作品紹介・あらすじ
悟りとは何か-。禅には「不立文字、教外別伝」、つまり、釈迦の教えは言葉では伝えられないという考え方がある。では、アメリカで禅を三〇年間教えてきた禅僧と、仏教に目覚めた詩人が「禅」について語り合うと、どのような言葉が飛び出すのか。「そもそも仏教って何ですか?」から始まった対話は、縁起や如来などの仏教用語を解剖しながら、坐禅への誤解を暴き立て…。読むと坐りたくなる、坐禅のススメ。
感想・レビュー・書評
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仏教の教えも交えながら、座禅が生まれた背景や瞑想との違いをなるべくわかりやすく解説している本。普段から瞑想をしているが、仏教的な理解をしているのとしていないのとでは、得られるものも変わってきそうだと思った。
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曹洞宗の藤田一照師と詩人の伊藤比呂美さんによる仏教そして禅への入門書となる対論。
一照師は米国で長く布教にあたってこられただけあって、詩人のナチュラルでストレートな問いかけにしっかりと応えていくので、これから門を叩こうとしている私には、絶好の後押しとなりました。
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伊藤比呂美の問いかけが、そこを聞いてほしかったんだよ、というツボにいちいちハマっており、その問いに藤田一照が、そういう説明の仕方があったか、といちいち感動させられるような言葉で答える。仏教の基本的なものの考え方から坐禅の実践まで、とてもわかりやすく、腑に落ちる言葉にあふれている。只管打坐の思想がやっと少しわかったような気がする。
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対話という事もあり、噛み砕いた言葉でスッと頭に入りやすい。
一照さんの言葉はほんと分かりやすくて、比呂美さんのストレートな質問も小気味良くて。
ずーっと入っていきたいと思ってた仏教の世界への入り口をようやく見つけた感じ。
ここから世界を広げていきたい、
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世を捨てて 山にいる人 山にても
なほ憂きときは いづちいくらん
(古今和歌集 巻18、凡河内躬恒)
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伊藤比呂美が子供のような真っ直ぐな質問するのでとても分かりやすいが、その分物足りない。
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お経を翻訳している詩人と曹洞宗の国際センターのお坊さん。ふたりともアメリカ在住で活動している。
そのためか、言葉遣いが新鮮で、逆に坐禅の本質に切り込んでいるようなところもあるのでは、と感じた。
「そもそも仏教とは」から始まって大局的に坐禅の位置づけをして、坐り方や効用(?)、海外の禅の現状まで一通り目を通すことができる。
強調されていたのは、坐禅は瞑想とは微妙に違うこと、効能が目的でないこと。
仏教の中での位置づけは「シッダールタと同じ体験」であり、お釈迦様が寝てる時に悟っていたら坐禅ではなく寝禅だったろう、というのがわかりやすい。一切経(すべてのお経)は坐禅の脚注である、と言っている。
坐禅には瞑想にも通じるテクニック的なこと(座り方、呼吸法)もあるが、その本質は「縁起」→すべてのものがネットワーク上につながっていること、を自然に感じること。乗馬に例えて、おしりで宇宙とつながるという例えはわかりやすい。宇宙の法則(ダルマ)と一つになる(一如)と仏になると言われる。
自分も宇宙の一部である以上、余分なものを捨て去った(無心)ときに当然にその状態になれるはず。「自分が自分で自分を自分する」のが坐禅らしい。
正身端坐
→耳と肩、鼻とヘソが横から見て垂直になるように
→完成した姿勢を作るのでなく、安定した楽な姿勢を探し続ける作業(動的)
→動かすところは動かされるところ→体の各部は連動している
→考えは自然に任せる(左から入ってきたら右から自然に出てゆかせる)→考え続けるのでなく、考えているな、と客観的に感じ続けることが大事。
「耳と肩、鼻とへそ」「腕を振るのでなく、骨盤の動きによって腕が振られる」というのは、正にゴルフスウィングで言われるところ。
坐禅はそれ自体が目的だが、習慣化することでより客観的に物事を見れるような気はする。特に固定観念に凝り固まりそうなときは、白紙に戻すきっかけとなるかもしれない。精神は安定しそう。やはり、仏教は、帰依した神を無条件で信じるホットなキリスト教やイスラム教と比べてクールだ。
仏教においては、たとえ本人が見ようとしなかったり、無視したりしても、すべての物は「縁起」によってつながっている。その意味においては、庭に大自然をとり込んだり、弱い者を慈しむことは仏教的で視野の広さを示すことになるのかもしれない。
俳句の季語もそんな感じで、スケールの大きさを要求したものかもしれない。
単なる風流よりも切実な仏教的要請が当時はあったのかもしれない。
また、禅宗の禁欲的でシンプルな思想は、貧しい者にとっては逆に好都合な美的判断基準になったところもあるかもしれない。
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禅入門、である以前に禅僧による仏教入門としてもそうとうわかりやすい。
で、ちょっとした符牒だの専門用語が出てくるたびに話を止めて確認する伊藤比呂美さんが非常に読者にとって頼もしい存在に思えてくる。
座禅は「本当の自分探し」だの「潜在意識の覚醒」だののためにあるんじゃなくて、ただそこに座っていることで身のまわりとのつながりを確認し己を調えるものなのだ、という辺りが本書の肝で、修行は苦しいものでも特別なものでもない、というところにこの先の未来での布教のヒントがあるのではないかしらん。
とまれ、仏教とはナニか、を説明するために手元に置いといてもいい本なんじゃないかしら。
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著者プロフィール
1954年愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科教育心理学専攻博士課程を中途退学し、
紫竹林安泰寺にて曹洞宗僧侶となる。1987年よりアメリカ合衆国マサチューセッツ州西部に
あるパイオニア・ヴァレー禅堂に住持として渡米、近隣の大学や仏教瞑想センターでも禅の
講義や坐禅指導を行なう。2005年に帰国。神奈川県三浦郡葉山町にて独自の実験的坐禅会を
主宰。2010年よりサンフランシスコにある曹洞宗国際センター所長として日本と海外を往還
している。
「2017年 『退歩のススメ 失われた身体観を取り戻す』 で使われていた紹介文から引用しています。」
藤田一照の作品