、と一項を割いて論じているのだが、私などは「そんなの、どっちでもいいんじゃねーの」と思ってしまうのだ。法華経や維摩経の梵漢和対照・現代語訳を成し遂げた著者としては、そのへんをなおざりにはできないのかもしれないが……。

     と、ケチをつけてしまったが、勉強になる良書には違いない。
     また、著者の仏教学の師である中村元への敬愛が、全編にあふれている点も好ましい。「中村先生はこう言われた」などという記述が随所にあるし、終盤に紹介された中村元の最期についてのエピソード(昏睡状態の中で、45分にわたって仏教学の“講義”をしたという)も感動的だ。

  • この本きてますね~。
    日本の新興宗教ではなく、インドの原始仏典からいろいろ引出しています。中村元先生に師事されていたようです。
    サンスクリット語、パーリ語満載です。
    仏教=宗教を学ぶと言うよりは、東洋思想の一部を読む感覚です。
    面白いです。

  • まず、タイトルが振るってる。「仏教、本当の教え」。是非知りたいところだ。長いこと、仏教とは何なのか、仏教をどう捉えたらいいのかは興味の対象で、定期的にその手の本を読んでみるが、毎回煙に巻かれる思いだ。この本の場合、タイトルからすると、そのものずばりを教えてくれるのかなと。帯も中々面白い文言が載っている。大きな活字で「壮大な伝言ゲームの果てに」。

    しかし、1/3程読み進めた時点で、「ああ、またやられたな」と。僕が知りたいことは書いていない。あるいは、僕が知りたい角度からはこの作者はこの本を書いていない。僕が仏教について知りたいのは(色々あるが)、
    (1)仏陀、釈迦、ゴータマ・シッタルダ、色々呼び名はあるが、とにかく彼が一体どういう教えを広げたのか。彼が何を考えていたのか。彼が何を悟ったのか。
    (2)仏陀没後、部派仏教、大乗仏教、密教と色々な変化をとげた仏教だが、具体的に、どこで、誰によって、何故、そのような変化が起きたのか。
    (3)現在に残る仏教は、仏陀が説いたそれとは大きく変化していると言われている。では、その変化の振れ方をどう捉えたらいいのか。否定的にみるのか、肯定的に見るのか、それとももっと複眼的な視点が必要なのか。
    (4)そもそも仏教は宗教と捉えるべきなのか。哲学に近いものと考えるべきなのか。

    (1)~(4)の疑問は相互に関係している。多分、解はないのかもしれない。
    さらに、仏教の本を手にする時に、その筆者が上の(1)~(4)のような事柄をどう考えるかによって、どうしても本に「色」がついてしまう。その筆者が思い入れがある宗派・解釈がどうしても前面に出てくるからだ。はっきり言って、仏教を全く信仰の対象としていない人が客観的に書いた本が読みたいのだが、そういったものは、見たことがない。また、実際そういう本があっても、別の意味で全く不完全なものにしかならないのかも知れない。

    この筆者の場合、大乗仏教に寛容で、密教にはあまり関心がない。また、道元にはやや辛く、日蓮には、甘い。大まかには大乗仏教は仏陀が教えた精神に則っていると考えているらしく、仏陀が本当に言った言葉かどうかの検証や問題意識は、この本には、ない。インド→中国→日本に経典が伝わる間での翻訳のニュアンスや漢訳経典の日本での読み下し方の話が本のかなりの頁を占める。タイトルは「仏教、本当の教え」というよりは、「仏教経典、翻訳こぼれ話」程度が相応しいように思う。

    また、訳し方のニュアンスやこの筆者の問題意識、例えば仏教のジェンダー平等などについて、色々と例示があった後に「このように……なのは明白」的に結んでいることが多かったが、例の挙げ方が本当に公平と言えるのか、また論理展開的にもそのような結論でいいのか、首を傾げることが多かった。まあ、私の理解度と知識の不足によるせいかもしれませんが。

    そして二言目には「中村元先生が…」と出てくるので、この人の本を読むより中村元の本を読む方が余程話は早いし本質に近づけるかも知れない。また自身がサンスクリットから訳したという「維摩経」「法華経」をやたら引用するが、何故維摩経・法華経が絶対的に仏教の本質を伝えていると言えるのか、その説明はない。さらにその引用も非常に断片的なものなので、少しでも仏教を知りたければ現代語訳されたという維摩経・法華経を読む方がまだ時間を有効に使ったと言えるかも知れない。

  • ふむ

  • 著者は仏教研究家の植木さん。サンスクリット語の仏典を読み解き中国、日本へ伝わった仏教の誤解といったことが主テーマかと思い興味深く読んだが、そんなに興味を惹かれる所は多くなかった。

    印象に残ったのは、釈尊が弟子から「世尊の教えはサンスクリット語に翻訳して伝えた方がよいのではないでしょうか」と尋ねられ、「その必要はない、その地域の言葉で伝えなさい」と答えたこと。そしてその通り、アジア各地ではその地域の言葉で伝えられたが例外は日本で、漢訳のまま受け入れて、大和言葉に翻訳されることはなかったとのこと。したがって多くの人はお経を聞いてもいみがわからない。お経というとわけのわからないものの代表格になっているが、もったないというか不幸なことだ。ただそのために浄土宗や日蓮宗などシンプルでわかりやすい宗派が普及したのだろうか。

  • 著者の意図は立派なものだが、細かな例示がダラダラ続くのでうんざりしてしまう。読む意味はあると思うが、再読はしないだろう。あと、少なくともこの本に中村元の話はいらない。

  • NHK 100分de名著 より。植木雅俊 「仏教本当の教え」

    変容した日本の仏教をインド仏典から見直した本。タゴール、諸法実相、常不軽菩薩 の話は 面白い

    タゴールの思想「アジアは 文化によって 一つでなければならない〜仏教によって実現されていた時代があった」

    タゴールが見出した 仏教の現代的意義
    *徹底した平等
    *迷信、占いを徹底して排除
    *西洋的な倫理観を説かない〜神対人間ではなく、人間対人間の中で倫理観を説く

    諸法実相
    *諸法=あらゆる物事、現象、実体
    *実相=ありのままの姿、実在、普遍的実在
    *インドは実相が重視→日本は諸法が重視
    *諸法から実相を見、実相から諸法を見る

    法華経の理想とする菩薩像=常不軽菩薩
    常に軽んじないと主張して、常に軽んじていると思われ、結果 常に軽んじられることになるが、最後は 常に 軽んじられないものとなる菩薩

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著者プロフィール

仏教思想研究家・作家。1951年長崎県島原市生まれ。九州大学理学部物理学科卒、同大学院理学研究科修士課程修了。東洋大学大学院文学研究科博士後期課程中退。1991年から東方学院で中村元氏に師事し、2002年に文系ではお茶の水女子大学で男性初の博士(人文科学)の学位を取得。著書に『法華経とは何かその思想と背景』(中公新書)、『差別の超克原始仏教と法華経の人間観』(講談社学術文庫)、『テーリー・ガーター尼僧たちのいのちの讃歌』(角川選書)、『梵文『法華経』翻訳語彙典』(全2巻、法藏館)、『法華経誰でもブッダになれる』(NHK「100分de名著」ブックス)など。訳書に『日蓮の手紙』(角川ソフィア文庫)『梵漢和対照・現代語訳法華経』(上下巻、毎日出版文化賞受賞)、『梵漢和対照・現代語訳維摩経』(パピルス賞受賞、いずれも岩波書店)、『サンスクリット版全訳維摩経口語現代語訳』(角川ソフィア文庫)など。小説に『サーカスの少女』(コボル)。

「2023年 『日蓮の手紙 2023年3月』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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