フランクフルト学派 -ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ (中公新書)
- 中央公論新社 (2014年10月24日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121022882
作品紹介・あらすじ
ホルクハイマー、アドルノ、ベンヤミン、フロム、マルクーゼ…。一九二三年に設立された社会研究所に結集した一群の思想家たちを「フランクフルト学派」とよぶ。彼らは反ユダヤ主義と対決し、マルクスとフロイトの思想を統合して独自の「批判理論」を構築した。その始まりからナチ台頭後のアメリカ亡命期、戦後ドイツにおける活躍を描き、第二世代ハーバーマスによる新たな展開、さらに多様な思想像の未来まで展望する。
感想・レビュー・書評
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フランクフルト学派についてのコンパクトな入門書です。
社会学研究所の設立からはじまって、フロム、ベンヤミン、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマスらの思想を概観し、さらにフランクフルト学派第三世代の仕事について簡潔な説明がなされています。
新書という形式でわかりやすくフランクフルト学派の思想を説明しようとする著者の努力は十分にうかがえるのですが、もうすこし対象やテーマを絞って解説したほうがよかったのではないかと感じてしまいました。とはいえ、容易にはその核心をとらえがたいベンヤミンや、難解なことばによって読者の表層的な理解をはばむアドルノ、あるいはパーソンズやルーマンの社会学や分析哲学との積極的な対話のなかでコミュニケーション的理性のあり方をたえず問いなおしてきたハーバーマスといった、いずれも一筋縄では理解できない思想家たちの相貌を、著者自身の観点から写し取っているという意味では、どうにか入門書の役割を果たしえているといえそうです。しかし、すでにフランクフルト学派の思想家たちに関心をもつ読者にとってはもの足りないし、フランクフルト学派についてなにも知らない読者にとってはそれぞれの思想家の解説が短すぎてかえってわかりにくいと感じられるのではないでしょうか。
あるいはいっそのこと、それぞれの思想家たちの考えたことに立ち入ることはすっぱりとあきらめて、時代状況のなかでフランクフルト学派の果たした役割に限定した解説にしたほうがよかったのではないかという気がします。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フランクフルト学派の系譜を丹念に追った一冊。その分、それぞれの説明が浅くなり難解な部分が多く、新書の器としてはハードルが高かったように思える。67
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これまでの知識を整理し、秩序立て、さらに新しい視点が得られる、新書らしいフランクフルト学派史の要約。切実さはあまりないが、理解できる楽しみ、生きることへの誠実さが本書にはある。
・すぐに手近な解決策を求める場合、私たちはその批判が見据えようとしている現実からじつは目を背けているだけなのではないでしょうか。
・ホルクハイマーはカントの構想力の主体を「社会」と名指す。カントの自律的な主体のさらに奥底、「人間の魂の深み」で働いているものこそじつは社会である。しかもその社会は、人間の解明を拒む運命的な力を発揮している。だからこそ、カントは合理的な自分の認識論の核心部分に非合理な暗がりを抱えることになった。
・『啓蒙の弁証法』:神話的な歌声に対立する言語、すなわち、過去の災いをしっかりと記憶にとどめておく可能性をそなえた語ることそのものこそは。ホメロスの脱出の法則である。・・・著者たちは、このホメロス的な「語る主体」のうちに、「物語を語る瞬間に暴力を停止させる自己省察」の能力を見とどけようとしている。
・この語り口は、神話と啓蒙を貫く陰惨な暴力を、現在と関わりのない過去の出来事として忘却に引き渡すのでは決してない。たんに忘却するためであれば、語らなければいいのだから。どんな悲惨な絶望的事態であれ、それを語るという振る舞いには、ほとんど祈りのような現実との関係がこめられています。
・いまや「秘境」ではなく、歴史の最前線における自然なもののうちにこそ、太古的な自然の痕跡が刻まれている。そのような自然をふたたび制御・支配しようとするのではなく、それと向き合うこと、そして、そこから、たんなる自然支配とは別の自然との関係を模索すること。
・エンツェンスベルガー『点字』
・ツェラン、ネリ・ザックス・・・詩人
・アドルノは哲学の立場からすべてを基礎づけようとする傲慢な姿勢を「根本哲学」と呼び、まさしくハイデガーの哲学こそがその根源哲学であると批判する。
・私たちを雁字搦めに縛っている同一化の呪縛から私たち自身を解き放つことが必要です。それは、私たちが「非同一的なもの」を、私たちの内部でも外部でも、積極的に認めることからはじまるに違いありません。わたしたちがおよそ何事かをほんとうの意味で「経験」しうるのは、非同一的なものをつうじてではないか、と考えることもできます。
・ハーバマスは論争から学んだ
・ホネット:社会運動を「承認をめぐる闘争」として哲学的に位置付ける。親子の関係から始まる「愛」、市民社会における「法(権利)」関係をつうじた承認、さらには社会的な「連帯」における承認まで含める。ヘーゲルの承認論の場合、家族と市民社会の後には「国家」がくるが、ホネットは社会的な連帯を置く。私たちは自分が社会の重要な構成員であることを積極的に認められたいと願うからだ。 -
文学的な文章が多く、フランクフルト学派を理解するという点からは、いささか期待はずれ。
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「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」というアドルノの名言。それくらいにも、ナチスドイツの怪我が痛かったと見える。
フランクフルト学派、というよりは、ハーバーマスを知りたくて読んだ。英米の分析哲学、フランスのポストモダンには、慣れ親しんできたが、ドイツはビミョーだった。ニーチェ、フッサール、ハイデガーに見られる強者の哲学には馴染みがあったが、今回のフランクフルト学派はユダヤ系、つまり、弱者の哲学であった。その存在には少し気づいてはいたが、今まで触れることもなかった。
フランクフルト学派という、梁山泊みたいなのがあって、そこに集う人たちで、もり立てていく話だなと思った。アドルノとベンヤミンが目立っていたと思うが、著者も言う通り、学派という共通理解はなかったようだから、やはり、個々の人物を見ていくべきで、この本はその入り口となるべきものだろう。 -
社会学研究所から、フロム、ベンヤミン、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマスらの思想展開がまっとまっている。フランクフルト学派とグルーピングしているものの、各々割と違いがあるようなイメージ。
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【由来】
・amazonで関連本検索してたらたまたま
【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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【目次】 -
フランクフルト学派の歩みを概観する一冊。ホルクハイマーによるフロイトとマルクスの調和の試み、またはベンヤミンによる逆風下における天使の存在は、ヘーゲルを頂点とするドイツ哲学が思索してきた社会哲学のその延長に位置しているように見える。一見そんなパラダイムを超えた問いにも感じる「なぜ人類は真の人間的状態に歩みゆく代わりに、一種の新しい野蛮状態に落ち込んでゆくのか」という難問は、むしろいまだ大きな物語としての社会哲学を前提としているために発せられる問いではないだろか。「神話はすでにして啓蒙」であり「啓蒙は神話に退化する」ということがわかっているなら、我々がとるべき行動は啓蒙や神話が暴力化していくことを防ぐというテクニカルな対処療法ではない。はなから、啓蒙や神話のあり方は幻想であり、ゆえに真の人間的状態も野蛮状態も人それぞれのパースペクティブの問題にすぎないと堂々と言えるほどの二ヒリスティックな態度にこそ、一縷の望みを見いだしえるのではないだろうか。
ですます調の新書であるため読みやすいと思いきや、重要な語句の定義付けがないままに解説が続くことがあるためため時々わかりにくい。フランクフルト学派が当時の左翼運動と異なることがたびたび主張されるが、当時の左翼運動の定義がされず、どう異なるか具体的にわからない。ベンヤミンが、ユダヤ神秘主義に傾倒したことがわかるという歴史哲学テーゼの引用文があるが、ユダヤ神秘主義の説明がないためやはりよくわからない。大変珍しいフランクフルト学派の新書であるにもかかわらず、全体的に読者おいてきぼりな感じがするので、少しもったいない。 -
フロムは知っていたけれど、それがフランクフルト学派と呼ばれる系譜であるとかいうことは知らなかった。アドルノはといえば著者の専門という程度で、ここから必然的に出てくる周辺と今に至る系譜を俯瞰的に建設的に読むことが出来る。ホルクハイマーはどういう人だったのかからベンヤミンの影響、現役のハーバマスの位置付けと課題、さらに第三世代で何が語られているのか。アドルノをどう思うかは難しいところがあると思うがうまく語られていると思う。フランクフルト学派周辺を読む場合、ピンポイントな地図として読んでよかったなと思う。