悲しき熱帯 (2) (中公クラシックス W 5)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (449ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121600073

感想・レビュー・書評

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  • 以前に2度ほど読みかけては、続かずに途中で投げ出してしまっていたのに、3度目の挑戦であらためて読んでみたら非常に面白くて、すっかり魅了されてしまった。
    しかしこれは、どういう種類の本と言えばいいんだろう。旅のエッセイといえなくもないけれど、この人は、なんと遠くまで旅することか。中心となっているのは、1930年代のブラジルへの調査旅行だが、その筆は別の時間、別の場所への旅を行き来しながら、はっとさせる深い考察と同時に、とても美しく優しい描写を織り込ませる。最後の方に、不純物の滓を含むがゆえに香り高いラム酒というたとえが出てくるが、まさにそんな感じの文章だ。
    たとえば、「最も単純な表現にまで還元された社会を、私は探していたのではなかったか。ナンビクワラ族の社会がそれであった。私はもうそこに人間の姿しか見出さなかった」という感動的な言葉でしめくくられるナンビクワラ族に関する数章。重厚でときに陰鬱な思索が織りなす本書の中で、めずらしく著者の深い感動と愛情が吐露されていて印象深い部分だが、かといって、決して対象にのめりこむんだりはしていない。最も単純な社会構造をもつ彼らとの接触から、レヴィ=ストロースは、人類社会における文字の機能や社会におけるリーダーのありかたについて、ぞくぞくするほど面白い考察をめぐらせている。
    最後の数章では、自らの属する社会に背を向けて、他の社会に向かった人類学者がつきあたる虚しさと矛盾という陰鬱な告白から始まり、不純物を除去しながら、進歩への熱狂に駆られて突き進んできた西洋文明の矛盾に触れる。はっきりと書かれてはいないけれど、ここには、そうした西洋文明の行きついた先ともいえるナチスの経験が、やはり深く影を落としているように思われる。
    しかしその沈鬱ともいえる考察は、やがて思いがけなくも優しい明るみのさす地点に読者を運んでくれる。人間が生きられる社会を創るために常に同じ働きかけを繰り返してきたにすぎないとすれば、「何も手は打たれていず、われわれにはすべてをまた始めることが可能だ」。
    ここには、同じようにナチスの迫害を受けたユダヤ人の思想家ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』の最後においた、「一人ひとりの人間の誕生が新しい始りなのだ」という言葉のこだまを聞く思いがする。そして本書をしめくくる数行の美しさ。人間の力を過信せず、世界に謙虚に向き合うレヴィ=ストロースの態度が示されている。

  • 感想といいますか、自分との化学反応を。

    部族の首長だけが一夫多妻制になっていてそのあおりを食う男たちがいたり、首長は首長でその地位による優越はあるだろうが群れのリーダーとして忙しく群れのために世話を焼かなければならない。競争意識による刺激がほとんどない社会にもこういった差異があるのは、生来の差異のため――――以上はナンビクワラ族の考察部から。競争社会を批判し、競争のない社会がユートピアかもしれないと夢想しても、人間の個体差というどうにもならないものがあるのだから、完全な公平さが実現したユートピアにはなるものではないです。公平さの実現にはもっと人工的な操作が要るってことでしょう。人工的な操作が必要といったって、それでナチスドイツに代表される「優生学」方面に進んでしまったとしたら道を間違えています。人間の選別、遺伝子デザインではなくて、障害のある人でも笑って暮らせる社会へのデザインを考えるほうが豊か。文明の進歩で人工的にできることが増えていく、その力を活かすのはそっちだと思います。

    しかし、最後まで読み進めていくと……。

    人間には生まれつきの個体差があるから社会には多様性がある。そこから生じる良くない部分、つまり差別や立場の不均衡があるのでそれらをなくすため人工的に社会を平らで滑らかなものにしてしまうのが良いかといえば、でもそれは違うみたい。本書『悲しき熱帯』が照らす地平はどうやらそっちなんです。個体差という多様性を維持しながら差別をしないことはできます。これは多様性を認めるということで、他者に敬意を持つことでできますよね。では立場の不均衡はどうなんだろう。平滑にしてしまったほうがフェアな気がしますけれども、しかし不均衡な状態のほうが何かの拍子に一網打尽になりにくいのは多様性の強みと一緒かもしれません。かといって、生きづらい人たち・生きにくい人たちがそのままでいいなんてちょっと思えないですし。

    きっと生きづらさの解消に関しては、やっていくべきは生存可能圏を開拓していく行為なんじゃないでしょうか。人間社会のハビタブルゾーンにはまだまだ広大な暗黒領域があって、そこを可視化された生存可能領域へと変えていくこと。だから、立場の不均衡の解消をしても多様性の強靭さを損なわないために、既存の社会領域を拡大もせず深掘りもせず小手先だけで器用にめくらましするのではなくて、創造に似た新領域の発見・開拓のイメージを持って考えるとよいのかもしれません。要するに、いま、生きづらい人たちが苦労しているのは棲み分けがうまくいっていないからではないのか。棲み分けのために必要な領域(生存可能領域)がまだ暗黒地帯に含まれていて、ずっと発見を待っているからなのではないのか。狭い領域にぎゅっと詰められている状態が今ではないかと仮定できるのではないでしょうか。

    ということで、固い内容ばかりのような印象を持たれてしまうかもしれないですが、そんなこともないんです。たとえば、口内炎を痛がる言うことをきかない騾馬とレヴィ=ストロースの格闘は愉快でした……。

  • 未開部族社会への冒険や観察も面白いが、壮大な回帰の物語。
    特に、フィールドワークの記録を経た後に辿り着く2巻最終章の考察。伸びやかな深みと拡がりは圧巻。

  • レヴュはⅠにて。

  • 後編はフィールドワークが中心で、少数民族が成す社会制度の分析は面白く読めた。それでいてずっと違和感を引き摺った。インディオと寝食を共にしながら一線を引く距離感、それは学者として必要な客観性だろうけれど、それよりもオクシデントの眼差しを感じてしまうのは邪推だろうか。正直な人なのだろう。終盤での民俗学者としての葛藤はずしんと響いてきた。単なる学術書とは一線を画する心情の吐露。こういう文面を目の当たりにすると、偏屈なのは自分の方なのだと訝ってしまう。いずれにせよ一読で理解できる代物ではないのでいつか再読したい。

  • 人類学者とは、民俗学者とは、そして人類とはどのような存在であるか、を長い旅の中で模索していく、そんなことがまとめられた一冊です。

    著者自身の自己矛盾に対する苦しみが書かれる第九部「回帰」は素晴らしい内容です。
    あまりに深遠で、理解し切れていない部分もありますが、探求する上で、意義を求めるうえで、ありとあらゆる葛藤が書かれていると感じました。
    読んでよかったな、と思います。名作ですね。

  • 私はこの人類探訪記が一体どこに帰着するのかとても興味深く、辛抱強く見守りながら読み進めて来た。

    そしてようやく読み終えた!
    その結論が「何もするな、それが一番」だというから唖然とする・・・。
    つまり、歩みを止めろ。都市も畑も全て、構造を分解し無秩序にすべてを帰すための途上となるに決まっているのだから、その衝動と欲望を、押しとどめることが唯一有意義なことだ、と。

    でもしかし、それはむしろ希望とするべきなのか、と考える。
    というよりも、一体どこまで戻ったら希望や絶望の判断が出来るのか?という問題を、膨大な時間をかけて探求した本、なのかもしれない。
    そして、もうどこまで戻っても、規範とするべき形はない。なんなら、今までもたったひとつだってなかったかもしれない、というのだ。

    レヴィストロースを読んでいると、自分もなんだかひどく大きなものの一部のように思えて来るからついつい大袈裟なことを考えてしまうのだけど・・・
    「何もしないが一番」という地平は、レヴィストロースが代わりに与えてくれたスタート地点のような気がした。
    つまり、失われた、あるいは初めから存在しなかったスタート地点を、断片的な点同士を集めて、地道に繋ぎ合わせて、線でつなぎ、面にした。
    そのつなぎかたは、人によって様々だし、合っているも間違っているもないような種類のものだけど、とにかく面が出来て、世界がある種の秩序(それは「補足の証明の集まり」のようなものだったのかもしれないけれど)で再び結び合わされた。

    私たちは、この偉大な仕事の上に、もう一度スタート地点を設定してもよいのじゃないのだろうか、なんていう、大きな想いに駆られる。

    私たちは歩みを止めるべきだ、という結論を仮にスタート地点として、一体、それは実現可能だと言えるのだろうか。私は、言えないと思う。
    だから、別の方法を考えなくちゃいけない。

    歩みを止められないとしたら、一体どうするのか。
    私の頭の中には、考えながら既に笑い転げたくなるような、途方もない考えがいくつか浮かんでは消える。

    夜の星でも観ながら、日本の片隅でとんでもない絵空事を思い描いてしまうのである。

  • 南米の少数民族についての解説が主となる下巻だが、やはり白眉なのは第九部にある「一杯のラム」。民俗学者とは自らが所属する文化からも研究対象とする文化からも「よそもの」であることを自覚しながら、また民俗学というという分野自体が他の民族を踏み付けにしてきた証左であることを理解しながら、それでも目を見開こうとする態度表明にはどうしても心動かされてしまう。イスラムへの不理解と仏教への過度な賛美を表し、ストロースもまたサイードが批判したオリエンタリズム性に縛られていることが透けて見える最後に少しだけ心を痛めながら。

  • 文化相対主義は今の世から見るとわりと「当たり前」のことなので、第二巻のほうが第一巻よりも驚きは小さい。むろん、旅行記としては抜群に面白いし、一文一文読み返したいところも多い。

  • ようやく読み終えた。読みやすい本ではないし、今読むと偏見にしか思えない表記もあるし、論旨も実はそう明確でもない。かつて大学生の頃、挫折したのもそんな理由だったのかもしれない。
    今回は少しずつ読んだのだけれど、何よりもものすごい知識を貯えてしまった人が世の中を悲しみつつ、生き方がより多様なことの大切さを語っているんだなと思った。
    イスラム教社会の存在と実は根っこのつながっているキリスト教社会の問題について言及しつつ、もしもキリスト教社会と仏教社会がまっすぐに出会っていたら世界は違っていただろうと夢想して終わっていくのは今の時代にも通じることだと思う。

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