意志と表象としての世界 (3) (中公クラシックス W 38)
- 中央公論新社 (2004年10月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (308ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121600714
感想・レビュー・書評
-
ショーペンハウアー「 意志と表象としての世界 」
3冊(4巻)は長いが、認識論(主観と客観)に始まり、芸術論(純粋主観)を経て、倫理学(主観と客観の無)に終わる展開は見事。想像をはるかに超える結論(ユートピア)だった。
人生に関する名言格言も多い。西尾幹ニ 氏の訳も良かった
印象に残った論考
*生きんとする意志の否定し自由に転換することと、自殺と生きんとする意志の否定を明確に区別
*個体化原理を乗り換えて、苦しみを与える者と苦しみを受ける者は同一とした
著者が目指す人間像は「世界の超克〜真の認識を開き、生きんとする意志を捨離し、真の自由を得て、寂静たる生活振舞いをする」と捉えた
人生に関する名言格言
*人生は苦悩と退屈の間を往復している
*苦悩は人生の本質をなす〜苦悩は外から自分の方へ流れこんでくるものでなく、誰でも自分の心中に苦悩の泉をかかえて生きている
*他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。愛は共苦である
*普通人は認識によってでなく、苦悩を通じて解脱に近づく。苦悩には人を神聖にする力がある
苦しみを与える者と苦しみを受ける者は同一である〜永遠の正義(罪の悪と罰の悪を一つに結びつける天秤の竿)を認識するには、個体化の原理を超越することが必要〜輪廻の神話
生は 生きんとする意志 の模像であり鏡である〜表象としての世界において、意志の目前に 意志を映す鏡が現れ、鏡に照らして 意志は己れ自身を認識する
苦しみを与える者と苦しみを受ける者は同一である〜永遠の正義(罪の悪と罰の悪を一つに結びつける天秤の竿)を認識するには、個体化の原理を超越することが必要〜輪廻の神話
生きんとする意志の否定とは〜神聖さであり、意志の鎮痛剤の中から生じる。鎮痛剤とは 意志の内部抗争、意志の本質的な空虚性をいう
意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は意志の肯定の一現象である。自殺は個別の現象を破壊するのみで、意志の否定にはならず、真の救いから人を遠ざける
意志の否定こそ現象の中に現れる意志の自由の唯一の行為である〜意志の否定の本質は、苦悩の嫌悪にあるのではなく、人生の享楽を嫌悪することの中にある
自殺は意志の否定でなく、意志の強烈な肯定の一つの現象である〜自殺は現在の自分に満足できないだけにすぎない〜自殺者は生きんとする意志を放棄するのでなく、生を放棄して、個別の現象を破壊するととどまる
完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由が出現するという矛盾を解く鍵は、自由が意志から生じるのではなく、認識の転換に由来することにある
意志が自分の本質自体の認識に到達して、この認識の中から鎮痛剤を獲得し、動機の影響から脱したとき、意志の自由が出現する
意志の完全な否定に到達した人にとっては〜無こそが存在するものである。彼はいっさいの認識を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ
意志がなくなるとともに意志の現象がなくなり〜現象の一般形式である時間と空間もなくなり、現象の根本形式である主観と客観もなくなる
癒し難い苦悩と悲惨が意志の現象である世界の本質であることを認識し、意志の廃絶により世界が消え去り目前に空虚なる無が残る
意志を完全になくしてしまった後に残るものは〜無である。すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人々にとっては、現実のわれわれの世界が無なのである〜一切の認識を超えた世界〜主観も客観も存在しない地点
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
意志と表象としての世界の核心ともいえる第4巻と各種序文を収めた書。結局最後まで読んでみるとショーペンハウアーの哲学はインド哲学の煩悩と解脱、キリスト教の原罪と天国の対立項の構図にとても似ています。