ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書 2272)

著者 :
  • 中央公論新社
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本棚登録 : 719
感想 : 55
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  • Amazon.co.jp ・本 (286ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121022721

作品紹介・あらすじ

ナチスが権力を掌握するにあたっては、ヒトラーの演説力が大きな役割を果たした。ヒトラーの演説といえば、声を張り上げ、大きな身振りで聴衆を煽り立てるイメージが強いが、実際はどうだったのか。聴衆は演説にいつも熱狂したのか。本書では、ヒトラーの政界登場からドイツ敗戦までの二五年間、一五〇万語に及ぶ演説データを分析。レトリックや表現などの面から煽動政治家の実像を明らかにする。

感想・レビュー・書評

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  • ヒトラーの演説の名手であることがわかる
    持っていた才能と 努力の過程
    ラジオや映画など 放送メディア分野で 残した作品も 多いのだろう
    この研究成果は 日本人がしていることに驚く

  • ちょっと不謹慎な感想だが、ヒトラーの演説って一世を風靡した一発屋芸人のネタみたいなものだったんじゃないかって思えた。彼の演説パフォーマンスは大衆に大受けしたものの、政権獲得後、演説会場の熱狂的な雰囲気をラジオを通じて全国に広めようとした時期には既にドイツ国民はその演説に飽き始めていた。。ナチズムに賛同できるはずもないが、演説パフォーマンスに代わって国民を魅了するネタを作れなかったのもナチスの限界だったのではないか。それは経済発展や国際的地位の回復といったことなのかもしれないが、プロパガンダに頼りすぎると、リアルな成果を上げることは二の次になってしまうのだろう。

  • ・歴史的背景や世界情勢と共に、ヒットラーの残した演説から150万語分(速記されてたり、映像、音声で残っているもののみ)を、ナチスが与党になる前と与党になった後で分けて分析している
    ・どのような演説がされて、ヨーロッパを戦禍に巻き込んだのかが描かれていた
    ・ナチスが独裁していた頃も選挙結果だけ見れば、国民に望まれてたように見える。しかしナチスの資料には、党員ではない国民には「距離を置かれていた」又は「嫌われてた」ことが書かれていた
    ・ナチスの蛮行は全く支持できず、悪魔だと思う
    ・ヒットラーも独裁者として人間性は最悪だった
    ・しかし、演説家としてみると、群集心理学を学び、弁論術を学び、オペラ俳優から発声法・ジェスチャーの効果的な使い方等を学び、実践し問題点を改善し続け、最新技術を使いこなす、ある意味『勤勉』な姿が見える
    ・テロール教授の怪しい授業という漫画で、テロリストやカルト信者等凄く偏った考えを持つ人々が狂ってるが、一方で、合理的で最新技術に貪欲な勤勉さがあると説明されてたことを思いだした

  • でも誰もアイツを止められない、今も。コロナワクチンがいい例だよ、もはやテクニックすら不要

  • 言葉の力と政治行動との関係を計量的に取り扱った良書。タイトルから手を出しにくいが、イデオロギー抜きで隆盛がよくわかる。元データにあたると、違う角度からさらなる分析が可能であると思われる。政治家の民衆を扇動はいつの時代も変わらない。思慮深くあるべし。

  • ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書) 新書 – 2014/6/24

    2015年8月24日記述

    高田博行氏による著作。
    アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の演説データを集め分析を加えた上で
    ナチ運動期、ナチス政権の勃興から終わりまでの変化を読み解いていく。

    自分の知らないヒトラーの側面を知った思いがする。
    私たちの抱くヒトラーのイメージは当時のナチスの狙い通りのイメージのままだ。
    (ある意味ナチスのプロパガンダは優秀だったということだろう)

    飛行機をチャーターし全国を遊説しまわった選挙活動というのは凄い。
    今の時代でもある程度参考になりそうだ。
    (当時は野党でありラジオ放送を使えなかった為)
    併合や進軍の度の国民投票、住民投票。
    国民投票、住民投票したからと言って必ずしも合理的、正しい解答を導くわけではない。
    それにしてもナチスは選挙、住民投票しまくりだなと。
    似たような独裁者のスターリン、毛沢東、ポルポトは
    虐殺数こそ上かもしれない。
    ただ選挙を経て世の中に登場してきた訳ではない。
    時々日本の政治で相手を非難する際にヒトラーとなじることがある。
    いつも独裁者と言えばヒトラーにしか例えることが出来ないのかと違和感を覚えていた。
    スターリンや毛沢東、ポルポトもいるだろうと。
    しかし他の独裁者とは決定的に違うのだ。登場してきた背景が。
    (もちろん第二次大戦中でも総理大臣が絶えず交代した日本に今後も独裁者が君臨するとは思えないが・・)

    ヒトラーは演説することができたというのは間違いのない事実で才能があったのだろう。
    世間で言われるラジオがあったから熱狂が生まれたというのはある意味誤解なのだという点が意外であった。
    ラジオ放送に向かって音声を吹き込んだヒトラー演説は聴衆へ語りかけた演説とは別物だった。
    ゲッベルスも認めていたように生の演説、聴衆との一体感は大事なのだ。
    ただ敗戦近くでは失敗したラジオに向かって吹き込む演説しか放送できなくなっていた。

    それにしてもこれだけのヒトラー演説データを分析した事が凄い。
    わが闘争、ゲッベルスの日記と本書の演説データからの分析によってより当時の実態がリアルに立体的に浮かび上がってきたように思う。

  •  著者はドイツ語史が専門の言語学者で、ヒトラーの演説に使用された語彙や文の形式や話し方(声の高さなど)といった言語的特徴を、政権を取るまでのナチ運動期の前半と後半、さらに政権を取ってから、でどのような特徴がみられるのか、その有意な差はどのような事情を反映しているのかを分析しているもの。ジェスチャーの分析もある。演説に焦点を当てながら、ヒトラーに対する国民感情の変化の歴史を探る。
     コーパスを使ったりして分析をする部分は、もしかすると言語学のレポートや論文を書く時に、誰かのスピーチを題材にして真似できるかもしれない、と思った。ただこの本の面白さは正直、言葉の話の部分ではなく(実際のスピーチを映像で見たり聞いたりしながらこの本を読めばいいのだろうけど)、ヒトラーにそのようなスピーチをさせた背景を辿る部分で、これまでナチスやユダヤ人の本は何冊か読んできたけれども、思いもしなかった事実が色々あった。その大きなものは、政権を掌握してからは演説をあまりせず、国民も徐々にヒトラーの演説に飽きていったという第六章「聴衆を失った演説1939-45」の部分。つまり、自分たちが見るヒトラーの巧みな演説の映像、それに熱狂する聴衆というのは政権掌握前に終わってしまったという事実だった。「ヒトラー演説の絶頂期は、政権獲得に向けた国会選挙戦において全国五三か所で行った演説(一九三二年七月)であった」(p.26)ということらしい。むしろ戦時中の演説は「戦争終結がいつであるのか行間から読み取るという限りにおいて、国民の関心事であった」(同)ということで、政権掌握後はヒトラー演説は徐々に国民から疎まれる対象となっていったというのは意外だった。ちなみに「国民を鼓舞できた演説は、これが最後となった」(p.231)という演説は1941年1月31日らしく、「ヒトラーはこの日、珍しく気分が高揚していた」(p.230)ことによって可能になったらしい。というかこの本に描かれたヒトラーを見てみると、抑うつ傾向のある激情型という感じがするのだけれど、そういうことなのだろうか。
     あとは気になった部分のメモ。ドイツの方言の話で、「北部と中部では、単語や音節のはじめで母音を発音する際、喉を緊張させて声門を閉じてから一気に息を解放することで発音され、その結果歯切れよく聞こえる。しかし、南ドイツでは、声門が閉じられずに発音されるため、穏やかな発音の仕方に聞こえるのである。」(p.55)というのは、全然聞いたことなかった。大学でドイツ語を第二外国語でやったけど、これは結構頻度が高いことだろうから重要な特徴だと思うのだけれど。そして本題のヒトラーの演説の特徴でいくつか納得できたのは、聴衆を納得させる演説の手法の部分。例えば「『仮定表現』の多さ」(p.23)という部分で、「事柄を都合よく仮定した上で、それを出発点に議論を進める」(同)という、最初の方で仮定された、という事実を忘れさせるこの議論の展開の仕方は、確かに聞かせたい話をするには効果的かもしれない。そして、「ヒトラーの選ぶ喩えは、聴衆の理解力に合わせた無骨なもので、文は息の長い構造をしていて、その終結部はわざとらしく強調されるか、または繰り返されるかのいずれかである。あたかも変更不可能な事実であるかのように、彼の見解が独裁者の確信として聴衆に投げつけられる。聴衆は、内容としては新しくないこの福音を拍手で受け入れる」(p.60)という、当時の報告書の一歩引いた分析も、納得した。あとは、要するに演説を含めた「プロパガンダ」がこの本で分析されるテーマなのだけれど、この「プロパガンダ」というのは「情報の送り手が用意周到に情報を組織的に統制して、特定のイデオロギーが受け入れられるように、受け手に対して働きかけること」(p.66)で、「プロパガンダの最終目的は、送り手が流す情報をあたかも自発的であるかのように受け手に受け入れさせることである」(同)というのは分かりやすい。そしてこれを巧みに行うことで、「無からパンを取り出す」(p.74)という、つまり「天国を地獄と思わせることができるし、逆に、極めてみじめな生活を天国と思わせることもできる」(p.75)ということだ。そう考えると、ネガティブな文脈で語られることの多い「ネットによる価値観の多様化」とか、独裁者が生まれにくいツールとしていいのかもしれない(ただそのネットを掌握すれば簡単に独裁者が生まれそうな気もする)。あとはヒトラーに演説の仕方を教えた人物というのがいるらしく、これは『わが教え子、ヒトラー』(p.127)という映画になっているらしい。これも見てみたい。
     まとめとしては「ヒトラーの演説に力があったのは、聴衆からの信頼、聴衆との一体感があったから」(p.241)で、「演説内容と現実とが極限にまで大きく乖離し、弁論術は現実をせいぜい一瞬しか包み隠すことができない」(同)という部分が分かりやすい。そして、その一体感を奪っていったものは、もちろん現実の戦局が大きいのだけれども、メディアを駆使した故に、大衆が飽きてしまった(pp.260-1)という分析は、何とも皮肉なことだと思った。やっぱり「ここでこの時間しか聞けない」、「〇〇限定」みたいなことをやる方が、貴重さが増すというか、何冊か前に読んだ『バイアス事典』にあったように、逃すことに敏感な人間の性質に訴えることが効果的である一方、広く聞かせるために管理しなければならない、ただし管理すると反発観を覚えていくというバランスのとり方が難しいと思った。ヒトラーの演説についてと同時に、プロパガンダやネット時代のメディアについて考える本だった。(21/08/11)


  • 新書のボリュームでヒトラーの演説に焦点を当ててヒトラーを語った書籍。
    ヒトラーについて何冊か読み込んでいる読者は物足りない部分もあるかもしれないが、ヒトラーの演説と言う非常にキャッチーなテーマを取り扱ったのは初学者にとって読みやすいと思った。

  • 人を引き込む力。時代背景とそれを読み解く力。

  • 東2法経図・6F開架:B1/5/2272/K

  • ヒトラーの弁論術。
    当時、ジェスチャーや発声法に道具を含めて完成されていることがわかる。
    その巧みさともろさの歴史が読み解ける。

  • ヒトラーの演説をうちには細かすぎるくらい分析してる
    発表がうまくなりたいもんやね

  • 結局、最後に勝つのはラジオでもネットワーク配信なのでもなく、目の前にいる人間とラウドスピーカーなのであるという現実。

  • その弁舌の才で新たな道を見いだした復員兵は、その弁舌の才に磨きをかけることで自らが率いる弱小政党を比較第一党にまで導くことが出来た。そして、政治的策謀と強引な力の行使で総統となることが出来たのだが、強制的にラジオで聴かされる演説にはもはやその魅力は失われ、また、いつまでも『パン』を与えられずに『パンの夢』を語るだけでは国家指導者としては国民に支持されることはもはや難しく、自らも聴衆の前に出て演説することが出来なくなっていった。
    せっかくオペラ歌手に発声法やジェスチャーの効果的な使い方を学んでも、マイクの前で原稿を読むだけでは国民の心はもはや動かせなかったのである(もちろん、現実と演説の海里がどんどん大きくなっていったことも大きいのであろうが)
    そして、ヒトラー演説の効力が著しく落ち込んでいったにもかかわらず、ゲッベルス宣伝相の『献身』『忠誠』がひるまなかったことも驚きであるし、目の前で演説する総統に対して、マンシュタイン元帥が野次っていたことも驚きである。

  • ヒトラー演説をデータ分析し頻出するワードを追う。ヒトラーは演説力が有名だが実は政権中期から飽きられてたことも分かる。ヒトラーは20世紀の神秘とも言える面があるのでデータ分析だけでは追いつけない。

  •  ヒトラーについての本は日本でもすでに山ほどあるわけで、いまさらストレートなヒトラーの評伝など書いても、屋上屋を架すことにしかならない。
     しかし本書は、ヒトラーの演説に的を絞ってその歩みをたどるというアプローチによって、ヒトラー伝の期を画すことに成功している。
     
     ヒトラーはなぜドイツ国民の心をつかみ、合法的に独裁政権を打ち立てることができたのか? その要因はさまざまあるだろうが、見逃せない大きな要因として、ヒトラーの演説の魅力があった。
     プロパガンダの天才・ゲッベルス宣伝相による巧みな演出や、ラジオや映画という新しいメディアの力も加わって、ヒトラーは演説によってドイツ国民を熱狂させていったのだ。
     
     著者は、近現代ドイツ語史を専門とする言語学者(学習院大学教授)。つまり歴史学者ではないのだが、言語学者ならではの緻密な分析で、ヒトラー演説の内実を明かしていく。

    「ヒトラーの演説文を客観的に分析できるように、ヒトラーが四半世紀に行った演説のうち合計五五八回の演説文を機械可読化して、総語数約一五◯万語のデータを作成した」という(!)。その膨大なデータの徹底分析によって、本書は書かれているのだ。
     大変な労作であり、パソコンが普及したいまだからこそ成し得た著作ともいえる。

     著者は、「ヒトラーはジェスチャーを交えた実演がうまいという理由だけで演説家として評価を得たのではなく、その演説文のテーマ、構成、表現に関しても早期から成熟していた」と評価している。
     もともと演説の才に恵まれていたヒトラーは、そのうえ、デヴリエントというオペラ歌手から、数ヶ月にわたって発声法の訓練を受けたという。1932年のことだ。

    《ヒトラーが「演説の天才」であるためには訓練を受けていることが露呈してはいけない。そのため、デヴリエントによる訓練は秘密裏に行われた。》

     ヒトラーは、たしかに演説が得意ではあった。しかしその「天才」ぶりは、訓練や演出、テクノロジー(ラウドスピーカーなど)とメディアの発達によって、かなり嵩上げされ、粉飾されていたのだ。

     面白いのは、ヒトラー演説の力が最も発揮されたのは政権奪取までであり、独裁者となってからはドイツ国民に飽きられていった、と分析している点。

    《ヒトラー演説は、政権獲得の一年半後にはすでに、国民に飽きられ始めていたのである。ヒトラー演説は、ラジオと映画というメディアを獲得することによって、その威力は実測値としては最大になった。ところが、民衆における受容といういわば実測値においては、演説の威力は下降線を描いていったのである。》

     この分析は、著者も言うように「ヒトラー演説についてのイメージをおそらく最も大きく裏切る事実」を明かしたものであり、本書の白眉と言える。

     そして晩年になると、ヒトラーは精神的にも肉体的にも衰え、演説もボロボロの状態になっていく。独裁者の末路は、やはり惨めなものなのである。

     本書は、ヒトラー演説のレトリックや使用語の分析などが、一般書にしてはトリヴィアルにすぎる面もある。しかし、全体としては十分に面白い本だ。

  • 仮定、対比、平行、交差、メタファー、誇張。
    弁論術で扇動。

    ビアホールでの演説から始まった熱狂コントロール。

  • ヒトラーの演説を分析した良書、いくら演説が上手くても限界があるのだと知った

  • 第12回毎週ビブリオバトル

  • ヒトラーの演説を、6つの期に分けて分析。
    私たちが最もよく知るヒトラーの映像は、彼が最も勢いを持っていた時代のもの。
    その後、政権を掌握し、政情が悪化するころには、聴衆の熱気は失われ、ヒトラー自身も演説の意欲を失っていたという。

    歴史の舞台裏を見て驚愕する、一冊。

    これを、歴史書ではなく、自分の仕事(スピーチやセミナーで人を動かす仕事)にしようと思ったので、「ビジネス実務」としました。

  • 張り上げた声、大袈裟なジェスチャー。演説するヒトラーに熱狂する
    会場の人々。何故、人々はこれほどまでにヒトラーに熱狂し、支持を
    したのか。

    ヒトラーが行った節目節目の演説をつぶさに分析しているのかと思って
    購入したのだが、さにあらん。

    1919年10月のミュンヘンのビアホールで行われた初の公開演説から
    地下壕で最期を迎えるまで。ヒトラーが行った演説で使われた言葉や
    表現方法の変遷を年代順に追っている。

    思っていた内容とは違ったけれど、これはこれで興味深かった。ヒトラー
    と言えばやはりユダヤ人への弾圧を思い浮かべるのだけれど、一時期
    の演説では「平和」という言葉が多用されていたなんて知らなかった。

    元々、演説家としての天賦の才はあったのだろうな。それに磨きをかけ
    たのがオペラ歌手による指導。声の出し方、抑揚のつけ方に加えて
    効果的な身振り・手振りを教わって、聴覚ばかりか視覚までを惹きつけ
    る演説に仕上がって行った。

    しかし、熱烈なナチ支持者以外のドイツ国民は結構早い時期にヒトラーの
    演説に飽きていたっていうのも知らなかったわ。

    政権を手にしてラジオ放送を独占できるようになり、「全ドイツ国民は総統
    の演説を聞かねばならぬ」となったのが原因か。会場で響き渡る声を耳に
    し、言葉を印象付けるジェスチャーを目にしながら聞くのは状況が違う
    ものな。

    末期のヒトラーは既に得意だった演説をする気もなく、したとしても以前の
    ように人々を惹きつけることもなくなった。それどころか、将校たちを前に
    しての演説でも将校から皮肉を返される始末。

    演説は天がヒトラーに与えた才能だったのだろうな。でも、それさえも用を
    果たさなくなるのが独裁者の末路なのかも。

    膨大な言葉のデータを集め、分析した著者の根気が凄いわ。巻末にいくつ
    かの演説のドイツ語文で掲載されている。私がドイツ語を理解できれば
    もっと面白く読めたんだろうな。

    語学の才能も「ゼロ」の自分が恨めしい。

  • 2017/01/26

  • [妖惑の所以]熱狂的な身振りと扇情的な叫声、そして過激なレトリックに満ちているものと思われがちなヒトラーによる演説。国民を鼓舞し、「狂気」へと駆り立てていったとされる演説の実態はいかなるものであったかを、計量的なデータや音声や映像の記録をもとに検証した作品です。著者は、大阪外国語大学の教授などを歴任され、近現代のドイツ語史を専門とする高田博行。


    ナチスやヒトラーに関する作品は数あれど、弁論術や言語データを利用しながらここまでその本質に迫った研究は珍しいのではないでしょうか。ヒトラーの歩みに合わせたドイツの歴史を縦軸に、言語論的な情報を横軸に据えながら、ヒトラーの演説が解き明かされていく様子は圧巻の一言です。


    〜国民を鼓舞できないヒトラー演説、国民が異議を挟むヒトラー演説、そしてヒトラー自身がやる気をなくしたヒトラー演説。このようなヒトラー演説の真実が、われわれの持っているヒトラー演説のイメージと矛盾するとすれば、それはヒトラーをカリスマとして描くナチスドイツのプロパガンダに、八〇年以上も経った今なおわれわれが惑わされている証であろう。現在そして今後とも、われわれが政治家の演説を目にし耳にするときには、膨らまされた「パンの夢」に踊らされ熱狂している自分がいないかどうか、歴史に学んで冷静に判断できるわれわれでありたいと思う。〜

    着眼点の勝利☆5つ

  • 150万語に及ぶ演説原稿を書き起こし、それをコンピュータにかけて単語の出現頻度等々を定量的に分析したものを素材として、「史上最凶の煽動者」ヒトラーに迫る好著。本書の優れているのは、こういったハード面からの分析と、身ぶりや抑揚、聴衆を鼓舞する演出といったソフト面のそれの両方が、ともに高いレベルで達成されている点である。著者は言語学者だということだが、私はてっきりレトリック、あるいは宣伝の専門家だとばかり思っていた。そのくらい、その方面の指摘も鋭いのである。
    こけおどしの「魔術的」なヒトラー(および彼の演説)を、後世の私たちもまた「恐るべき」「悪魔」などとふんわりしたもの言いで大雑把にくくることが多かったが、こうして科学的に丸裸にされた彼は、尾羽うち枯らしてむしろ哀れですらある。21世紀の今、書かれるべきだった良書と言えよう。

    2016/9/15〜9/25読了

  • 時間切れ 歴史 伝記として面白い

  • ま、普通

  • 25年間150万語に及ぶ演説のデータを分析した物。
    意外だったのは政権をとってからのヒトラーは演説を面倒臭がってやらなかったということ。

  • ナチスが権力を掌握するにあたっては、ヒトラーの演説力が大きな役割を果たした。

    大衆の受容能力は非常に限定的で理解力は小さく、その分忘却力は大きい。もっとも単純な概念を1000回繰り返して初めて、大衆はその概念を記憶することができる。
    その時々の聴衆の心に話かける。
    群衆の心を動かす術を心得ている演説家は、感情に訴えるのであって、決して理情に訴えはしない。
    ヒトラーの演説に力があったのは、聴衆からの信頼、聴衆との一体感があったからであった。
    我が闘争、話される言葉の威力、マイクとラウドスピーカー、ラジオと映画、演説者のカリスマ性が刷り込まれた。

  • 帯にあるような、「何が人々を熱狂させたのか」、即ち、ヒトラー演説の技法に関する分析書として、本書を読もうとするとガッカリする。

    確かに、反復、反論を先に持ち出し反駁する先取り法、言葉の表面と意味内容とを正反対にする婉曲語法、対比法、平行法、誇張法などなど、レトリックの使い方から、発見、配列、修辞、記憶、実演、という弁論術のプロセス、序論、陳述、論証、結論、という配列方法、身振りや手振り、声の高さの分析、区分ごとの頻出語の分析などなど、ヒトラー演説の技法分析も行われてはいる。

    しかし、この書の主目的は、第二次世界大戦付近のヒトラーを中心としたドイツ史を追いつつ、ヒトラーを読み解く事にある。
    従って、演説の分析もその一要素でしかなく、その点に期待し過ぎた為に、また歴史が苦手である為に、なかなか読みづらい本であった。

    ただ、昨今の日本の政治状況(橋下や安倍)と比べてみることで、現代日本に対する様々な示唆を与えてくれ、色々と考えながら読むことは出来た。
    更には、最後まで読み解くと、アジテーターとして、最強であるかのようなイメージを持たれるヒトラー(実際、この新書の帯の文句も、「最強のアジテーター」としてのヒトラーを描いている)が実は戦中期には既に大衆の求心力を失っていた、ということが明らかになる。

    戦争に対する不満から、ヒトラーに対する不満が民衆の中に溢れていた事が分かってくる。
    そうした、固定のヒトラー像をぶち壊してくれる、という意味でこの本は有益であろう。

    そして、その読後、最強のアジテーターであったはずの、即ち、大衆を意のままに操れていたはずの、ヒトラーが戦中期には大衆をもはや操れていなかったならば、一体何が「大衆」の「気分」を操作するのか、という新たな疑問が生じる。

  •  アドルフ・ヒトラーの政治活動全期間(ナチス入党直後から大戦末期)にわたる演説とその受容の実態を、主にコーパス分析による統計と同時代の観察者の史料を用いて明らかにしている。政権獲得までは大衆の共感を掴んだ演説が、メディアを自在に駆使できるようになった政権獲得後には早々に飽きられたという指摘は、ナチス政権確立の上で、プロパガンダよりも暴力・テロが決定的な役割を果たしたとみる歴史学の通説とも矛盾しない。極端な仮定によって二者択一に誘導する誇張した対比表現や、生理的嫌悪感・憎悪を喚起する隠喩表現などヒトラーが好んだ修辞法は、現在のポピュリスト(たとえば橋下徹)と共通しており、ヒトラーの演説は現在の政治的ポピュリズムを相対化する上で、依然有効な材料であることが確認できた。

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著者プロフィール

京都市生まれ。学習院大学文学部教授。Dr. phil.(ブラウンシュヴァイク大学)、DAAD給付奨学生、フンボルト財団招聘研究員。近現代のドイツ語史、歴史語用論、歴史社会言語学。主要著作にGrammatik und Sprachwirklichkeit von 1640-1700(単著 Max Niemeyer 1998, Reprint: Walter de Gruyter 2011)、『ドイツ語が織りなす社会と文化』(共編著 関西大学出版部 2004年)、『歴史語用論入門』(共編著 大修館書店 2011年)、『言語意識と社会』(共編著 三元社 2011年)、『ドイツ語の歴史論』(共編著 ひつじ書房 2013年)、『歴史語用論の世界』(共編著 ひつじ書房 2014年)、『ヒトラー演説』(単著 中公新書 2014年)、『歴史社会言語学入門』(共編著 大修館書店 2015年)。

「2015年 『欧米社会の集団妄想とカルト症候群』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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