物語 ビルマの歴史 - 王朝時代から現代まで (中公新書 2249)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (458ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121022493

作品紹介・あらすじ

民主化運動の指導者アウンサンスーチー、壮麗なパゴダ、『ビルマの竪琴』などで知られ、潜在力の高い新興市場としても注目されるビルマ(ミャンマー)。王朝時代に始まり、イギリス植民地時代、日本軍による占領期。戦後の独立後は、ビルマ式社会主義、二三年間にわたる軍政期、そして二〇一一年に民政へ移管し、改革の進む現代まで。知られざる多民族・多言語・多宗教国家の歩みをたどり、未来を展望する。

感想・レビュー・書評

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  • まず本書では、「ミャンマー」と「ビルマ」の違いについて説明をする。少々長くなるが、引用すると
    「この国のビルマ語名称は1948年の独立時からずっと「ミャンマー」である。一方、英語の名称の方は「バーマ(Burma)」が公式に使われ、国際社会でもその名前で知られてきた。日本でも「ビルマ」という呼称が用いられてきた。ところが、1988年9月に民主化運動を封じ込んで登場した軍事政権は、翌1989年6月に突然、英語の国名を「バーマ」から「ミャンマー(Myanmar)」に変更すると宣言した。すなわち、英語の国名もビルマ語の「ミャンマー」に統一すると決めたのである。
    ビルマでは王朝時代から、書き言葉(文語)では「ミャンマー」が使われ、しゃべり言葉(口語)では「バマー」が使用されてきた。いまでもビルマ人同士の会話(とりわけ年長者のあいだ)では「バマー」がよく使われる。英語の「バーマ」はこの口語の「バマー」を起源にしている。「バマー」や「バーマ」はオランダ語では「ビルマ(Birma)」と表記されたため、日本では明治初期にこのオランダ語の呼び方が導入され、漢字表記の「緬甸」とともに日本語のなかに定着した経緯がある。
    「ミャンマー」(文語)と「バマー」(口語)に意味上の違いは見いだせない。いずれも歴史的には狭義の「ビルマ民族」や彼らが住む空間を意味したからである。現在でいうカレン民族やシャン民族などの少数民族を含む国民全体を表す概念ではないことに注意が必要である。しかし、軍事政権は英語国名を「ミャンマー」に変更したとき、「ビルマ」と「ミャンマー」に意味上の違いが存在するかのような無理な説明を行った。それは「バマー」は狭義の「ビルマ民族」を指し、「ミャンマー」は少数民族を含む「国民全体」を意味するという解釈である。それに基づいて英語国名もビルマ語名称の「ミャンマー」に統一すべきだと結論づけたのである。
    軍事政権がつくりあげたこの新しい解釈はしかし、歴史的根拠に欠ける。もし「バマー」と「ミャンマー」とのあいだに意味上の違いをあえて見出そうとするのなら、その答えは軍政のそれとは逆になるはずである。というのは、軍政の中核であるビルマ国軍の誕生と密接な関係を有する1930年代の反英ナショナリスト団体タキン党(我らのビルマ協会)が、文語の「ミャンマー」ではなく、口語の「バマー」(英語のバーマ)こそ「ビルマ国民」全体の呼称としてふさわしいと主張した(中略)。
    ただ、たとえ説明に歴史的根拠や正統性がなくても、一国の政府が英語名称の変更を公的に宣言したい以上、国内のみならず国際社会もそれに従わざるをえない面がある。国連ではすぐに英語名称を「ミャンマー」に切り替え、現在に至っている。日本政府も国会の承認を得て日本語呼称を「ミャンマー」に変更した。・・・世界の多くの国々も、米国や英国などの例外を除き、21世紀に入るころまでには「ミャンマー」を使うようになった。
    一方、「バマー」「バーマ」「ビルマ」を使いつづけたほうがよいとする見解も根強く存在する。これを一番強く主張しているのは、ビルマの国内外で反軍政側に立ってきた人々、すなわち民主化運動を支持してきた人たちである。彼らは「クーデターで登場した軍事政権が国民の合意を得ずに英語呼称を一方的にミャンマーに変えた」ととらえ、その命令を非民主的と断じ、従うことを拒絶してきた。彼らは現在でも「バーマ(ビルマ)」を使い続けている。民主化運動指導者のアウンサンスーチーも同じ理由に基づき、英語で発言するときは「バーマ」を使いつづけている。」(6~8頁)
    では、ビルマ(ミャンマー)の歴史を教科書に書いてあることを機軸に本書を説明していきます。
    イラワディ川下流域に9世紀までにピュー人の国があったが、11世紀にはパガン朝(パガンとはピューの集落を意味する「ピュー・ガーマ」が転化したもの(42頁))が起こり、スリランカとの交流の中で上座部仏教(近年では上座“部”仏教という呼び方より、上座仏教という言い方になりつつある。これは、東南アジアで上座部系諸宗派のうち「南方上座部」と呼ばれる派以外は姿を消し、その結果、もはやほかに「部派」が存在しなくなったため、「部」をとって上座仏教と呼ぶことになったからである(34頁))が広まる。また、同じころ下ビルマのマンダバン湾岸にモン人を主体としたペグー(ハンターワディ朝)(建国者はシャン人)という港市国家も建設される。
    その後パガン朝は元の侵入で滅び(支配層の間ではパゴダの建立や僧院の建設だけにとどまらず、土地をこぞって僧院に寄進しそこで働く聖性を帯びた僧院奴隷も多数献上した。こうした積徳行為はしかし、行き過ぎを見せるに至った。僧院領地の増大は非課税地の拡大として王朝の財政を悪化させ、少ない人口にあって多くの僧院奴隷が献上されたことは労働力不足を招いて国力を弱めた。13世紀後半に中国から元軍が4度にわたって雲南を通ってパガン朝を攻撃したとき、すでに同王朝は内部から崩壊の兆しをみせていた)、その後の分裂期を経て1531年にビルマ人によりタウングー朝(以前の教科書ではトゥングー朝と書かれていたが、原音ではTaun-ngooである。新課程で修正されてます)が建国され、米や鹿皮などの特産物交易で栄えます。
    タウングー朝は1752年に中国人の反乱をきっかけに倒れますが(本書によると、直接倒したのはモン人たちのようです(47頁))、北方の首長アラウンパヤーがモン人の軍隊を破り、コンバウン朝(アラウンパヤー朝)を建国します。このコンバウン朝はタイのアユタヤ朝を滅ぼしたり、アッサムにも進出しますが、インド支配を固めつつあったイギリスと対立し、3次にわたるビルマ戦争で敗れ、インド帝国に編入されました(英国は当初、アフガニスタンと同じようにビルマ王国の保護国化を考えていたが、・・・いくつかの理由でそれをあきらめざるをえなかった。第一に、王朝のなかに利用できる往事が見当たらず、英国に協力的で土着社会にも影響力を持つ都合の良い新しい王を立てることが出来なかったからである。・・・第二に、ビルマ王国が王都マンダレーとその周辺を統治するのもおぼつかない弱体王権にすぎなかったことを、・・・英国が認識したからである。第三に、保護国化を念頭に、はじめは国務院など、ビルマ王国の既存の統治制度を活用しようとしたが、それが英国の期待通りに動かなかったからである。(77頁))。
    イギリス支配下に置かれたビルマ(コメと石油の産出量や輸出先を見ると、植民地ビルマが英国によってインド本土の食糧と燃料を供給するための「基地」と位置づけられていったことが理解できよう。英国にとってビルマはインド支配のための重要な「付属品」だったといえる。(84頁))は、第一次世界大戦後の1920年代から民族運動が起こり、僧侶による啓蒙運動やタキン党(1930年6月には、ビルマ人中間層第2世代の若手が中心となって、我らのビルマ人協会(ドバマー・アスィーアヨウン、通称タキン党)という世事団体が結成され、英国が設定した植民地議会でしか闘おうとしないGCBA(ビルマ人団体総評議会、ナショナリズム運動をおもに政治的手段によって推し進めることを目指す)に対し、「彼ら(英国)の側にたつ(対英協力的な)ビルマ人」だとする厳しい非難を浴びせ、英国に対し妥協をいっさい拒否する主張を展開する(139頁)。タキン党からは、のちに抗日戦争やそれに続く対英独立交渉において指導的な役割を果たすアウンサンをはじめ、独立後の初代首相ウー・ヌ1962年以降88年まで政権を独占したネィウィンなど、著名な人物が次々と輩出されたため、独立後のナショナル・ヒストリー(ビルマ政府による公式歴史叙述)のなかで、同党は常にビルマ・ナショナリズムの主流として記述されるようになった。(142頁))と呼ばれる急進的民族主義者が台頭します(英国は1935年4月、・・・ビルマ統治法を公布する。インド本土でも同時に1935年改正インド統治法が公布された。・・・ビルマ統治法の施行に伴い、それまでのインド省からビルマ省が分離され、ビルマ問題をインド問題と正規にわけて処理することになった。ただし、・・・英本国の認識においてビルマ統治がインド統治の「付属品」扱いだったことは否めない(92~94頁))。
    その後第二次世界大戦期における日本軍の占領後、1948年にイギリス領から脱し、ビルマ連邦共和国(イギリスが民主国家だったこと、労働党のアトリー内閣がタキン党系ナショナリストが抱く社会民主主義的なイデオロギーに共感しやすい立場にあったこと、独立問題をこじらせることによってビルマに共産主義が広がらないよう英国が妥協的姿勢をとらざるをえなかったこと、インド植民地軍がインド独立問題の激化で動かせなかったこと、がアウンサン率いるビルマの対英独立交渉に有利に作用し、彼が暴力党争を再び採用しなくても済むようにさせた(237頁))が成立
    1962年軍部のクーデタでネ・ウィン政権が成立し社会主義化を宣言、その後民主化運動が激化し、1989年に再び軍事クーデタ(明確な指導者不在の民主化運動は社会不安を生み、焦った(民主化運動を起こした)学生側は、9月12日に総選挙実施のための暫定政府設立を宣言するようアウンサンスーチーやティンウー元国防大臣らに強く求めたが、事態は決定的な推移をみないまま9月18日を迎えた。その日の午後4時過ぎ、国営ラジオから勇ましい行進曲とともに臨時ニュースが流れ、国軍が「法秩序の回復」と「国土の治安維持」のために全権を掌握したことを伝えた。(321頁)が起こり、国名をミャンマーに改めています(以前ニュースステーションで久米さんが頑なにビルマという言葉を使っていたのを思い出します)。
    一方、現代ミャンマーを語る上で欠かせないのがアウンサンスーチーと彼女が率いるNLD(国民民主連盟)ですが、独立の父アウンサンを父に持つアウンサンスーチーは、国際関係学や歴史、経済などを学んだ後、イギリス人の男性と結婚、出産をしてオクスフォードの大学院に入ります。しかしそこで母親の危篤を伝えられるとあわてて帰国、しかしこの年はミャンマーでは民主化に揺れる1988年でした。アウンサン将軍の娘として民主化運動の看板となった彼女はNLDを結成し、民主化運動を率います。しかし軍政に目をつけられ、1989年より途中の中断などを経て2010年まで10数年にわたり軟禁されます。
    軍政は2003年に「民主主義への7つの道程」を発表し、アウンサンスーチー解放後の2011年、いよいよ最後の行程である「民政移行」を行います(その間に2007年の僧侶のデモを発端とした大規模は反政府運動(このとき日本人ジャーナリストの長井健司さんが銃撃され死去)や2008年の大型サイクロンによる14万人以上の死者を出すなかでの新憲法に対する国民投票の強行などがありました)。こうして発足した2008年憲法の下でのティンセイン政権では、非常に軍政的色彩の強いながらもアウンサンスーチーと直接対話を行ったり、政治犯の解放や、アウンサンスーチーやNLDの選挙参加も認めました。
    この民主化は、著者が指摘しているように下からの突き上げ、民主化運動の西夏ではなく、軍事政権の態度の変化です。2008年憲法も、議会の25%は軍事でなければならず、また憲法改正は75%+1人の賛成がなければ国民投票を行えないなど、民主的とはいえません。しかし、変化が見えることは確かです。東南アジア最後のフロンティアとも呼ばれるミャンマーです。今後日本も良好な関係を築いていけたらと思います。

    備忘録
    アウンサンスーチーは「アウンサン家のスーチーさん」ではない。彼女の名前は「アウンサンスーチー」でワンセットである。ビルマには一部の少数民族を除き、姓にあたるものがない。ビルマ人が持つパスポートには無理やり「姓」と「名」に分割した名前が書き込んであるが、これは国際標準に合わせた便宜上の措置で、ビルマ人の感覚からいえば滑稽に映る。(10頁)

    中国との国境にある標高5881メートルのカカボラズィ山は年間を通じて冠雪する(ちなみに同山の初登頂は1996年9月15日、日本人登山家の尾崎隆による)。(12頁)

    (上座仏教では)功徳を積む行いを積徳行為といい、たくさん功徳を積んだ者は来世において出家する決心ができる強い人間になれると信じられている。このような道が用意されていることによって、出家できない在家信徒にも上座仏教を信仰する強い動機が生まれるのである。(37頁)

    『ビルマの竪琴』は名作とはいえ上座仏教をまったく理解していない作品である。この作品に基づいてビルマのイメージをつくりあげるのは問題である。英国との戦争に負けた日本軍の兵士が、修行も行わずにいきなり比丘(正規の出家僧)になるという設定からして問題だが、この際それは横に置く。より深刻な問題点は、僧侶になった主人公が竪琴を奏でながら戦友の供養を行うことにある。日本では琵琶法師のようなイメージで受けとめられるかもしれないが、ビルマでは上座仏教の十戒に含まれる「歌舞観聴の禁」(音楽に親しんではならない)を起こす行為とみなされ、この僧侶は破戒僧ということになってしまう。戦友の遺骨を拾って供養するという行為も、日本では理解されやすい宗教的行為だが、ビルマの上座仏教徒から見れば何の意味があるのかわからない不思議な行為に映る。(40頁)

    パガン朝時代には上座仏教が民衆レベルまで浸透していなかった。(44頁)

    アラウンパヤー王はダゴンをヤンゴン(英名ラングーン)と改称した。「敵(ヤン)が尽き果てる(ゴン)」という意味のこの新しい名称は、ビルマ民族にとって長年の宿敵だったモン人(モン民族)に最終的な勝利を収めたという認識からつけられたものである。(49頁)

    (世界恐慌後)農村は極端に貧困歌詞t。そのようななかで1930年末から32年にかけて下ビルマの複数の県を中心に発生した農民反乱は、ビルマ州政府を混乱に陥れ、インドからの応援の植民地軍を動員してやっと鎮圧が可能となる大規模なものだった。この反乱は、最初にターヤーワディ県で蜂起を組織した元僧侶の名をつけた「サヤー・サン反乱」として知られる。しかし、実際にはサヤー・サンが指導する蜂起が広範囲に展開されたわけではなく、さまざまな指導者たちが複数の県で困窮する農民を個別に糾合して広がった反乱だった。よって「下ビルマ農民大反乱」と呼ぶ方が実態に即している。(111~112頁)

    1951年のサンフランシスコ対日講和条約を西側諸国に偏った講和として参加を拒否し、日本との戦闘状態終結宣言も1952年4月まで出さない厳しい対応をとっていたが、そのような時期にあっても、日本政府によるコメの買い付けには好意的に応じた。・・・日緬賠償・経済協力協定の中身は、10年間にわたる総額2億ドルの生産物と役務(労働力)の無償供与、ならびに5000万ドルの経済協力の実施といものだった。その学は、のちに結ばれたフィリピンやインドネシアよりも少なかった。・・・日本との最初の賠償締結国となったビルマがこの額で合意したことは、その後の賠償交渉に低めの「相場」をつくることになり、結果的に日本を有利にさせ、・・・当時の日本政府にとって東南アジア諸国に対する戦後賠償は、言葉本来の意味での「賠償」(償い)ということではなく、東南アジアへの経済的復帰を図るための先行投資という思惑を有した。・・・現金で払うのではなく、生産物と労働力で「賠償」するというやり方は、実質的に日本企業の東南アジア投資を促す役割を果たした(288~291頁)

    ビルマには夫婦円満を保つ永遠不滅の全国団体「全ビルマ恐妻家連盟」(ビルマ語略称マヤカ)がある。結婚したビルマの男性は、民族・宗教・年齢を問わず、必ず例外なく入会する。嘘だと思ったら結婚しているビルマの男性に聞くとよい。笑いながら「もちろん私も会員です」と答えるはずだ。(432頁)

  • 東南アジアに位置する他民族・多言語・他宗教の国家であるビルマ(ミャンマー)について、近現代史を中心にその歴史を解説。
    結構な分量であるが、2013年時点までのビルマ(ミャンマー)の歴史のエッセンスがよくまとまっており、2021年2月に発生した国軍のクーデターの歴史的背景を知る上でも勉強になった。
    また、本書では、ビルマ人の名前には姓がないということや、ビルマのことわざ(「弟子のデキの悪さは先生の頭の悪さ」、「建ててはじめて檀家」など)などの小ネタが随所にコラムとして挿入されており、それも(知的に)面白かった。
    英国の植民地支配期や日本の占領期における「抵抗と協力のはざま」といえるビルマ人の対応が印象的だった。また、日本軍の中国への加害についてはよく取り上げられるが、日本軍のビルマの侵入と占領における加害も、あまり知られていないだけで相当なものだと感じた。
    アウンサン将軍やアウンサンスーチー氏についても、その生い立ちや思想について理解が深まった。アウンサン将軍が暗殺されなかったら、国軍独裁にはならなかったのではなかろうかとも思いを馳せた。また、アウンサンスーチー氏の「私は魔術師ではない」という言明が印象的で、アウンサンスーチー氏依存というのはビルマ(ミャンマー)の民主化における大きな宿痾であるように感じた。
    余談的内容として、ビルマ式社会主義が国民からいかに支持されていなかったかを示すアネクドートの紹介が面白かった。

  • 思ったよりもだいぶ長く深く書かれている。

    専門書になりうる濃さなのに読みやすい。

  • 旅人のミャンマー旅行記からこの国に興味を持ち購読。

    ビルマの歴史が丁寧に解説されており、現在のこの国が抱える課題を歴史的経緯から指摘している。

    また、ビルマの民主化のキーパーソンであるアウンサンスーチー氏の思想について、深く考察されており非常に勉強になった。

    次は、ロヒンギャなどビルマナショナリズムから排斥された少数民族についての本を読みたいと思う。

  • イギリス植民地とされる直前から現代までのミャンマー通史をわかりやすく記述した本。権力争いの耐えないビルマの歴史からは、人間のあり方を考えさせられる。

    ミャンマー旅行に行く前に、現地について理解を深めるために読んだ。そのおかげで、NLDの存在や、ヤンゴン大学、各所でみかけるアウンサンスーチーのカレンダーや写真から、より多くの読みとる事ができた。読んでよかった。

  • 【狭間での紆余曲折】アウンサンスーチー女史や軍制といった政治的文脈のみならず,近年は投資先としても注目を集めるミャンマー(ビルマ)。近現代を中心としてその奥深き歴史に迫る作品です。著者は,上智大学外国語学部で教授を務める根本敬。

    新書の中ではかなり分厚い部類に入ると思うのですが,それ故に比較的に深みを伴った記述がなされており,しっかりと腰を据えてミャンマーの歴史を学びたい人にはピッタリの一冊。特にナショナリズムや少数民族に関する問題の頁は,今日のミャンマー情勢を考える上でも大変に参考になりました。

    〜彼女の思想を考察してみると,アウンサンスーチーは,「強い女性」とはいえ「頑固」で「妥協知らず」な人間だとはいえない。その思想と行動の本質には,対立する存在同士を和解と相互の赦しへ向けさせようとする意思が強く働いており,それはとりもなおさず彼女の「柔軟さ」を示している。〜

    ミャンマーの人とよく会う機会があったもので☆5つ

  • タイ・ミャンマー国境地帯の難民キャンプに行く機会があったので、その前に読んでみようと買いました。物語シリーズは大学の講義みたいなので(多分、元はそうなんだけどw)サクッと振り返れられて僕は好きです(2017.6月読了)

  • ビルマの歴史は9世紀以降。残念ながら記録がないようだ。個人的にはタイとの関わり合いを知りたかったがさらっと通り過ぎてしまった。やはりいま最期の投資先として注目されるミャンマーとはどのような国なの、ビルマ民族とは、周辺民族とは、という実際的な問題に焦点を当てているため、英国占領、日本の占領、独立、軍事政権、民主化運動に紙面を割いている。それはそれとして興味深いものではあった。

  • ミャンマーといえば、高校までは『ビルマの竪琴』に描かれたお伽の国、その後はアウンサンスーチーさんを軟禁している国…くらいの認識だった。
    主に英国の植民地となって以降のミャンマー(ビルマ)近現代史。軍政の影響、教育、経済、ムスリム迫害などの人権問題…行けばミャンマーの今を、少しでも肌に感じられるだろうか?

  • ミャンマー(ビルマ)の英国占領後からの近代史が400ページにわたり解説されている。非常に明快で、いまミャンマーに住む者として、なぜ現在の状況があるのか理解が深まる一冊である。古い歴史を知るには物足りないかもしれないが、いまのミャンマーに関心があるならばぜひおすすめしたい。

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著者プロフィール

上智大学教授

「2019年 『東南アジアの歴史〔新版〕』 で使われていた紹介文から引用しています。」

根本敬の作品

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