意志と表象としての世界 (3) (中公クラシックス W 38)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (308ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121600714

感想・レビュー・書評

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  • ショーペンハウアー「 意志と表象としての世界 」

    3冊(4巻)は長いが、認識論(主観と客観)に始まり、芸術論(純粋主観)を経て、倫理学(主観と客観の無)に終わる展開は見事。想像をはるかに超える結論(ユートピア)だった。

    人生に関する名言格言も多い。西尾幹ニ 氏の訳も良かった

    印象に残った論考
    *生きんとする意志の否定し自由に転換することと、自殺と生きんとする意志の否定を明確に区別
    *個体化原理を乗り換えて、苦しみを与える者と苦しみを受ける者は同一とした


    著者が目指す人間像は「世界の超克〜真の認識を開き、生きんとする意志を捨離し、真の自由を得て、寂静たる生活振舞いをする」と捉えた


    人生に関する名言格言
    *人生は苦悩と退屈の間を往復している
    *苦悩は人生の本質をなす〜苦悩は外から自分の方へ流れこんでくるものでなく、誰でも自分の心中に苦悩の泉をかかえて生きている
    *他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。愛は共苦である
    *普通人は認識によってでなく、苦悩を通じて解脱に近づく。苦悩には人を神聖にする力がある


    苦しみを与える者と苦しみを受ける者は同一である〜永遠の正義(罪の悪と罰の悪を一つに結びつける天秤の竿)を認識するには、個体化の原理を超越することが必要〜輪廻の神話

    生は 生きんとする意志 の模像であり鏡である〜表象としての世界において、意志の目前に 意志を映す鏡が現れ、鏡に照らして 意志は己れ自身を認識する

    苦しみを与える者と苦しみを受ける者は同一である〜永遠の正義(罪の悪と罰の悪を一つに結びつける天秤の竿)を認識するには、個体化の原理を超越することが必要〜輪廻の神話

    生きんとする意志の否定とは〜神聖さであり、意志の鎮痛剤の中から生じる。鎮痛剤とは 意志の内部抗争、意志の本質的な空虚性をいう

    意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は意志の肯定の一現象である。自殺は個別の現象を破壊するのみで、意志の否定にはならず、真の救いから人を遠ざける

    意志の否定こそ現象の中に現れる意志の自由の唯一の行為である〜意志の否定の本質は、苦悩の嫌悪にあるのではなく、人生の享楽を嫌悪することの中にある

    自殺は意志の否定でなく、意志の強烈な肯定の一つの現象である〜自殺は現在の自分に満足できないだけにすぎない〜自殺者は生きんとする意志を放棄するのでなく、生を放棄して、個別の現象を破壊するととどまる

    完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由が出現するという矛盾を解く鍵は、自由が意志から生じるのではなく、認識の転換に由来することにある

    意志が自分の本質自体の認識に到達して、この認識の中から鎮痛剤を獲得し、動機の影響から脱したとき、意志の自由が出現する

    意志の完全な否定に到達した人にとっては〜無こそが存在するものである。彼はいっさいの認識を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ

    意志がなくなるとともに意志の現象がなくなり〜現象の一般形式である時間と空間もなくなり、現象の根本形式である主観と客観もなくなる

    癒し難い苦悩と悲惨が意志の現象である世界の本質であることを認識し、意志の廃絶により世界が消え去り目前に空虚なる無が残る

    意志を完全になくしてしまった後に残るものは〜無である。すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人々にとっては、現実のわれわれの世界が無なのである〜一切の認識を超えた世界〜主観も客観も存在しない地点

  • 意志と表象としての世界の核心ともいえる第4巻と各種序文を収めた書。結局最後まで読んでみるとショーペンハウアーの哲学はインド哲学の煩悩と解脱、キリスト教の原罪と天国の対立項の構図にとても似ています。

  • 度外れた歓喜や激しすぎる苦痛というこの二つを避けることができるためには、われわれは休みなく事物の全体的な連関を完全に明瞭に見渡して、それらの事物が帯びていて欲しいと望むような色彩であればこれを実際に自分の方から事物に押しつけるようなことをしないよう、辛抱強く警戒しつづけるだけの自制心を有していなくてはなるまい。p22

    根拠の原理にとりすがって前へ進み、個々の事物にしばられているこのような認識―これを超越し、イデアを認識し、「個体化の原理」を突き破って見ている人、現象の諸形式などは物自体にとって関係がないということを自覚している人だけが、永遠の正義を理解し、把握する人であるだろう。さらにまたこのような人だけが、この同じ認識の力を借りて、徳というものの真の本質を理解することができるただ一人のものであり、徳の本質については当面の考察とつないでやがてわれわれに解明されることと思う。
    つまり今述べた認識に達している人は、意志こそはあらゆる現象の即自態 das An-sich なのであるから、他の人々にふりかかる苦しみもわが身のこうむる苦しみも、悪も禍も、現れ出る現象はたとえまったく異なった個体として成立し、たとえ遠い時間と空間によって距てられてさえいるのだとしても、それでもつねに、ただあの唯一同一の本質にのみ関わりがあるのだということを明瞭に知るにいたるであろう。彼はまた、苦しみを課する人と苦しみを耐えねばならない人との差異はしょせん現象にすぎず、物自体―この二人のいずれのうちにも生きている同じ意志―にはそういう差異は関わりがないことを見破っている。こうした場合、二人のうちに生きている同一の意志は、意志への奉仕にしばりつけられている認識に欺かれて、意志は自分というものを見誤り、その現象の中の一つにおいては幸福を高めることを求めるかと思うと、もう一つ別の現象においては大きな苦悩をこうむらせたりして、こうして激しい衝動に駆られ、意志はわれとわが生身の肉を噛み砕きつつ、しょせんつねに自分自身を傷つけているにすぎないのだということを知らない。こんな風にして、意志はおのれの内部に包蔵する自己自身との抗争を、個体化という媒介を通じて表面にあらわす。p106-107

    世界の本質全体を抽象的に、一般的に、明瞭に概念のかたちで再現し、かくて世界の本質全体が反映している模像として、理性の永続的で不断に用意された概念のうちにこの世界の本質を託すること、これこそが哲学であり、哲学とはこれ以外のなにものでもない。p176

    この世界の掲げ得る最大にして、最重要、かつ最有意義なる現象とは、世界を征服する者ではなしに、世界を超克する者である。世界を超克する者とはすなわち、真の認識を開き、その結果、いっさいを満たしいっさいの中に駆動し努力する生きんとする意志を捨離し、滅却し、そこではじめて真の自由を得て、自らにおいてのみ自由を出現せしめ、このようにして今や平均人とは正反対の行動をするような人々、そのような人々の目立たぬ寂静たる生活振舞い以外のなにものでもじつはない。p181

    彼の眼差しがいちいちの個別的な苦しみから普遍的な苦しみへと高められていって、彼が自分の苦悩を全体の単なる範例にすぎないとみなし、倫理的な点で彼が天才となって、一つの事例は百千の事例に当てはまるものであるという風に考え、こうしてこの生の全体が本質的な苦悩であると把えられ、生の全体が彼を諦念へと導くにいたったとき、そのようなときにはじめて、彼はほんとうに尊敬に値する人物として立つことができるようになるのである。p203

    《第一版への序文》
    本書の中で提示した思想を深く会得するためには、この本を二回読むよりほかに手だてがないことは、おのずと明らかである。しかも一回目は大いに忍耐を要するが―本書では終りが始めを前提とするのとほぼ同じくらいに始めも終りを前提としている、つまり後の各部分が前の各部分を前提とするのとほぼ同じくらいに前の各部分もやはり後の各部分を前提としている―このことを読者の方が自発的に信じてかかって下さらねければ、こうした忍耐は得られないのではないかとわたしは思う。p249

    しかし人生は短いが、真理は遠くまで影響し、永く生きる。さればわれわれは真理を語ろう。
    1818年8月、ドレスデンにて誌す。p259

    【第二版への序文】
    哲学はもう久しい期間一般に、一方では公けの目的のために、他方では私的な目的のために、手段として使われざるを得なかったのではあるが、わたしはそんなことには妨げられずに、もう三十年以上も前からわたしの思想の歩みを追っかけてきた。それはほかでもない、わたしはそうせざるを得なかったからであり、一種の本能的な衝動に駆られて、そうする外には仕方がなかったからである。しかしこの本能的な衝動の支柱となっていたのは、誰か一人が真実のことを考え、隠れたことを照らし出しておけば、それはいつか必ず思索力をもった他の精神によって把握せられ、その人の心を惹きつけ、喜ばせ、慰めることになるであろうという確信である。p256

    いつの世にも、ほんものの著作にはまったく独特な影響力、静かな、ゆっくりひろがる、強力な影響力が残っているものである。あたかも奇蹟によるかのように、ついにそれが喧騒の中から立ち昇っていくさまを世人は目にすることだろう。それはさながら軽気球が、地球空間の濃厚な大気圏を超えて透明な層に昇っていくさまにも似て、ひとたびその層に到達するとそこに静止して、もはやなにびともそれを引き下ろすということは、できない。
    1844年2月、フランクフルト・アム・マインにて誌す。
    p282

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