悲しき熱帯 (1) (中公クラシックス W 3)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121600042

感想・レビュー・書評

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  • 20世紀を代表する人類学者であるクロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)による、ブラジルのインディオ社会への民族学的調査旅行に関する記録、1955年。

    1935年サン・パウロ大学へ講師として赴任し、1939年フランスへ帰国するまでの間、レヴィ=ストロースは南米ブラジルのカデュヴェオ族、ボロロ族、ナンビクワラ族、トゥピ=カワイブ族の各社会に対してフィールドワークを実施しており、彼らの文化や社会構造に関する厖大かつ詳細な観察記録と、それに基づいてなされる人類学的、文明論的、歴史学的、社会学的ときには美学的な思索が、本書の中心的な内容をなしている。しかしそれにとどまらず、現代アメリカ、インド、イスラムなどに関する考察、自身の知的遍歴への回想、さらには当初は小説の一部として構想されていたもの(「日没ノート」)や、調査旅行中に書いた未完の戯曲の素描(「神にされたアウグストゥス」)なども組み込まれており、内容は極めて多岐にわたる。 濃密な書。

    □ 西欧の鏡映しとしての「未開」

    レヴィ=ストロースは冒頭に近い「力の探求」という章で、現代西欧の民族学者の眼差しは「未開世界」の「本当の姿」を捉えることができないという事態について、悲痛な調子で繰り返し言及している。また、「神にされたアウグストゥス」の章でも、レヴィ=ストロース本人に準えられる人物であるシンナに、同様のことを語らせている。

    「旅よ、お前がわれわれに真っ先に見せてくれるものは、人類の顔に投げつけられたわれわれの汚物なのだ」(Ⅰ、p47)。

    「私は、「本当の」旅の時代に生まれ合わせていればよかったと思う。旅人の前に展開する光景が、まだ台無しにされていず、汚されても呪われてもいず、その有丈の輝かしさのうちに自己を示していたような時代に」(Ⅰ、p57)。

    「旅というのは偽りだったのだ」(Ⅱ、p363)。

    「すべてが虚しいこと、これらの出来事のひとつひとつが無意味であることを、私が話して解らせようとしても無駄だろう。それが物語になるだけで、聞き手はもう眩惑され、夢見心地になってしまうのだから。けれども、それは何物でもなかったのだ。大地はここの大地と似たようなものだったし、草の一本一本もこの牧場のものと変りがない」(Ⅱ、p364)。

    「無垢なる未開世界」という観念は、二重の意味で欺瞞的であろう。第一に、「未開世界」は植民地主義の暴力によって既に徹底的に毀損してしまっており、その傷跡は覆うべくもないから。大航海時代から帝国主義を経て現代に到るまで、「近代世界」は、「未開世界」をそこから利潤を上げられる「植民地」へと改変し、 その過程で多くの人間の生命を奪い、彼らの人間的営みとしての文化を破壊してきた。かつて「未開世界」と出会った西欧は、自分とは全くかけ離れた文化をもつ者たちを、自分たちと同等の「人間」であると見なすことができず、彼らを自分たちよりも劣った存在として扱い、その差別を正当化するために人種理論という疑似科学まで捏造した。宣教師がボロロ族を改宗するために、ボロロ族に固有の世界観を反映していた環状の集落を破壊し、平行に配置された別の集落に改変してしまったことで、彼らの文化が急速に失われていったという、植民地主義の暴力を考えるうえで非常に興味深い事例が紹介されている(Ⅱ、p49)。

    第二に、「無垢」と表象することで西欧文明と対比される単純さや素朴さは、「未開世界」の文化に対する評価として妥当ではないから。「未開世界」の文化は、西欧文明とは全く異な形態をとってはいるが、それと同じくらい複雑で豊かな意味の構造をもっているということを、レヴィ=ストロースは自らの構造主義人類学によって明らかにした。彼は、ヤコブソンの音韻論を通して、ソシュール記号学における恣意的価値体系としての言語という考え方を文化全体に敷衍することで、人文科学の新しい方法論としての構造主義を打ち立てた。構造主義以前の、「主体性」を起点とする近代主義的な理論においては、主体としての西欧近代に対して、他者としての「未開世界」は、劣位に置かれたままであっただろう。

    結局のところ、西欧の民族学者の眼差しが「未開世界」に対して見出すのは、「未開世界」という鏡に映し出される近代西欧の自己像、暴力と欺瞞の姿そのものであるといえる。つまり民族学は、近代西欧の自己意識、則ちアイデンティティに対する、自己批判でなければならない。同時期に書かれた『人種と歴史』(1952年)も、自民族中心主義に対する西欧による自己批判の試みである。

    こうしてレヴィ=ストロースは、西欧近代という「自己」に対して徹底的に批判的であり続けるが、それとは対照的に、「未開世界」という「他者」に対しては、全く別の眼差しを向ける。ナンビクワラ族の人々の生活を描いた次の文章は、本書の中で最も美しく実に印象的である。

    「暗い草原の中に幾つもの宿営の火が輝いている。人々の上に降りて来ようとしている寒さから身を守る唯一の手立てである焚火の周りで、風や雨が吹き付けるかもしれない側に、間に合せに椰子の葉や木の枝を地面に突き立てただけの壊れやすい仮小屋の蔭で、そして、この世の富のすべてである、貧しい物が一杯詰まった負い籠を脇に置き、彼らと同じように敵を意識し、不安に満ちた他の群れが散らばる大地に直かに横たわって、夫婦はしっかりと抱き合い、互いが互いにとって、日々の苦労や、時としてナンビクワラの心に忍び込む夢のような侘しさに対する支えであり、慰めであり、掛け替えのない救いであることを感じ取るのである。初めてインディオと共に荒野で野営する外来者は、これほどすべてを奪われた人間の有様を前にして、苦悩と憐みに捉えられるのを感じる。この人間たちは、何か恐ろしい大変動によって、敵意をもった大地の上に圧し潰されたようである。覚束なく燃えている火の傍で、裸で震えているのだ。[略]。しかしこの惨めさにも、囁きや笑いが生気を与えている。夫婦は、過ぎて行った結合の思い出に浸るかのように、抱き締め合う。愛撫は、外来者が通りかかっても中断されはしない。彼らみんなのうちに、限りない優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、満たされた生き物の心があるのを、人は感じ取る。そして、これら様々な感情を合わせてみる時、人間の優しさの、最も感動的で最も真実な表現である何かを、人はそこに感じ取るのである」(Ⅰ,p191ー192)。

    □ 民族学者のジレンマ

    このように民族学者は、往々にして、自他それぞれの社会に対して異なる態度をとることがあるという。自分の社会の規範には常に批判的でありその不正に対しては変革を求めるのに対し、「未開社会」の伝統に対してはしばしば保守的ですらある。これを首尾一貫したものとして理解するためには、どのように考えればよいのか

    民族学者のとり得る態度には、次の二つがある。第一に、自分が属する社会に対して特権的な優越性を認める自民族中心主義。第二に、如何なる文化に対しても特定の価値を認めない文化相対主義。両者の対立は、独断論と懐疑論との対立(あるいは実念論と唯名論との対立?)に準えられるか。前者は、客観的であり得ず、科学の名に値しないのは明らかである。後者は、客観性を担保しようとして特定の社会(自分の社会も含む)に対するあらゆる価値判断を禁欲せねばならず、実践的ではあり得ない。というのも、いま、自分が属する社会において或る不正が行われていたとする。これに対して、相対主義的な民族学者が、この不正を批判し自分が属する社会へ変革を要求することは不可能である。なぜなら、もしそれが可能であると仮定すると、それは特定の社会に対して或る価値判断を下すことになり、客観性を担保できなくなるから。よって、文化相対主義は、あらゆる実践を断念するしかない。

    こうしたジレンマを考えるときは、ただ形式論理のみに拠って議論をするのではなく、なにか実質的な因子を導入することが有益である。ここでは、民族学者を西欧の歴史のうちに位置付けてみる。民族学者は、西欧近代の植民地主義による暴力の歴史に対する、西欧近代自身の自己批判の意識の具現化でもある。であるとするならば、「民族学者は、彼の存在自体が罪の贖いの試みとしてでなければ理解しがたいものであるだけになお、彼自身の文明に無関心ではいられず、文明の犯した過ちについての連帯に無自覚ではあり得なくなる」(Ⅱ、p380)。民族学者は、歴史が彼に与えた存在理由によって、自民族中心主義的態度をとることはあり得ないが、それと同時に、自分の社会に対して批判的態度を封じてしまうこともまた許されないのである。彼の使命は、「他の社会をよりよく知ることによって」、「われわれの社会から自分を切り離すという方法を獲得する」ことである。なぜなら、自分が属する社会こそは「そこからわれわれが自由になるべき唯一の社会だからである」(Ⅱ、p386)。

    そこで民族学者がなし得る寄与は、「未開社会」の研究を通して、「人間としての条件がそこを離れては考えられない社会状態に内在している、自然人の形態を再発見する」(Ⅱ、p386)ことによって、社会のうちにありながら同時に自然との結びつきを回復する可能性を追究し、「もはや存在せず、恐らく決して存在しなかったし、これからも多分永久に存在しないであろうが、それについての正確な観念をもつことは、われわれの現在の状態をよく判断するために必要である」(Ⅱ、p385)ような社会モデルを構築すること。ここには、「未開」と「文明」の対立を超えた、「人類の友愛」(Ⅱ、p388)の可能性も賭けられている。

    目指されるのは、徹底的な自己批判を通過した、自己からの自由と他者との友愛であるといえる。

    □ 来るべき人間倫理

    人間というものは、自然のその自然さとは異なり、とても不自然な、不均衡で強張った、無理のある存在ではないかと思われるときがある。例えば、対自存在という人間観において、それは最も顕著に表れているように思う。旧約聖書の「創世記」に描かれる原罪というのも、この不自然さから来るのではないか。

    「文明」は、「進歩」という単線的な歴史の中で、【他者】と【自然】を対象化し、人間によって対象化される以前には具えていた多様性を無化し、その秩序を分解し、ただエントロピーを増大させてきただけなのかもしれない。その点では、われわれは、われわれが「人間」の名で呼んでいるものに値する存在なのではなく、むしろ、【他者】と【自然】を使用済廃棄物へと置き換えていくだけの「機械」あるいは生化学的な「過程」でしかない、ともいい得る。「文明」は、この歴史の「進歩」を駆動する労働と生産を「機械」に対して強いてきたのであり、それは【他者】と【自然】に対して、それらを「一つの、平らで滑らかなものにしてしまう」(Ⅱ、p426)暴力として発現した。

    【他者】という到達不可能性への可能性へと開かれてあること。【自然】との結びつきを自らの内に見出すこと。つまり何者も支配の客体として対象化しないということ。これが、レヴィ=ストロースが人類学者として捉えた、「機械」ならざる人間にとっての恩寵の条件=来るべき人間倫理ということになるのだろう。

    「人間諸文化の虹が、われわれの熱狂によって穿たれた空白の中にすっかり呑み込まれてしまう時、われわれがこの世にいる限り、そして世界が存在する限り、われわれを接近不可能なものへと結び合わせているこのか細い掛け橋は、われわれの奴隷化へ向かうのとは逆の道を示しながら、われわれの傍らに留まり続けるだろう。[略]。歩みを止めること。そして、人間を駆り立てているあの衝動、必要という壁の上に口を開けている亀裂を一つ一つ人間に塞がせ、自らの手で牢獄を閉ざすことによって人間の事業を成就させようとしている、あの衝動を抑えること。[略]。生にとって掛け替えのない解脱の機会、それは[略]、われわれの種がその蜜蜂の勤労を中断することに耐える僅かの間隙に、われわれの種がかつてあり、引き続きあるものの本質を思考の此岸、社会の彼岸に捉えることに存している。われわれの作り出したあらゆるものよりも美しい一片の鉱物に見入りながら。百合の花の奥に匂う、われわれの書物よりもさらに学殖豊かな香りのうちに。あるいはまた、ふと心が通い合って、折々一匹の猫とのあいだにも交すことがある、忍耐と、静穏と、互いの許しの重い瞬きのうちに」(Ⅱ、p427ー428)。

    このとき人間は、自分自身を対象化することも、則ち対自存在であることも、やめるのだろうか。人間が、人間を人間たらしめている不自然さから解放されて、自然の中へ溶けでていく。そのような恩寵は、そもそも人間にとって可能なのだろうか。「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」(Ⅱ、p425)というが、人間というこの歪な存在は、如何にしていなくなることが可能なのか。

  • 第二次大戦下の時代。フランス人である著者がなんとか密航して祖国を脱出する回想から始まっているのだけれど、その船内のすし詰めの状況や不衛生な環境などのしんどくて大変な様子をしっかりとした描写で書いていて、これはほんとうに大変な時代だったなぁとそこで訴えられているものをひしひしと受けとめることになるのですが、この最初の部分から文体は比較的重厚で(読みづらいわけではないのですが)、本書の濃厚さに頭を慣らしていく部分にもなっていると思います。

    南米の諸民族を語るまでの導入部がかなり長いのですが、あなどるなかれ、ガツンとくる言い回しや論考に関すれば、スタートからゴールまで一貫してずっと質が高いままです。気になる箇所のうち、「これは!」と思ったところから思いついた考えがあって、それは「若者の自分探しの旅は、自分探しという目的にはほとんど意味がなくて、旅をしたという行為にこそ意味があるようだ。それまでの人生から見て桁外れな体験をすることが、大人になるための通過儀礼のようなものになる。」というものなのですが、北米の若い男性のインディアン(ネイティブ・アメリカン)の例が挙げられていて、そこでは肉体的にほんとうにもうキツすぎるというようなことを成人への通過儀礼としてやらなきゃならない。気がふれるような領域まで自分を追い込んで(あるいは追い込まれて)、そこで精霊を見たり感じたりするまでいってしまいます。で、それがその人のインディアンネームのきっかけになる。これらと比べれば、日本人の自分探しなんてちっぽけなものかもしれませんが、過剰に保護された世界から飛びだして生身の心身でぶつかっていく体験は、やはり成人への通過儀礼的な内容があるのではないかと考えてしまいます。

    また、南アジアの途上国(インド)で、靴磨きや客引きや安もの売りや土産物売りや物乞いの子どもや障害者が、旅行者の前に身を投げてくると書かれている。だが、彼らを笑ったり苛立ったりしたくなる人は気をつけるといい、とレヴィ・ストロースは言います。これらの馬鹿げた仕草、人を嫌な気持ちにする遣り方、そこにひとつの苦悩の徴候を見ずにそれらを批判するのは虚しく、嘲るのは罪であろう、と作者は続ける。この洞察に対しては不遜ながら「なかなかやるじゃないか」という感想を持ちました。なぜなら、これは人間を突き放さないことでしかわからないからです。誰でもわかることじゃないんです。そういう心理地点に到達できる人は多くはない気がします。僕自身、在宅介護の修羅場を経験したうえで、なおかつなにかの拍子にひょっこりとそういう視座を持てる地点に出たタイプで、周囲の知人たちを思い返しても「このひとはもしかすると」っていう人が数人いる程度です。ましてや、ヨーロッパの昔の偉い学者にはわからなさそうな感じがしますから。なので、作者の前述の洞察には「やるな!」と思う次第。こういうところは学問とかじゃなくて日々というか生活というかから得られる学びからきますからねぇ。

  • 色々とあるが、とりあえず上巻の中で印象に残ったのは「日没」という章で、一章まるっと空の描写をしている箇所。

    二度と同じ空はない、とそれらしい言葉でいうのは簡単かもしれないけど、この「らしい」がいつでもくせ者。
    らしさなんて、くだらないのです。

    主観に基づいた客観。

    記憶と記録の狭間。

    謙虚も傲慢も超えた目。

    言葉の豊穣さや観察力はもちろんのこと、それらを包括する「言葉の態度」のようなものに感銘を受けるのですが、定義づけようとするとスルリとすり抜けてしまうような、揺らぎやすい一点にその態度は一貫しているように思える。

    360度、すべて空である船の上で、太陽が落ちて行く様をひたすら見つめ言葉にしている。
    ただそれだけといえばそれだけなのだけども、
    例えば、「ああ、自分は世界が夜に変わる姿を目の当たりにしている」みたいな感傷が全然なくて、
    しかも、「私の目は今やすべてを捉えられるような気がする」みたいな誇張もなくて、
    少し目を離しただけで変わりゆく空の速度そのものを代弁しているみたい、というのかな。
    むしろ作者が速度そのものを演じているみたい。
    それは作者の言葉を借りれば「活人画」化しているということになるのかもしれない。

    過剰な意味を与える(すなわち同時に本来の意味を奪う)ことをせず、だからといって不必要に形式張って、間違いのないように記録しようみたいなフラットな感じでもない。
    自然な凹凸。
    それは、主観になる前の姿なのかもしれない。
    その、直感のようなものを、主観が邪魔する前にすぐ言葉にしちゃう。
    そのスピード感の繰り返し?
    二度と同じ空がないように、その空を見た自分は二度と同じ直感と思考を得る事はないはずなのだ。
    その微妙で確かな差異に挑戦している感じがした。

  • レヴィ=ストロースが百歳で没した五年前、哀悼の意をこめてとある読書会で本書を読んだ。書名の通り悲しい本である。この tristes というフランス語は「憂鬱な、暗い、うんざりする」という語感があるそうだが、まさにありきたりの感傷とはほど遠いずっしりと重たい本だ。「私は旅や探検が嫌いだ」という紀行文としてはいささか異様な書き出しは象徴的である。「文明によって乱された海の静寂は、もう永久に取り戻されることはない」という幻滅、「人類の顔に投げつけられた我々の汚物」を目の当たりにする嫌悪、そして何より自らがその幻滅や嫌悪の元凶である西洋文明の一員であることから逃れられないという自己矛盾。旅がもたらすこのような痛ましくもある著者の内省が本書をどうしようもなく重たいものにし、それが読む者の胸に突きささる。

    もちろん本書には未開社会への哀惜や西洋文明への批判に尽きない様々な顔がある。自伝的回顧に始まり、構造主義の生い立ちとエッセンス、著者の数少ないフィールドワーク、イスラムやインドを含めた比較文明論、良質の紀行文学等々、読者の興味によっていろんな読み方ができる。著者の愛したプルーストの文章を彷彿とさせる「日没」のきらめくような描写には眩暈すら覚える。しかし抽象度が高く極めて洗練されたその文体は寝転んで気軽に読める旅行記とはわけが違う。構造主義入門のつもりで本書を手にした読者も途方に暮れるに違いない。

    本書の中で著者自身が言及しているように、構造主義がマルクス、フロイト、ソシュールからヒントを得ていることは確かだが、しばしば誤解されるように〈上部構造と下部構造〉〈意識と無意識〉〈パロールとラング〉といった二元論を前提に両者の決定論的な関係を考えているわけではない。そうした誤解は構造主義が人間をあたかも構造の操り人形と看做すものだという批判を招き、それがポスト構造主義の流れにもつながるのだが、少なくともレヴィ=ストロースに関する限り、その構造概念はもっと控えめなものだ。彼のトーテムや神話分析に見られるように、それは諸要素間の差異に基づく分類体系であり、世界解釈のコードとでも言うべきものだ。そうした分類体系は差異にのみ基づくものであるが故に、別の分類体系に変換可能であり、したがって様々な社会に観察される構造の間に優劣はない。未開人は未開人なりの合理的な「知の体系」を持っているということだ。

    以上はレヴィ=ストロースの別の著作(『野生の思考』『構造・神話・労働』)やその解説書(小田亮『レヴィ=ストロース入門』)から学んだことを評者なりに再構成したものだが、こうした構造主義の基本的な考え方をある程度理解して臨めば本書の味わいも増すだろう。

  • 想像より叙景的な文学表現が多く、それはそれで嫌いではないのだけれど、 本題である民俗学としての考証は後半をだいぶ過ぎてからでぐっと面白くなる。文明批判が根底にあると思われるが、時折ギョッとするような侮蔑表現をされているのが気になった。文明人からの視線に基づく観察による矛盾の表出か、もしくは私の思い過ごしか。多少のもやもや感を抱きつつ、後編に期待は膨らむ。いずれにせよ著書の強い知的好奇心と鋭い分析力は大いに魅力的。

  • 『ところがこうした知見たるや、もう半世紀も前から、あらゆる概説書の中にいつも顔を出していたような代物なのである。しかも、並外れた破廉恥によって、だが、お客の単純さや無知とはぴったり調子をあわせて』ー『出発』

    『その進化は、南アジアが一千年か二千年、われわれより早く経験したものであり、われわれも余程の覚悟をしない限り、恐らくそこから逃げられないだろうと思われるものである。なぜなら、この人間による人間の価値剥奪は蔓延しつつあるからだ』ー『市場』

    『その真理とはーー或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのために作る表象は、結局のところ、生者のあいだで優勢な規定の諸関係を宗教的思考の面で隠蔽し、美化し、正当化する努力に他ならないということである』ー『生者と死者』

    『ただ彼だけは、こんなにも高い代価を払って得た栄光が、嘘の上に築かれていることを知っている。彼が体験したと人が思い込んでいるものは、どれひとつとして事実ではなかった。旅というのは偽りだったのだ。旅の影しか見ない人たちはには、そうしたすべてが本当らしく見えているのだ』ー『神にされたアウグストゥス』

    人は結局のところ何も学べない。全ての体験は、ただ新しく知り得たことを既に自分自身の中に存在する似たようなものに引き寄せるだけのことのように思える。それなのに過去に体験したことが後になって、あたかも熟成し新な知見となって自分の考え方に影響を与えているとの感覚を覚えたりすることがある。

    学びとれると思っている時には学び得ず、学び得ないと思っている時にこそ新な体験は自身の血肉となる。言ってみれば時を隔てた二人の自分に起きている変化とは、自身を守る為に高く掲げていた盾を下ろすような心持ちの変化なのかも知れない。自分の理解できる概念に現実を落とし込まないで居られる程に現実に馴れること。そうして初めて「新しい概念」が身に沁みてくるのだろう。

    要すればこの大部の著作の中で著者がもがきつつ言わんとしているのはそんなことなんじゃないかと、自分には思える。禅の感覚に似たようなこの矛盾した感覚をどの章からも綿々と感じる。そして其処かしこに身に沁みる言葉に出会う。しかしそれは例外的なこと。ほとんどの文章は何も自分の中に呼び起こさない。あたかも現地の言葉や習慣が分からず、目の前で起きているひどく変わった出来事の意味をつかみかねるように、目の前を文章は流れてゆく。ひどくゆっくりと。

    比較文化人類学的な資料としての価値を読み解く人ももちろんいるだろう。しかしその価値を見出だす前に、ほとんどの人は著者の体験した混沌と自責の念で本書が埋め尽くされていると感じるに違いない。混沌には自分自身の体験を容易に引き寄せることで近づくことができる。だがレヴィ=ストロースの感じている自責の念には宗教的な思考が絡んでいるようにも思え、容易には近づくことができない。いや、近づくことが憚られる。

    南米のインディオの集団から何かを知り取ろうとすることがもたらす災厄。それが解っていながら真に近代文明に接して居ない人類の文化を知りたいとする欲求。「悲しき」とは、幾つもの後悔と懺悔と失望が入り交じったニュアンスを含む表現であることが、徐々に理解されてくる。あちらこちらに思いは揺れ、そして巡りめぐりながら、著者はその全てを自分の非として受け止めるかのようである。そこに信仰に裏打ちされた独特の覚悟のようなものを感じる。それを単純に一つの宗教に結びつけることは多層的な著者の思考を余りに矮小化してしまうことになるのだろうけれど、その連想は誘惑的である。ただ、そんな宗教的位置付けに意味があろうと無かろうと、実体験から長い年月を経て最終的にこの著書を書き上げた著者の根本には、その覚悟があるのだと思う。

    一度きりの読書では学び得ないと解ってはいたけれど、あまりに多くの問い掛けにこの本は満ちている。それを目の前にして茫然とした思いに囚われてしまいつつ、自問せざるも得なくなる。いつ自分はそれに対峙する覚悟を固められるのだろう、と。

  • こんなエキサイティングな本だが、一度も読了したことがなく、何年も書棚、トライ、挫折を繰り返していた。レヴィ=ストロースが何を書きたいのか分からず、時間と空間があちこちに飛ぶ本書をもてあましていたのだろう。やっとカギが見つかり、一気読み。次は2だ。

  • 内田樹さんが「若い読者のための選書60冊」として挙げていた本の1つ。
    もう私は若くないけども、読書のレパートリーを広げるために
    自然には選びそうもないものをチョイスした結果の1冊。
    この本は、60冊の内、知性にキックを入れるために読む本10冊
    として取り上げられている。

    内田さん曰く・・・
    レヴィ=ストロースは僕が知る限り「歴史上もっとも頭のいい人」の一人です。
    あと、僕はこの人から「悪口の言い方」を学びました。鮮やか過ぎて「斬られた人がわからない」くらい悪口うまいです。

    読んでみて、最初のまえがきの段階で、内田さんのいう頭の良さを痛感させれてびっくりしたあと、本文に入ると、最初の1ページ目からもう何がなんだか分からなくなって、さらに驚かされました。
    これまでまったく読んだことのないのないような文章で、村上春樹を初めて読んだときのような感じを味わいました。なにしろ、Ⅰ巻の半分ぐらいまでは、熱帯へたどり着くまでの話なのです。

    読み進めていくと、文章の随所で些細な観察事項から、しびれるような考察が示されて圧倒されます。どうして最初の半分であのような話題を取り上げているのか、だんだんと察しがついてくるような気になりました。

    知性にキックを入れてみませんか。

  • 読みたい
    人類学の大家と聞いて。英語だとリーヴァイ・ストラウスって呼ぶ。

  • 亡くなってしまってからようやく読み始めた。旅行記として読んだが秀逸。新世界の都市についての考察が、数十年たった今でもそうなのに驚く。

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