藤原氏―権力中枢の一族 (中公新書)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121024640

作品紹介・あらすじ

「大化改新」で功績を残したとされる鎌足に始まる藤原氏。律令国家を完成させた不比等から四家の分立、ミウチ関係を梃子に天皇家と一体化した摂関時代まで権力中枢を占めつづける。中世の武家社会を迎えても五摂家はじめ諸家は枢要な地位を占め、その末裔は近代以降も活躍した。本書は古代国家の成立過程から院政期、そして中世に至る藤原氏千年の動きをたどる。権力をいかにして掴み、後世まで伝えていったかを描く。

感想・レビュー・書評

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  • 藤原鎌足から藤原頼道まで詳細に記載し、中世以降も要所要所述べており、一冊読むと藤原氏の流れがよくわかります。読んでいて思うのは、藤原氏がどれだけ日本の歴史に影響及ぼしている一族だったかということ。絶頂期には外祖父、摂政として天皇をも凌ぐ影響力を持っていました。ただそれでも天皇の代わりにはなれませんでした。それを物語るのが藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)です。天皇に対し反乱を起こすも呆気なく負けます。その当時貴族としては圧倒的な権力を持っていた藤原仲麻呂が、天皇を前にするとどうしようもなく南家が衰退するまで後世に影響を与えた出来事は、その後の藤原氏に多大な影響を与え、天皇に逆らうのではなく外戚関係を築くことで天皇を取り込む方向へ進んでいきます。藤原氏と聞くとやはり平安時代を思い浮かべてしまいますが、中世以降も摂関家として貴族の中心ではあり続け、武士としても足利氏など輩出し歴史の主役であり続けた一族と言えるでしょう。近年ですと昭和初期の総理近衛文麿や平成の総理細川護熙も藤原氏にルーツがあります。また藤原氏族は果てしなく裾野を広げており『藤原氏族一覧』には3452の苗字が記載されてるそうです。私自身、苗字に『藤』が付くのでもしかしたら先祖を辿ると藤原氏に行きつかないかなと思いを馳せてしまいます。

  • 鎌足の創始から武家の時代まで、日本の政権の中枢に関わり続けた藤原氏。
    時間の広がりと、空間的な広がりの中で一族の盛衰を追うのは大変なことだろう、と素人でも想像がつく。
    とはいえ…正直、自分はこの本の真価があまりよく理解できていないに違いない。

    膨大な人の羅列。
    簡潔な説明が添えてあるのだが、あまりにも人が多すぎて、今何が問題なのか、だから何か、見失ってしまうことがしばしばあった。
    この調子なので、読み終わるまでかなり時間がかかったし、率直に言えば苦痛でもあった。
    あのベストセラーになった『応仁の乱』でもかなり苦しんだことを思い合わせると、自分には歴史学者の方の地道な文章を読みこなす力がないようだ。
    多少知っている平安中期以降は、幾分読みやすくなったことを考えると、やはり絶対的な予備知識不足が原因だと思うけれど。

    五摂家と家格、家業など、中世以降の話は、今回しっかり理解が整理できた気がする。

  • 藤原家の1500年近い歴史を、乙巳の変で歴史の表舞台に登場した中臣鎌足から順に辿り、その膨大な家系を丁寧に追いかけている。

    鎌足は乙巳の変から大化の改新、その後の天智天皇の治世にいたる政治を天皇家の右腕として支え、その「功業」によって天皇家とゆるぎない関係を築いたが、それだけであれば歴史の一時期に権勢をふるう有力豪族として終わっていた可能性もあったと思う。

    しかし、その後の不比等から四家(北家、南家、式家、京家)の時代に至る中で天皇家の姻戚関係を続けるとともに、律令国家における官制と鎌足以来の功臣が特権的な地位を与えられる蔭位制とを巧みに一体化させたことによって、その後の平安時代まで続く地位を確実なものにしたのだということが、本書を読んでよく分かった。

    この仕組みは、平安期に入って摂関政治という形にさらに発展し、有名な藤原北家の栄華に繋がっていく。

    本書を読んでもう一つ認識を新たにしたのは、藤原氏の中の権力闘争の複雑さである。藤原氏は四家の間での勢力争いが平安期に北家の勝利に終わった後にも、北家の中でどの系統が摂関家として権力を握っていくかという争いがあった。

    この争いは天皇家の系統とも複雑に関わり合いながら平安期を通じてくり返されており、中央に残る藤原氏とその流れから外れて地方で力を握る一族に分かれるなど様々な展開を見せている。

    中央の律令体制における高官の地位は限られており、ましてや摂関家は藤原氏の中でも一握りの一門でしかない。藤原氏といえども厳しい生存競争があり、特に貴族の特徴である系統と天皇家との姻戚関係によるふるい分けが非常に大きな意味を持っていた様子がわかる。

    世界的に見ても、王家とそれを支える外戚の関係性がこれだけ長い期間続いた例は珍しいのではないかと思う。

    このような持続的な権威の体制が続いてきたということは、日本の文化や国家観にも、バックグラウンドとして影響を与えていると思うし、そういった意味でも、藤原氏の存在は日本の歴史や文化を語るうえでは重要なものであるということを改めて感じることが出来た。

  • 藤原氏という古代から中世にかけて日本の中心にいた一族。中臣鎌足の話はあまりにも有名ですが、そこから始まる藤原氏のことについてははっきりとした一本として把握できていませんでした。日本史の中ではところどころにその名前が出てくるので、政治組織には絶えることなく続いていたのだとはわかるのですが、その実態はあまりにも広大で良く分かっていませんでした。
    鎌足の子供の不比等があり、そこから四家が起こり、平安時代に道長などが栄華を誇り、その後武士の世の中になり、近衛家、九条家に別れ、さらに五摂家になり・・・という日本史にところどころ顔を出す藤原氏。その間を埋める、藤原氏の流れを、本書を読むことで把握でき、少しすっきりとしました。
    ただ、読んでも読まなくても分かることですが、藤原氏は広大に膨らんでおり、とても全体を把握しきることは不可能です。できるだけそれに挑戦しようとしたところに、本書の価値はあると思うのですが、同時に読むものに忍耐を強いるものでもあると思います。日本史の古代と中世についてあらかじめ勉強しておかなければ付いて行きにくい、前提として知っているはずで勧めてくる部分もあります。中級者向けと言えるものではないでしょうか。

  • 正直に言えば、恐ろしくつまらない本。めりはりもなく、ただただ藤原氏の系譜を紹介しているだけ。
    学術的には価値があるだろうし、参照文献も細かく紹介されていて、ああ、あの人の研究分野だったのね、とわかる。
    とはいえ、最後まで読み終えて特に感想のわかない本。わかるのは藤原氏っていうのが日本の権力の周りにずっとくっついていたのね、ということ。その粘りについてはよくわかる。

  • 副題は「権力中枢の一族」。
    藤原家が日本の権力の中枢にいたことは疑いがない。
    藤原家の始祖、鎌足と天智天皇の二人三脚から、鎌足の息子 不比等と持統天皇の二人三脚。
    梅原猛と上山春平が注目するまで、不比等の存在はそれほど大きなものとは思われていなかった。
    しかし、二人の業績により、現在、藤原家1300年の礎を築いたのが、素性もあまり明らかではない不比等であることが明らかとなった。
    徳川幕府が260年だから、日本史上、天皇家に次ぐ長期繁栄を誇った一族だと言える。
    そして、不比等が「日本書紀」と「大宝律令」の主導者だとすると、日本と言う国家の礎を築いたのも不比等だと言うことになる。
    そして、日本書紀が天皇制のイデオロギーを確立したことを考えると、天皇制の礎を作ったのも不比等だっと言える。
    (不比等は日本書紀を完成させた年に死んでいる)
    恐るべき男だ。

    不比等が持統天皇に認められたのは、持統天皇が皇位継承を望んだ「息子草壁皇子(皇位継承前に死んでしまう)—>孫 文武天皇」という皇位継承をやり通した事だ。
    それを正当化させるイデオロギー確立の企てが「日本書紀」の編集だった。
    その難しい皇位継承を、呪術的にサポートしたのが柿本人麻呂だった。
    こうして、また読書は止まるところを知らず、白川静の「初期万葉論」の白眉、阿騎野冬猟歌の分析をまたしても読んでしまうことになる。

    不比等の四人の息子たちが藤原四家を作るが、その内の北家から道長が出て、全盛を迎える。
    藤原氏の絶頂はこの時だが、藤原氏はその後も連綿として権力の中枢に居続けていたことが本書によって分かる。
    藤原氏は摂関家として朝廷権力の中枢で政治を担い続けたのだ。
    その権力維持の戦略は、ハプスプルク家と同じ「DNA戦略」だ。
    天皇家に、一族の女性を送り込み、藤原氏の「DNA」を持った皇子を設けさせ、それを天皇にする。一番力を持つのは、天皇ではなく、天皇の母、でもなく、天皇を産んだ藤原家の娘の父親(外戚)だ。
    「ジージ戦略」と言っても良い。
    道長の娘彰子は一条天皇に嫁いだときまだ幼かった。
    一条天皇にはその時、年上の姉さん女房(中宮)がいた。
    道長の兄である道隆の娘 定子だ。
    定子のサロンには、才女 清少納言がいて、華やかな雰囲気を作り出していた。
    一条天皇の足が、定子のサロンに向かうことはやむを得ない。
    道長は、その対抗策として、宮廷の大ベストセラーを執筆中の紫式部をリクルートして、彰子のサロンのセンターに据える。
    一条天皇は絶賛連載中の「源氏物語」の話が聞きたくて、彰子のサロンを訪れるようになる。
    こうして、次の天皇、後一条天皇が、更にその次の天皇、後朱雀天皇が生まれる。
    そのそれぞれに、道長は自分の娘たちを入内させる。
    何と用意周到。
    しかし、DNA戦略を実行に移すためには、多くの美貌な娘を持つ必要があった。
    その点は、光源氏も苦労したが、光のモデルとも言われた道長は軽々とその必要条件をを満たしてみせる。
    「DNA戦略」と言ったが、「源氏物語」を読むと、生物学的なDNAには、こだわっていないことが分かる。その意味では、「幻想のDNA戦略」と言うべきかもしれない。

    藤原氏の作り上げた幻想の「DNA戦略」を、レヴィ•ストロースの婚姻理論を使って、構造学的に分析したのが社会学者の上野千鶴子だ。
    「日本王権論」と言う対談で上野が述べた「不婚の皇女」論は、日本史では理解できなかった斎宮存在の謎をみごとに解き明かして驚かしてくれる。
    こうして、読書は次々と増植して行く。

    その後、時代は武家の時代に移行する。
    小室直樹モデルによると、天皇が無謬な神として君臨した「予定説」の時代が終焉し、正しい政治を行う者が日本を統治すべきだとする「因果律」の時代に入ったと言うことだ。
    この時代の大転換にも、藤原氏は生き残り、天皇家の政治の中枢を担い続ける。
    あまり、藤原の名を聞かなくなるのは、姓の藤原を名乗らなくなり、近衛、一条、九条、鷹司、二条(5摂家)を名乗るようになるからだ。
    これらは皆、藤原氏だ。
    そして、江戸時代も生き残るのだ。
    明治維新で、藤原氏は家族となる。
    首相を務めた近衛文麿は五摂家筆頭の近衛家出身だが、元は藤原氏なのだ。

    著者とは大学の教養時代同じクラスだった。
    「愛読書は?」と問われて「群書類従」と答えて、クラスメートを唖然とさせていた。
    塙保己一の編集した「群書類従」は、正編530巻、続編1150巻、全1680巻にも及ぶ巨大文書群なのだから。
    18歳にして、将来の姿を明確に見据えていたのだろう。

  • 鎌足から概ね、院政期あたりまでを詳細に書かれている。
    古代では、後発組として豪族との覇権争い、朝廷の首班に近づくと皇族や他氏、そして以降は同族間で政権争いを繰り返す。

    藤原氏の一族が広がると共に、一族の中での争いがよく分かった。

    ただ、よく似た名前が多くてルビが多ければ、もっと読みやすかった。

  • 藤原氏がどのように誕生し、貴族の中で揉まれ、他のライバルを蹴落とし、天皇家と密接に結びつく過程を描く。権謀術数の歴史。

  • 藤原氏の始まりから中世に至るまでの血統を事細かに解説してくれる。中世以降の分流についても記載があり、幕末、明治維新、昭和史にも藤原氏の血統が影響することに驚くばかり。天皇家の動向を左右するだけの力を持ったのに、天皇家に取って代わろうとしなかったのは何故? それとも取って代われなかった? 

  • 中臣鎌足に始まる藤原氏の系図。
    不比等から四家の分立、天皇家と一体化した摂関時代まで権力中枢を占めつづけます。
    武家社会でも五摂家をはじめとした諸家は、枢要な地位を占めており、末裔は近代以降も活躍してきました。
    藤原氏千年の動きをたどります。

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著者プロフィール

1958年、三重県津市生まれ。東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学。博士(文学、東京大学)。国際日本文化研究センター教授。専門は日本古代政治史、古記録学。主著に『平安朝 皇位継承の闇』『皇子たちの悲劇』(角川選書)、『一条天皇』(吉川弘文館)、『蘇我氏』『藤原氏』『公家源氏』(中公新書)、『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(講談社学術文庫)、『藤原道長の日常生活』(講談社現代新書)などがある。

「2023年 『小右記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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