キリスト教は「宗教」ではない - 自由・平等・博愛の起源と普遍化への系譜 (中公新書ラクレ 597)
- 中央公論新社 (2017年10月5日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121505972
作品紹介・あらすじ
「生き方マニュアル」として誕生した教えが、受難と復活という特殊性から「信仰」が生まれ、「宗教」として制度化したことで世界に普及するが、様々な思惑が入り乱れ、闘争と過ちを繰り返すことにもなった。本書は南米や東洋での普及を通じて、ヨーロッパ世界が相対化され、近代化に向かう中「本来の教え」が近代の普遍主義理念に昇華するまでの過程を激動の世界史から解読する。
感想・レビュー・書評
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一世紀初めのユダヤ教の世界にナザレのイエスという刷新者が現れ不思議な権威をもって人々に愛と個人の尊厳は「律法」や「聖なるもの」に優先すると説き信奉者を集めた。
イエスの教えに心酔しイエスの言葉を主の言葉として聞いた弟子たちも、いざイエスが神殿の祭司たちから冒涜者だと非難されローマ総督のもとに引き立てられて残酷な処刑をされた時には保身のために身をひそめた。後に初代の教皇だと見なされた一番弟子のペトロでさえイエスのことなど知らないと白を切った。
受難に際して自分自身の命も救えずにあっさりと殺されたのを見て弟子たちは失望した。
けれども実際に起こったことがなんであれ、いったん「イエスの復活」を目撃し体験した弟子たちは「弟子」から「使徒=信仰者」へと劇的に生まれ変わった。
彼らの信仰や福音を宣べ伝えてキリスト者としていの生き方を貫こうという選択はイエスの「死と復活」という出来事なしにはあり得なかった。
信仰が社会的表現としての宗教の形を取らざるを得ないのと同じようにどんな「普遍主義」も特定の文化の中でしか表現できない。「普遍宗教」の布教も、「宗教」から抽出した「普遍主義」の伝播も異文化の中では文化変容(アカルチュレーション:移植)という形を取ることを免れない。
ローマ教会はパレスティナから広がったキリスト者たちが広めた考え方を「体制宗教」として同化する中で、すでに自分たちでしっかりとインカルチュレーション(宣教先の文化への適応。栽培で言うと埋め込み)をしていた。(帝国主義の侵略と親和性のあるような「アカルチュレーション」はやめて種だけ持って行って現地のやり方で風土に合わせて育てようという感じ)種が埋め込まれて風土に適した「新種」が育った。言い換えると、そういう形でなければある風土にとっての「新しい宗教」が習俗や伝統として根付くことはない。
ここで日本と中国への布教が解説されます。すごく面白いです!
中南米にやってきた宣教師たちが異郷の風習を野蛮なものとみたのとは違って、日本では社会の秩序や道徳や礼儀作法に敬意を抱いた。そしてその布教は極めて知的な方法で行われた。日本支配者が認めたルールに従った「ディベートの後の判定」における圧倒的な勝利により初期の布教に成功した。
この布教に関して、ロレンソ了斎の存在は大きい。彼は長崎生まれ、山口でザビエルの話を聞いて洗礼を受け、トーレスによってイエズス会の修道士となり、織田信長の前で日蓮宗の僧侶に日乗と宗論を戦わせ布教の許可を得た。なんと元琵琶法師だったそう!仏教にも詳しかったからこそキリストの教えの優越性を知的に確信し、すべて記憶して「語り物」として再構成演出することもできたし武士の心の捕らえ方も熟知していた。
日本の身分制度を揺るがすこのようなキリスト教の「核」は領主たちや読み書きできる階層が「お談義」を評価したことによって「改宗」したのと並行して人道の次元でも根付き広がっていった。
日本の戦国から江戸初期までの動乱期、農民の多くは戦乱に巻き込まれ土地や作物を略奪され蹂躙されてきた。そんな時に人の世界の上下関係や差別構造をすべて超えた超越神が被造物であるあらゆる人々を愛していて、そのために「人が人を殺す」世界に敢えて「独り子」を遣わしたという教えがはいってきた。この世での差別や暴力に苦しみ続けるばかりであった農民や漁民にとって、「キリスト教」は自分たちが「個人として愛され救われる」という、それまでの生活では想像もできなかった希望を与えてくれた。
このようにいったん自由と愛を知った庶民にとっては棄教することは再び「奴隷の生活」に戻ることと同義になった。
一方中国の布教は違った。
イエズス会は自ら儒服を着て「孔子を礼拝するのは信仰でなく尊敬の行為」とみなしインカルチュレーション宣教にほぼ成功。ドミニコ会やフランシスコ会の司祭がそれに反発。
その後教皇アレクサンドル7世がイエズス会のやり方を容認それに我慢できなかったジャンセニストたちの反撃があった。イエズス会が宣教の戦略上、中国人に受け入れられにくいと思われるキリスト受難の表現を削除したことがとても許せるものではなかったと。
さて著者竹下節子さんは東大大学院をでてフランス在住、比較文化史家、バロック音楽奏者。
「キリスト者でありたい」とはクリスチャンであるということ?
マタイ(25・14-30)への、彼女の考えは興味深かったです。
引用します。
「私に託されたタラントンであるこの世界もこの時代も、幻想ではなく、現実であり、それを返す時には、受け取った時よりももっと美しく豊かにして返すように最善を尽くさなくてはならない、と思えてきた。それが「宗教」なのかどうかは私には分からない。分かるのは、この本を書かせたのはその思いだということだ。」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/691657 -
「キリスト教」を「宗教」として捉えるのではなく、「生き方の規範」として展開してゆく。既存「宗教」が作り出す「共同体」や「聖」=「掟・禁」を否定する「自由」を有し、最も弱い者達に寄り添い人々がお互いを愛し合う事、それが「キリスト教」(=「聖書」)が説く教えである。
自分自身、日本の「キリスト教の教え」において聖書で述べられている内容と力点が少し違うのではないか?と思っている部分があったのだが、その違和感が間違っていないのではないかとより思う様になった。
難しい言葉が使われているのではないのに、何故か読みにくいというか、何度も行ったり来たりしないといけないのだがが少し残念。ただ読み込む程に理解が深まり、得るものも多くなるのは確か。
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表題に惹かれて衝動的に購入。カトリック教会の歴史を振り返りつつ、キリスト教の「主義(=イズム)」としての真髄はどこにあるのかを考察しているような印象を受けた。疑問が残る部分もないわけではないが、共感できるところも多く、それなりに面白く読めたと思う。
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某グループの読書会課題図書.フランス在住の著者が外から見た日本のキリスト教を考察している面白い視点の本だ.利他、原罪と言ったキリスト教に絡む言葉が数多く出てくる.文化装置としてキリスト教という発想は新鮮だ.カトリックが"何度も信仰の「イズム」に立ち返って「宗教」を刷新してきた"という考察(p104)、新世界への布教に際して、先住民の存在を神学的整合性の上で苦慮したこと、普遍宗教としてキリスト教の構築などなど、新しい見方が面白かった."祖霊を祀るとか、氏神を祀るとか、自然神を敬うとかというレトリックの影には共同体における権力システムの継承のために個人の尊厳を冒し、死を封じ込めるという死の取り込みがあったことを忘れてはならない"(p176)は、日本におけるキリスト教の立場を明らかにする文言だと感じた.
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生き方マニュアルとして生まれた教えが「宗教」として制度化する中で変質するも、普遍主義理念に至る過程を激動の世界史から解読
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普遍性は特殊なあり方をもってしか表現されえない。
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あまりに偏狭なので残念です。
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東2法経図・開架 B1/5A/597/K