近現代日本史と歴史学 - 書き替えられてきた過去 (中公新書 2150)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121021502

作品紹介・あらすじ

近代日本の始まりは、ペリー来航ではなく、かつては天保の改革とされていた。高度成長期の公害問題が起こるまで、田中正造は忘れられた存在だった-。歴史は、新史料発見・新解釈により常に書き替えられる。特に近現代史は、時々の政治・社会状況の影響を受けてきた。本書は、マルクス主義の影響下にあった社会経済史をはじめ、民衆史、社会史という三つの流れから、近現代の歴史がどのように描かれ、修正されてきたかを辿る。

感想・レビュー・書評

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  • 戦後、今日まで、近現代日本史がどのように描かれ、修正されてきたかをたどっている。
    本書のベースとなる考え方は、歴史(像)というのは、永遠不変のものではなく、その時々の歴史家の問題意識により書き換えられるものであるというものだ。その考え方の本質は、本書で引用されている、「歴史とは(……)現在と過去との尽きぬことを知らぬ対話」というE・H・カーの『歴史とは何か』の一節に端的に表されている。私もこのような歴史の見方には賛同する。このような歴史の考え方を示す歴史哲学の本は数多あるが、それを近現代日本史という長いスパンで実際の歴史学の成果をたどることで実際に示しているところに本書の特色がある。
    本書では、戦後の近現代日本歴史学は、3つのパラダイムが変遷してきたと主張される。すなわち、マルクス主義の影響を受けた社会経済史をベースにした第Ⅰ期、民衆の観点を強調するようになる第Ⅱ期、社会史研究が取り入れられ、近代や国民国家の相対化が試みられた第Ⅲ期である。それにより、日本における近代の始期が、天保の改革からペリー来航に書き換えられたり、自由民権運動や大正デモクラシーの評価が変わってきたりしたと、近現代日本史の各テーマに沿って歴史学研究の実例が紹介される。
    本書を読んで、戦後歴史学が、マルクス主義に強く規定されていたことを再認識した。まさに政治に奉仕する歴史学であり、個人的にはすごく違和感を覚えた。一方で、社会史が台頭する第3期の近代や国民国家を相対化する歴史像は妥当なものだと思う反面、マルクス主義という「大きな物語」の喪失により、歴史学の目指すところが見えにくくなってしまっているのも事実だと感じた。
    本書の難点としては、研究がなされた当時の学生運動や国際情勢などが歴史家の問題意識に影響を与えたのだろうと特に根拠なく推測していることが少なくなかったことが1つ挙げられる。研究内容から見て、たぶん影響はあったのだろうが、それを裏付ける研究者本人の証言等が示されていれば、なお説得力があったと思う。
    また、社会経済史や社会史に焦点を当て過ぎな気もした。第Ⅰ期から、マルクス主義の影響を受けないいわゆる「実証史学」の研究はあったと思うし、現在まで連綿と続いていると思うのだが、そういう研究が捨象されすぎているのではないかという気がした(例えば、伊藤之雄など)。

  • 本書でわかることは、歴史学がイデオロギーの学問であることだ。
    戦後しばらくは経済発展の理論に基づいて開国以降を論じ、何の出来事がどの段階にあるのか論争をするという不毛な議論があった。
    やっと以上の議論が不毛であると気づいたのか2期と3期には民衆や女性からみた歴史に重点が置かれるなどしている。
    これはそもそもの歴史学の枠組みの転換であろう。国史から日本史への意識の転換だといえる。例えるならこれまでの国語の教科内容が古文・漢文・現代文だったところに、生成文法が追加されたようなものではないか。
    本書では以下の記述は無いが、このはっきりしたパラダイムの変更はマルクス主義がその滅亡において舵を切ってきた足跡なのだろう。
    一番馴染むのは3期で見られる総力戦論だ。イデオロギー臭が薄い。巧妙に隠してあって見えないだけかもしれないが。
    最近は第一次大戦の推移と結果から1945年までを説明する内容の本が増えているように思う。
    国際的な環境と国内の反応から説明を起こしていていろいろと腑に落ちたり、目が覚めることが多い。
    同じく3期では開国と維新を東アジアが西洋と確執を深めているという世界史的な物差しから説明しているが、総力戦論についても世界史的な物差しによって理解が深まっていることを感じる。
    戦前と戦後の価値の衝撃的転倒を経験した世代と、戦後の価値のみで育った世代とでは近現代の理解の仕方は異なってくるのは当然だろう。なんだか、歴史理解の方向性が時を経るごとにあるべき姿に向かっているようで安心してしまうのは私のイデオロギーなのでしょうか。

  • いささか扇情的な副題(書き替えられてきた過去)と帯の惹句(歴史は書き替えられるー)にも拘わらず、内容は至極まっとうな「史学史」。近現代日本史の叙述が時の政治・社会状況の影響を強く受けてこなかったと考える方がナイーブに過ぎるのであって、その意味では「当たり前」のお話しである。

    しかし、そのことを整理し、わかりやすく叙述することは難しい。言うまでもなく、史学史自体が時の政治・社会状況の影響を、また強く受けざるを得ないからだ。その点、本書はマルクス主義の影響が強かった社会経済史、民衆史、社会史といった視角を軸に各時代の歴史叙述がどう変遷してきたかを手堅く描き出している。

    もっとも、経済史の立場からはたしてこの歴史叙述の変遷を素直に受け入れられるかどうかは別問題。たとえば、本書で9期に区分されている「近現代日本史」という視角自体、問われなければならない問題であろう。ウォラーステインの近代世界システム論やA・G・フランクの従属論、ホブズボームの「長い19世紀」論、などなど日本の歴史学界にも大きな影響を与えているはずの議論はまったく触れられていない。ないものねだりなのかもしれないが……。

  • 歴史とは多くの史実の集積であるが、歴史学というのは、それらの中からなにがその後の歴史を動かす力になったか、なにとなにがつながりあっているのかを選びだし、価値づけする作業である。(こんなことを学生時代に議論したことがあったのを思い出した)成田さんは、「近現代日本史学史」のような授業でこのテーマを論じたのであろう。歴史学はつねに書き換えられる。成田さんは、それを三つの期に分ける。第一期は、戦後から1960年頃までのいわゆる社会経済史をベースにしたもの。そう言うと、古くは戦前の羽仁五郎や野呂栄太郎の講座派や大塚史学を思い来させる。マルクス主義の唯物史観の観点からの歴史分析である。ここでは人民ということばがよく使われた。第二期は、1960年頃から強くなった民衆史観。第三期は、1970年頃から盛んになった、国境と学問の境界を越えた歴史学である。そして、その時々によって、著者たちが面していた歴史事件との関係で、過去の一つ一つの史実の評価が変わってくるのである。成田さんは、それを多くの著書を中心に語る。一つの一つの本の紹介は少ないものだと1行、多いものだと数行にわたるが、歴史家というのは、資料をいじるだけでなく、こうした史実をとらえる論についても通暁していないといけないのだと改めて思った。もちろん、ここでとりあげられていない著書もある。論文はあまり引かないというが、それでも、それなりに言及している。面白いのは、東京大学准教授だった○○は…のような記述が頻繁に出てくることである。もう少し行けば、小谷野敦が好きな人脈にいくのだろうが、成田さんはそんな下品なことはしない。(小谷野敦は最近『新明解国語辞典』について「まともな辞書でないことに気づくまで」を書いているが、内容にはまったく触れず、辞書をつくればもうかるとか、編者の山田の一族が学者一家でとか、金田一一族の話など下世話でお茶をにごしているだけである。こういう原稿をよく載せるものだ)本書の中で、一つ印象に残ったのは、「大正デモクラシー」という、当然のような名前が今は必ずしも使われていない、つまり、このことばの有効性が疑われているということ、また、デモクラシーの中からファシズムが生まれてくるという点である。本書のような史学史は記述がすくないだけに理解は容易でないが、一つの事実をどう見るかという複数の視点と著書が紹介されていることで、一つ一つの事件についてもっと知りたくなる。ぼくは歴史の畑に少しいたことがあるから、60年代のことは多少知っていることもあったが、こんな研究もあるのかととても興味深く読んだ。

  • 第五章までと第九章を読んだ。

  • 「歴史修正の歴史」という少々厄介なテーマを扱っている。概して、「歴史修正主義」は悪のイメージで語られるように思われるが、そもそも歴史は修正されるものである。それは新たな史料が発見されたり、新たな意味付けによる解釈が世間に受け入れられたり。著者曰く、世間一般の歴史理解(歴史小説や歴史番組)のレベルは40~50年前のもの(これが教科書の記述水準)であるとの事なので、それを逸脱する解釈は「歴史修正主義だ!」と批判される側面はあるとは思う。が、さすがに60年代以降生まれの歴史学者(著者曰く第3期世代)が大御所的に台頭してきているので唯物史観も衰退しており、世間一般の歴史認識も変わりつつあるのかと。まあ、司馬遼太郎をいい加減に卒業しろよって事なのかもしれないが。

  • 地域史

  • 幕末〜敗戦後までの時期を扱った日本史史(歴史学の歴史学)。本書は1950年台〜2000年台の日本史学を3期に分けて、各テーマごとにどのような蓄積や発展を経てきたのかを解説するものです。

    内容的にとくに印象的な部分だとか、面白い部分があるだとかいうことはなので、若干退屈なものになってしまうのですが、戦後日本史学界の歴史と各テーマとのマトリクスを淡々と解説していくという性質上、これはもうどうしようもないことだとは思います。

    第1期〜第3期までの各時期には、それぞれの時代背景に起因する固有の問題意識や方法論の共有があり、それにより各時期の歴史学が近現代の「日本」について表象してみせた「歴史像」にも固有の解釈が示されていた……。

    ──という点は、本文中、著者によりしばしば言及されているところですが、私としてはその日本史学界の世代的な弁証法(界に固有な歴史)を通じて、徐々に徐々に史学界全体の理論と方法が練成され精緻にされていく様が印象的でした。

  • 非常に参考になった

  • 歴史像を記す歴史家は、自らが生きる時代の影響を受けながら歴史を解釈する。本書を読みながらそんなことを考えた。

    相当な量の近現代史研究の著作が紹介される。中には、その評価について意見が大きく割れたものもある。正直な所、近現代史の歴史学を通史として見せるにあたって妥当であるのか否か判断に迷った。

    歴史学以外の政治学、経済学、社会学、女性学などの著作も紹介されているが、バランスのとれた選び方なのか、こちらも評価が難しい。この人の著作を紹介するなら、なぜ、あの人の著作は取り上げられないのか不思議に感じる点もあった。

    意図的に紹介していないのではと思う学者が数名頭に浮かんだ。また、私の感覚では大事だと感じる学者の著作について簡単な記述にとどまっている場合もあり、評価の差ではあるのだろうが、違和感が残った。意欲的な作品ではあるが手放しに評価していいのか非常に迷う内容だった。他の筆者の手による同じテーマを扱った著作が発表され、将来比較ができるようになることを望む。

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著者プロフィール

日本女子大学名誉教授
『近現代日本史との対話』(2 冊、集英社新書、2019 年)、『歴史論集』(3 冊、岩波現代
文庫、2021 年)など。

「2021年 『対抗文化史 冷戦期日本の表現と運動』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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