禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄 (中公新書)

  • 中央公論新社
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レビュー : 13
  • Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121023650

作品紹介・あらすじ

悟りとは何か-。禅には「不立文字、教外別伝」、つまり、釈迦の教えは言葉では伝えられないという考え方がある。では、アメリカで禅を三〇年間教えてきた禅僧と、仏教に目覚めた詩人が「禅」について語り合うと、どのような言葉が飛び出すのか。「そもそも仏教って何ですか?」から始まった対話は、縁起や如来などの仏教用語を解剖しながら、坐禅への誤解を暴き立て…。読むと坐りたくなる、坐禅のススメ。

感想・レビュー・書評

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  • 曹洞宗の藤田一照師と詩人の伊藤比呂美さんによる仏教そして禅への入門書となる対論。
    一照師は米国で長く布教にあたってこられただけあって、詩人のナチュラルでストレートな問いかけにしっかりと応えていくので、これから門を叩こうとしている私には、絶好の後押しとなりました。

  • 伊藤比呂美の問いかけが、そこを聞いてほしかったんだよ、というツボにいちいちハマっており、その問いに藤田一照が、そういう説明の仕方があったか、といちいち感動させられるような言葉で答える。仏教の基本的なものの考え方から坐禅の実践まで、とてもわかりやすく、腑に落ちる言葉にあふれている。只管打坐の思想がやっと少しわかったような気がする。

  • 46ページ

  • 伊藤比呂美が子供のような真っ直ぐな質問するのでとても分かりやすいが、その分物足りない。

  • お経を翻訳している詩人と曹洞宗の国際センターのお坊さん。ふたりともアメリカ在住で活動している。
    そのためか、言葉遣いが新鮮で、逆に坐禅の本質に切り込んでいるようなところもあるのでは、と感じた。

    「そもそも仏教とは」から始まって大局的に坐禅の位置づけをして、坐り方や効用(?)、海外の禅の現状まで一通り目を通すことができる。

    強調されていたのは、坐禅は瞑想とは微妙に違うこと、効能が目的でないこと。
    仏教の中での位置づけは「シッダールタと同じ体験」であり、お釈迦様が寝てる時に悟っていたら坐禅ではなく寝禅だったろう、というのがわかりやすい。一切経(すべてのお経)は坐禅の脚注である、と言っている。

    坐禅には瞑想にも通じるテクニック的なこと(座り方、呼吸法)もあるが、その本質は「縁起」→すべてのものがネットワーク上につながっていること、を自然に感じること。乗馬に例えて、おしりで宇宙とつながるという例えはわかりやすい。宇宙の法則(ダルマ)と一つになる(一如)と仏になると言われる。
    自分も宇宙の一部である以上、余分なものを捨て去った(無心)ときに当然にその状態になれるはず。「自分が自分で自分を自分する」のが坐禅らしい。

    正身端坐
    →耳と肩、鼻とヘソが横から見て垂直になるように
    →完成した姿勢を作るのでなく、安定した楽な姿勢を探し続ける作業(動的)
    →動かすところは動かされるところ→体の各部は連動している
    →考えは自然に任せる(左から入ってきたら右から自然に出てゆかせる)→考え続けるのでなく、考えているな、と客観的に感じ続けることが大事。

    「耳と肩、鼻とへそ」「腕を振るのでなく、骨盤の動きによって腕が振られる」というのは、正にゴルフスウィングで言われるところ。

    坐禅はそれ自体が目的だが、習慣化することでより客観的に物事を見れるような気はする。特に固定観念に凝り固まりそうなときは、白紙に戻すきっかけとなるかもしれない。精神は安定しそう。やはり、仏教は、帰依した神を無条件で信じるホットなキリスト教やイスラム教と比べてクールだ。

    仏教においては、たとえ本人が見ようとしなかったり、無視したりしても、すべての物は「縁起」によってつながっている。その意味においては、庭に大自然をとり込んだり、弱い者を慈しむことは仏教的で視野の広さを示すことになるのかもしれない。
    俳句の季語もそんな感じで、スケールの大きさを要求したものかもしれない。
    単なる風流よりも切実な仏教的要請が当時はあったのかもしれない。
    また、禅宗の禁欲的でシンプルな思想は、貧しい者にとっては逆に好都合な美的判断基準になったところもあるかもしれない。

  •  禅入門、である以前に禅僧による仏教入門としてもそうとうわかりやすい。
     で、ちょっとした符牒だの専門用語が出てくるたびに話を止めて確認する伊藤比呂美さんが非常に読者にとって頼もしい存在に思えてくる。

     座禅は「本当の自分探し」だの「潜在意識の覚醒」だののためにあるんじゃなくて、ただそこに座っていることで身のまわりとのつながりを確認し己を調えるものなのだ、という辺りが本書の肝で、修行は苦しいものでも特別なものでもない、というところにこの先の未来での布教のヒントがあるのではないかしらん。

     とまれ、仏教とはナニか、を説明するために手元に置いといてもいい本なんじゃないかしら。

  • 2016年4月新着

  • 曹洞宗の僧侶で、国際化にも取り組む、藤田氏と、詩人で、仏教にも詳しく、経典や説法の現代語訳にも取り組む伊藤さんの対談本。
    釈迦とかかずにシッダールタと、書くあたりがマニアック。
    でも、関節をどう持って行って座るのかなど、わかりやすい説明で、禅と坐禅がよくわかる本。


    禅問答の臨済宗、只管打坐の曹洞宗。ほかに黄檗宗。
    禅問答、公案やってはいけない、、やらなくてもいけない。さあどうする?
    曹洞宗は壁に向かって、坐禅。

    瞑想には煩悩を払うとか、、集中するとか人間的な目的がある。人間を閉店休業にするのが、坐禅。

    坐禅している時のワープ感。40分が10分に感じた。

    フラフープとかバランスボール使って坐禅を体感。

    足の指、足首、膝、股関節、下の方から丁寧に関節を回して、体に許されながらやっている感覚。

    痒い時、痛い時、我慢するんでなくて、しばらく一緒にいる練習。

    マインドフルネスが流行っているが、坐禅はそれとは違う。自律神経のバランスが整うだとかを求めること、坐禅にそれをもちこむのは坐禅から最も遠い態度。

    仏教を学ぶではなく、仏教をする。


    目次
    序章 そもそも禅ってなんですか?
    第1章 私の坐禅は正しい坐禅?
    第2章 正しく坐るのも一苦労?
    第3章 坐禅の効用って?
    第4章 日本の禅、海外のZEN
    終章 今夜、坐禅をする前に

  • 座禅をして瞑想をすると思っていた。
    瞑想は自律神経を整えるだとか個人レベルでの改善プロジェクトで、また呼吸を観察していくことでより集中できる。しかし座禅というものはそういう自分のための効用をアテにしてやるものではない。また座禅では呼吸を特別扱いしていない、なぜなら呼吸に注目するというのは「注目しやすい」という人間の都合であるから。座禅というのは様々な感覚から入ってくる情報に自分をさらしている状態だ。ただ座ること。座禅というのは身で座る、心で座る、心身で座る、心身脱落で座るということだ。
    だからマインドフルネス=座禅というのも違う。座禅でも結果的に自律神経のバランスは整うけどそれに特化してやるとそれはもはや座禅ではないのだ。
    座っていると、足が攣りそうになったりだるくなったりまたその他の身体に起こること、また色んな考え・思いが浮かんでくる。でもそれを消そうとしない、追い払うこともしない。実はそれってなかなか難しいこと。
    でもすごく興味ある。

  • 仏教の内側にいる禅僧と全く関係なく外側にいる人間との歯に衣をきせない対談はエキサイトかつ面白い。

    坐禅のこと、仏教のこと、今までわからなかったことがかなり明確になりました。

    マインドフルネス(瞑想)と坐禅の違いも興味深かった。

    禅の世界は本来「不立文字」であり言葉で伝えられるものではない。

    しかし禅僧の藤田一照さんはアメリカで長年英語を使って坐禅を指導しているので思考を言語化することが非常に上手で読んでいても「わかりやすい!」と思うことが多かったです。

    良書です。

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著者プロフィール

1954年、愛媛県生まれ。東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。82年、博士課程を中退し禅道場に入山、翌年得度。87年、渡米し現地で坐禅を指導する。2005年帰国。国内はもとより、Starbucks、Facebookなど、アメリカの大手企業でも坐禅指導を行う。17年5月より、オンライン禅コミュニティ「大空山磨せん寺(たいくうざんませんじ)」開創。著書に『現代坐禅講義』(佼成出版社)、共著に『アップデートする仏教』(幻冬舎新書)、『<仏教3.0>を哲学する』(春秋社)など。

「2018年 『感じて、ゆるす仏教』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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