応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121024015

感想・レビュー・書評

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  • 「東軍と西軍に分かれた大名たちが繰り広げる大乱世!」

     いや~乱世乱世。
     このグダグダっぷりはヒドい。
     元は興福寺の大乗院、一条院が仲が悪く、それぞれ小豪族がバックに着き、小大名から大名までが小競り合い。
     弱いくせに「俺のバックは幕府なんだぞ!」とちょっかい出してはボコボコにされ、幕府が調停しても同じことの繰り返し。

     そして畠山の内部分裂で当事者同士の直接対決で決着を決めようとしたのに、山名が加勢して細川マジ切れで大乱勃発。
     幕府をバックにした細川の東軍が圧倒的有利かと思えば、将軍の弟をネオ幕府とか言って担ぎ上げた西軍に大内の加勢が加わり長期戦へ。

     以降、俺たち何のために戦ってんの?状態が続くも、最下層民の足軽さんたちは勝手に暴れて略奪し放題なので京都の荒廃がどんどん進む。
     
     元々そんなに仲が悪くない山名と細川は本当は戦なんてやりたくなかったのに、なんかグダグダで内乱が勃発してしまった。
     とても日本人らしい。
     派閥を作って社内闘争勃発って、古今東西どこの国でも今の世でもある話。

     あぁ、諸行無常。

  • 学生時以来、日本史が苦手で予備知識ほぼゼロの私のような者が手を出しても、読み終える頃には多少は「応仁の乱」について語れるようになっているような、それくらい丁寧に、噛んで含めるように解説してくれている一冊。

    「応仁の乱」がわかりづらい最大の理由は似たような名前の登場人物がやたら多くて(そもそも論な気もするが)、各地でひたすらダラダラと競り合いをしているから。

    一周読み終わるまでに10日くらいかかったが、地図と照らし合わせつつ順を追って読み解いていけば決して理解できないものではない…と思う。

    とりあえず、足利義政という男はいっそ潔い程の日和見主義者。
    細川・山名の争い、斯波氏の後継争い、将軍家の跡目争い、それぞれを理解することが大切。

    それにしても乱の真っ最中に風呂とそうめんを楽しんだ古市胤栄という人に一番興味が湧いてしまった。


    3刷
    2021.7.4

  • 京都や奈良(特に京都が顕著)のお寺をめぐっていると、「室町時代に戦乱で失われ…」とか「応仁の乱で焼けて」という説明に出会うことがそこそこあります。京都や奈良周辺での貴重な文化財の多くを短い時代で一気に焼失させてしまった応仁の乱、あれがなければもっとたくさん素敵な仏像が残っていただろうに…と以前から思ってはいたのですが、乱そのものについては教科書で習ったレベルしか知らなかったので、読んでみました。

    この本は、2016年の出版当時、面白いと評判になり、書店で平積みになっていたのをよく見かけました。「応仁の乱」という戦乱の名称、細川氏と山名氏が関わっていたらしいということ、京都が焼け野原になるくらいの大きな戦乱だったこと…くらいは誰でも知っているけれど、なぜ始まってどう終わったのかがよく分からない。そこに焦点を当てて歴史上の大きな転換点として分析されていたことが新鮮だった、ということのようです。

    奈良の興福寺に関わる幹部僧侶2人が残した日記の記述を軸にして、応仁の乱がどのような課程を経て混迷を極めていったのかが記されています。京都からほど近い奈良で、広大な領地と勢力を持っていたであろう当時の興福寺は、寺の領地の支配や収税権に影響するのかという意味で巻き込まれる立場でもあり、時には大名たちの避難場所にも戦場にもなるということで、他人事のような自分ごとのような、微妙な立ち位置にあったようです。

    著者によると、応仁の乱は、きっかけそのものは2つの家での利害対立からだったかもしれないけれど、各陣営が他の大名を自陣に引き込んで当事者が増えたことで、戦争の獲得目標が膨れ上がった(参加・援護する以上、各大名それぞれが成果を求めるから)、それがゆえに戦いが長期化し、被害も増大、そうなるとますます”戦争で払った犠牲に見合う成果”を求めてさらに長期化する…という悪循環になってしまった、ということだそうです。

    将軍家、大名の家々それぞれでの勢力争い・跡目争いが入り乱れるので、登場人物が多すぎる、さらにみんな似たような名前である(親だの兄弟だの親戚だの…一字違いだったりしますから)、そのうえ一人の人物でも時代時代で改名してる人もいる…そんな事情もあり、ものすごい数の人の名前が登場し、読んでいる私は常に大混乱。一人ずつの人物理解は早々に諦め、どこかの時点からは、「東の人」「西の人」くらいに読み替えて読み進めてしまいました(当然ながら寝返る人もいるのでまたややこしい)。
    というわけで、本の内容・詳細を隅々まできちんと理解できたかどうかは甚だ心もとない。ただ、”優柔不断なリーダーの下で混乱した時代だった”、というような単純なものでもなく、いろいろな人が何とか生き延びようと考えながら動き回ったらしいことがなんだか見えてきて、ぼんやりしていた「応仁の乱」がリアルなものとしてイメージできたような気がしました。

    また、日本史の流れで見ると、応仁の乱の前までは、幕府の指示で多くの大名が京都に住まいを構え、それがゆえに武士の文化への関心が広がったり、地方への京都文化の展開があったようですが、乱の後は、ほとんどの大名がそれぞれの国に戻り、その地方での支配も幕府が保証するのではなく実力で確保していく、地方の時代が始まったという点でも大きな転換点になった、ということのようです。

    さらには、応仁の乱は「京都で起きた騒乱」と勝手に思い込んでいましたが、実は奈良や大阪(河内)エリアでもかなり重要なプレーヤーが活躍(暗躍?)していた模様。徒歩や馬で移動する時代だったろうに、畿内エリアを結構縦横無尽に行き来(攻めたり攻められたりも含めて)していた様子が分かったのも興味深かったです。

  •  応仁の乱。室町幕府の形骸化そして戦国時代がここから始まる・・・と歴史の授業では習う。京都の人は、先の戦さ、というと、太平洋戦争ではなく応仁の乱のことを指すらしい。。。

     ということを、日本人の多くは知っている。じゃあ、実際にはどんなことがあったのだろうか?そもそも、東軍と西軍、どっちが勝ったのだろうか?

     大和国を支配する興福寺や土豪たちの内部抗争から、大和守護畠山家内の家督争いに発展する。そして時の将軍義政、次期将軍候補で弟の義視、管領細川勝元、勝元の舅・山名宗全たちの派遣争いへ。権力者たちの思惑が各地の守護や守護代たちを巻き込み、越前、播磨での紛争にも発展する。その後は京での疱瘡流行をきっかけに、補給路を確保した東軍が有利に傾く。山名宗全・細川勝元の死を経て、最終的には1477年、東軍が勝利する。。。

     乱の後も幕府内の争いは続く。将軍職は足利義政の子、義尚→若くして死後に義視の子、義材へと引き継がれる。そして1492年、日野富子らは明応の政変で、堀越公方足利政知の子を義澄をして将軍に擁立。こののち義材側と義澄側、2つの将軍系統の覇権争いとなり、戦国時代が本格的に幕開けをする・・・

     というのが流れのようだ。きっかけと終わりがわかりにくく、人の流れが複雑なので、時系列ごとに図示しなければ理解が難しい。そして、応仁の乱にとどまらず、明応の政変まで記載することで、後の戦国時代への流れをつかむことができる。そして、応仁の乱のことをよく知らなかった理由もわかった。

     惹きつけるものが少なく、地味なんだわ。始まりは奈良県内そして大阪府東部の小競り合い。当事者の思考は自分の領地や肩書を保持すること、魅力的かつ革新的な人物も不在。大将たちが死んでも終わることなくズルズルと続く。そして何が変わった?何も変わっていない。

     ということを、丹念に読んでいけば理解ができる、良書であった。 

  • 英雄も目覚ましいリーダーも登場せず、状況を決定するほどの戦闘もなく、利害関係が複雑にからみ、それを調整することも出来ず、ひたすら分かりにくく長期化して、燻り続けて戦国へ……。という印象でした。
    関係人物が多く、戦乱の長期化で代替わりもあり、同じ一族内で似た名前の人物が争っていたりするので、私の頭では付いていけずに一度挫折しました。
    慣れるまではメモをとりながら読んで、リベンジ達成です。

  • 応仁の乱の登場人物、時代背景、戦乱が起こるまでの経緯などを丁寧に解説する学術書。昔教科書で習ったような足利義政・義尚と義視の家督を巡る争いに、東西両軍が肩入れして乱が拡大したような単純な図式ではなく、3つの政治勢力のせめぎあいが根本にあることが分かった。
    著者はあとがきで第一次世界大戦を例に挙げているが、当事者の利害関係が複雑に絡む場合、戦闘の目的は曖昧になり長期化するのは避けられないのではないか。

  • 応仁の乱の新しい解釈と言われても、現在の通説自体をよく解っていないので、正直、どこが新しい解釈かはつきりと理解は出来ていないと思う。登場人物を把握するには、自分で図でも作らないと無理。

  • だめだ、途中から誰が誰だか区別付かなくなってしまった。

  • 歴史書としては異例のヒットとなった『応仁の乱』。新進気鋭の中世史学者である著者が、『経覚私要鈔』『大乗院寺社雑事記』という2人の興福寺僧(前者が経覚、後者が尋尊)の日記をベースに、「試行錯誤を重ねがら懸命に生きた人々の姿をありのままに描き、同時代人の視点で応仁の乱を読み解」いている。
    「階級闘争史観」のような先入観なしに、応仁の乱を一次史料を駆使してありのままに描くという点で、本書は優れた歴史書であると思ったが、正直、なぜここまで売れたのかというのはよくわからなかった。売り方が良かったという面と売れたから(より)売れたという面はあったのだろう。
    正直、登場人物が多すぎて、内容を把握するのがたいへんだった。応仁の乱が、様々な人を巻き込んでだらだらと続いた大乱であったことはよくわかった。第1次世界大戦と似た構図を持っているという著者の見立ては理解できる。
    当事者たちはそれなりに「出口戦略」を考えており、終戦に向けて様々な努力や工夫をしていたが、各々の当事者が「損切」に踏み切れず、コミュニケーション不足やタイミングのずれによって、終戦工作は失敗を重ね、戦争は無意味に続いたという著者の指摘は、確かに現代にとっても大きな教訓となると感じた。
    登場人物の全体像を掴み切ることはできなかったが、本書の「主人公」としての経覚と尋尊の2人については、記述が厚かったこともあり、両者の個性をだいぶ掴むことができた。対照的な性格の2人だが、特にしたたかな尋尊に興味を覚えた。

  • 石原莞爾のいう最終戦争を、まったく机上の空論と断ずることはできない
    事実、関が原から大阪夏の陣までの一連の戦いを経て
    関白の推薦権を幕府が握ったことにより
    長い平和と安定が、日本列島にもたらされるのだから
    しかしそこに到るまでの戦乱の歴史は、まさに酸鼻を極めるものだった
    源平合戦、南北朝と、全国規模の総力戦が繰り返されたが
    人々はそれに飽かず、続いて戦国時代の幕を開けた
    その端緒として知られるのが、応仁の乱である
    それは当初、将軍の権勢に生じた小さな綻びにすぎなかった
    しかし対立する部下たちになあなあの態度しかとれない将軍家の無力が
    そこからどんどん露呈していくものでもあった
    なぜそんなことになったのか
    元をただせば無力だからこそ
    大名どうしを争わせて直接の反乱を抑えたい将軍家の意向だったのだ
    そういう、いわば体制維持の必要悪に
    歯止めが効かなくなって生じた大乱だった

    ただし、その長期化・泥沼化の根本原因には
    軽装歩兵「足軽」の誕生が無視できない
    足軽になったのは食い詰めた牢人や、いわゆる悪党たちであり
    その主な仕事は補給の遮断にテロ活動
    すなわち略奪行為、下手をすると独立ゲリラと言ってよいものだった
    戦争を口実に、諸大名が承認を与えるのだから連中にはこたえられない
    乱も終盤になると
    戦を終わらせぬよう無用の混乱を作り続けたのは
    現場の足軽たちではなかったか?

    その時代、奈良の興福寺は仏教の求心力でもって
    安定した統治に寄与していたが
    戦の激化から、その影響力はやはり衰えていた
    寺の生き残りをはかる経覚は武士に接近し
    結果として、尋尊が尻拭いをさせられた
    ふたりの動静から応仁の乱を読み解こうとする試みが
    成功したと言えるかどうかはよくわからんが
    階級闘争史観によって語られがちだったという戦後歴史学に
    一石を投じようという著者の意図は汲み取れる

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著者プロフィール

国際日本文化研究センター助教
著書・論文:『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中央公論新社、2016年)、「永享九年の『大乱』 関東永享の乱の始期をめぐって」(植田真平編『足利持氏』シリーズ・中世関東武士の研究第二〇巻、戎光祥出版、2016年、初出2013年)、「足利安王・春王の日光山逃避伝説の生成過程」(倉本一宏編『説話研究を拓く 説話文学と歴史史料の間に』思文閣出版、2019年)など。

「2019年 『平和の世は来るか 太平記』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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