キリスト教と戦争 (中公新書 2360)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (235ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121023605

感想・レビュー・書評

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  • 世界最大の宗教であるキリスト教の信者はなぜ愛と平和を祈りつつ戦争ができるのか、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて見ていくという体裁を取っていますが、実際の内容としてはキリスト教だけに留まらず全ての人間に当てはまる事柄が議論されています。

    取り敢えずキリスト教に限った話で言えば聖書に於いて「戦争はするな」とは一言も書かれてはおらず、むしろ戦争の章は多く、また百人隊長といった軍人がイエスに認められさえするのです。さらに信仰を盾として、救いを兜として、神の言葉を剣として取りなさいと軍事的な表現で語られてもいるのです。

    そして聖書のそれら章句を読み、解釈し、議論するのは人間であり、人間には①諸悪の根源は外来的なものである②悪は常に意図的である③今は特別な時代であるという3つの戦いへと駆り立てる先入観が備わっているという心理学的にもかなり突っ込んだ部分にまで話が拡げられています。

    それらはなにも"戦争"だけの話ではなくて、全ての人間もちろん私自身の日々の生活での他人とのコミュニケーションに於ける葛藤にも当てはまるものであり、手厳しい論調で書かれてはいるものの私自身の反省点も多く見受けられてもっと冷静で優しい人間になりたいなと思わされました。

    著者による文章はややキツめの印象を受けますが、宗教だけに留まらず私たちの普段の生活レベルにまで通用する議論がされているので、一度落ち着いて自分自身を見つめなおしたいという方にも良い1冊かと思います。

  •  映画『プライベート・ライアン』に、兵士たちがロザリオに口づけして神に祈りを捧げてから銃を撃つ場面があった。我々非キリスト教徒にとっては驚かされる場面である。
     「愛と平和」を説くキリスト教を信仰しながら、なぜ戦えるのか? なぜ銃で人が撃てるのか? その理由を、キリスト教の歴史と内在論理を紐解きながら解説していく本。

     印象に残った一節を引く。

    《もし最初からすべてのキリスト教徒が「平和主義的」に振る舞っていたら、キリスト教徒は絶滅していたか、せいぜい小さいセクトであるにとどまっていたのではないかと思われる。後のキリスト教徒は、実際には、異教徒や他教徒を迫害し、戦争や植民地支配を行って勢力を拡大し、安全保障にも現実的に取り組むことで、生存し、仲間を増やしてきた。今現在も、世界中いたるところに二三億人ものキリスト教徒がいるということが、少なくとも主流の教派は、決して純粋な非暴力主義でも完全な平和主義でもなかった証拠であろう。キリスト教は真理であるから世界に広まったのだ、などと思い込んでいるとしたら、それはナイーブというよりむしろ傲慢である。》

    《二一世紀現在でも、絶対平和主義と正戦論との間ではさまざまな議論がなされている。キリスト教信仰に基づいた絶対平和主義者の声も、決して小さいわけではない。しかし、キリスト教主流派の歴史においては、やはり条件付きで戦争を肯定するのが基本的なスタイルとして引き継がれてきたのである。そうした思想は、五世紀にはすでに明らかな形で現れ、一三世紀以降はある種の権威・伝統さえ有するようになって現在にいたっているというのが、端的な事実なのである。》

     私にとっては目からウロコが落ちまくる内容だった。キリスト教に対する認識が変わる良書。
     仏教の視点から「宗教と平和」の問題を考察した松岡幹夫氏の『平和をつくる宗教』(これは名著)と、併読するとよいと思う。

  • 科学を世界の証拠とする社会に産まれた者として、信者の内面には何か、非科学を説明する理論を持っているのではと考え、キリスト教と戦争という一見矛盾を孕むタイトルからその理論への糸口を見つけたように感じた。
    結果として、やはりキリスト教の中にはそのようなものは無かった(良し悪しは置いといて)。
    共感より納得を好む性格上、不思議に思えていたのだが、現代社会を俯瞰で見ると少し分かる気がする。

    科学の言うことは絶対とし、学校の先生や研究者の言うことを疑いなく信じる科学社会と、識字率が低く聖書が読めない為、聖職者の言うことが絶対だと信じていたキリスト教社会。テクノロジーの差はあれど本質的には何か変わっているのだろうか。
    科学は絶対と教育され生きてきたが、果たして我々はその科学を説明できるのであろうか。

    AIなどによりクリエイティブの敷居が低くなっており、仕事が奪われるやら実写か生成画像なのかで盛り上がっているが、信仰の対象もこの様なノリで生成される恐れもあるのではないかと考えてしまう。

    それが良いことなのか悪いことなのかは、ちょっとよくわかんねぇや。


  • 「正しい人はいない。一人もいない。」(ローマ信徒への手紙3:10)

    「キリスト教こそ、戦争や異端審問や植民地支配で人を史上最も多く殺した最大のカルトである」
    「イエスの教えとキリスト教は無関係」
    「ザビエルは、先祖は地獄に落ちるのだったらなぜ、そんな有難い神様がもっと早く来なかったのか、との日本人の質問に答えられなかったではないか」
    「宣教師とキリシタンたちは、日本の神社仏閣を焼き払い日本人を奴隷として売り払ったではないか」
    キリスト教が批判される際に、必ずと言っていいほど言われるフレーズである。
    さらに、
    「宗教があるから戦争が起こるのだ。
    宗教というものがなくなれば戦争もなくなるはず。」
    「一神教は排他的で、多神教は寛容」
    という恐ろしいほどに単純な二元論が断罪の言葉として使われる。
    まあ、確かにそうかもしれないが、ちょっと無邪気に白黒つけるのは待ってほしいと言いたい。
    かなりナンセンスな決めつけである。
    事態は単に宗教のみでなく、さまざまな伝統や思想や情緒、利害がもっともっと複雑に絡み合っているのである。
    実際に同じ組織一つとってしても決して一枚岩ではなく、かなりの幅がある。



    例えば戦争ひとつとっても、
    「侵略」側が目的とするのは、相手の領土や物品の略奪であり、闘争そのものではない。
    戦わずにそれらを獲得できるならそれに越したことはない。
    したがって、「侵略者は常に平和を愛好する」。
    防御側の目的は、純粋に相手を撃退すること、つまり闘争に他ならないので、戦争概念は防御と共に発生する。

    フスも、ルターも、ラインホルトニーバーも、戦争を拒否しなかったし、
    ボンヘッファーはヒトラー暗殺に関わり死刑になっている。

    聖書に「殺すなかれ」がある割に、聖書の中ではやたらと異民族を虐殺する描写が多い。
    もちろん、平和の道を示している箇所もあるが、
    解釈者によって都合よく取られてしまう。

    創初期のキリスト教徒たちに中にも軍人がいたが、
    どちらかというと戦争の拒否よりもローマの偶像崇拝の拒否による殉教が多かった。

    ローマ・カトリックは、「正当防衛は重大な義務である」と、
    トマス・アクィナス以来の伝統に基づきカテキズムにも記しているが、日本のカトリック教会はそこには触れない。

    宗教の違いが争いを生むわけではない。
    むしろほとんどの場合はは平和の期間の方が長い。
    なんらかの具体的な状況が複雑に絡み合って人々に武力行使を強いる。
    宗教もまた戦争の道具となりうる。
    宗教自体が暴力の「原因」にはなり得ない。

    総じて人は「悪」を意識している時よりも「善」を意識している時の方が凶暴になり他者を傷つけることを躊躇わないものである。
    問題は愛の欠如ではなく、誰かを愛しているからこそその人にために誰かを押し退け蔑ろにしてしまう。

  • キリスト教と聞くと「隣人を愛せよ」「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言った言葉、「赦し」などを思い浮かべ、絶対平和主義的な考え方の上に成り立っている様に思える。旧約聖書にも十戒には「殺してはならない」とある。だが実際のキリスト教とは戦争も行うし、旧約聖書の中では殺戮するシーンも多く登場する。日本は太平洋戦争で国民の多くがキリスト教徒であるアメリカと戦火を交え、互いに殺し合った過去もある。一見すると矛盾している様にも思えるが、実際のところ、キリスト教の教義の中では、敵対する他者を殲滅する行為は許されている。キリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説であるカテキズムにおいても、はっきり明確に、向かってくる敵を殺害する事は構わないとされている。確かに歴史を振り返れば残虐性が際立った十字軍などは分かり易い例だろう。
    キリスト教の教典は「旧約聖書」と「新約聖書」からなるが、その中でもはっきり矛盾する様な記述もある様だが、キリスト教徒の筆者曰く、何かを宗教的に説明する際には、部分的に2つの聖書から都合の良い記述を引用するのは、ごく普通の事の様だ。
    本書はそうしたキリスト教と戦争の関わり合いを、過去の成り立ちや歴史上の重要なキリスト教の人物を挙げて分かり易く解説している。
    戦争映画にもしばしば登場する従軍神父の話や、著名な指揮官が聖書から引いた言葉で軍の指揮を上げたような逸話、キリスト教徒の中でも宗派の違いによる考え方など実にわかり易く記載されている。私などは単純に平和を愛すると言いながら戦争ばかりしているアメリカを思い浮かべて、短絡的に矛盾してるとしか考えていなかったが、本書を読むことがで、そうした戦場に赴く人々の事を理解できる気がする。
    タイトルからして興味をそそるものだが、内容は実に多岐に渡りキリスト教の知識を入れることができ、期待通りの面白さであった。

  • キリスト教なんて平和言いながら戦争しまっくてるやろ!と思っていたところに見かけたので買ってみた本。実際、キリスト教が戦争を肯定しているように読める部分もあれば、やむなく戦争した後にどう精神ケアをするのかに着目した教えもある。しかし最後まで読めば、キリスト教がどうこうなのではなく、この世を生きる人間には生きていくために拠り所が必要だということがわかる。生きる過程では他人との衝突は避けられない。そのときにどうするか、その後にどうするか。本来はただそれだけだったのだと、考えさせられた一冊でした。

  • 桃山学院大学附属図書館蔵書検索OPACへ↓
    https://indus.andrew.ac.jp/opac/book/586536

  • キリスト教と戦争の関係がよくわかった

  • 平和を訴えながらも、なぜ、戦争という究極の暴力をするのか?
    キリスト教の理念と現実の「矛盾」。信仰と軍事の親和性についての指摘を多くの事例、参考文献から解説する。

    時代、状況、地域、立場によって解釈も違い、「自分こそが正しい」と思って行動する、つまり「信仰」よりも「人間の本性」に行き着いてしまうのか。

    「宗教」と一括りにできる話題ではなく、善意が暴力を正当化してしまう現代の問題にも通じる。

  • なぜキリスト教が戦争を行うか、に対する明快な回答は得られなかった(そもそも明快な回答自体がないのかもしねれない)

    ・聖書には、戦争を肯定するとも、否定するとも読める箇所がある
    ・様々な時代で様々な解釈がなされた
    ・具体例の列挙

    という印象を受け、テーマに対する明快なロジックを私の能力では読み解くことができなかった。

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著者プロフィール

石川 明人(イシカワ アキト):1974年生まれ。北海道大学文学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。北海道大学助手、助教を経て、桃山学院大学社会学部教授。専門は宗教学・戦争論。著書に『キリスト教と日本人』(ちくま新書)、『キリスト教と戦争』(中公新書)、『すべてが武器になる』(創元社)など多数がある。

「2022年 『宗教を「信じる」とはどういうことか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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