アリストテレスは国家を家族や村落と同じような人間の共同体の一つとしてとらえ、それが人間の自然にもとづくものであって、自然に対立するものではないことを主張し、さらに国家を構成するものはアトム的個人ではなくて、むしろ家族という共同体であり、これが発展して村落をなし、国家にいたることを論じている。有名な人間を「ポリティカル・アニマル」とする規定は、人間が結局においてポリス(国家)を形成する動物であるというのであり、「ロゴスをもつ動物」としての人間規定も、これに一致することを示すとともに、蟻や蜂などの群棲動物と人間とが区別されるゆえんをも明らかにしている。p5
共同体に入り込めない者、あるいは自足していて他に求めることのない者もしあるとしたら、それは国家社会のいかなる部分ともならないわけであって、したがって野獣か神かであるということになる。p19
法的秩序を保ち正義を行うことは、国家の仕事なのである。なぜなら、法的秩序は国家共同体の秩序づけであり、法的秩序を保つこと(正義を行うこと)は、正邪を判別することにほからないないからである。p19
市民国家は同質でないものから成り立っているのであって、それはちょうど動物は、まず直接的には魂(生命と意識)と身体から成り、その魂は計理するものと欲望するものから成り、家族は夫婦、家産は主従から成るように、市民国家も同様にこれらすべてのものを構成分子として含む。p40
「富」と「自由」こそ、有産者、無産者の両者が、それぞれ国政参与を主張する論拠となるものなのである。p62
真の市民国家(ポリス)と呼ばれるのに値し、単に名目上のものにとどまらない国家は、徳(よさ、優秀さ)に配慮しなければならないということになる。p66
国家共同体は、よい、りっぱな行為(よい、りっぱな生活をすること)のためにあるのであって、ただいっしょに生活するためにあるのではないとしなければならない。p69
奴隷に関して「笛と笛吹きの例」p84
最善の国制に関していえば、徳に従った生活をめざして、治められることも治めることもともになしうる能力があり、かつ自分でその両方とも選びとる者こそが市民なのである。p91
多量のもののほうが損なわれにくいーそれは多量の水が少量の水より汚染されにくいのとちょうど同じで、大衆も少数者より悪に染まりにくい。p108
「絶対王制(パンバシレイアー)」p114
プラトン『国家』にみられる「魂の三部分」ー「理性」(ヌース)、「気概」(テューモス)、「欲望」(エピテューミア)p120
最小最善の国制は、最小最善なる人々によって治められるものでなければならない。
明らかに、人がしかるべき徳をそなえたりっぱな人間になるのと同じ仕方で、また同じ手段を用いて、貴族制(最優秀者支配星)ないし王制の統治形態をとる国家は構築されるべきであろう。p125
【諸国家体制の類型】
正しい国家体制として王制、貴族制、共和制
他方それらが邪道にそれたものとして王制からは独裁制、貴族制からは寡頭制、共和制からは民主制 p131
民主制というのは自由市民が主権を握っている場合のことであり、寡頭制というのは金持ちが主権を握っている場合のことであるというべきであろう。p138
【国家はあらゆる部分から成るーアニマルアナロジー】
第一にどの動物でも必ずもっていなければならない部分をはっきり区別して取り出していいだろう。たとえばいくつかの感覚器官、口や胃のように食物を受け入れて消化するところ、さらにまたそれぞれの動物が動くときに使う部分などである。
ところがさてそれらの部分の数はただそれだけだとしても、それらにはまたいくつかの差異があるとすればーわたしがいう意味は、たとえば口にもいくつもの種類があり、胃や感覚器官にもまた運動器官にもいろいろあるとするならばーそれらの差異の組み合わせによって必然的に動物の種類の数も多数ということになるだろう。
国家もただ一つの部分からではなく、もっと多くの部分から構成されている。
①農民②手工職人③アゴラ(市場)に出入りする人たち④日雇労務者⑤国防に従事する人たち⑥ p140-141
もしひとが魂も動物の部分であり、身体より以上にそうであるとするのならば、国家の場合でもそれに当たる部分のほうが、やむをえない必要のために向けられる部分より以上に国家の(本質的な)部分であるとしなければならない。すなわちそれは戦争をする部分、法廷の正義にあずかる部分、さらにこれらに加えて国政を審議する部分がそうである。p142
帰属制(最優秀者支配制)と呼ぶのが正しいのはただ一つ、徳という点で無条件に最もすぐれている人々から構成されている国家体制だけであって、何か特定の条件の下でだけすぐれているにすぎない人々から成る国家体制ではないからである。p155
ところで貴族制の一番の大きな特徴と思われているのは、名誉ある役職が徳にもとづいて配分されているということである。なぜなら貴族制の特徴を示すものは徳であり、寡頭制の場合は富であり、民主制の場合それは自由であるから。p158
最善の国家体制、すなわち中間的な国家体制 p166
国家体制というのはある意味で国家の生き方のようなものである。p167
国家を構成する階層の質と量の均衡関係と国家体制との対応。国家体制存続の条件 p173
民主制は、とくに、デマゴーグ(民衆煽動家)の無軌道ぶりが原因となって体制の変革が起こる。というのは、このものたちは、財産をもった人たちを個々別々にとらえて、あることないことをいい立てて裁判に引きずりこんだり、そうした富裕な人々の階層にたいして大衆をけしかけたりして、これらの人たちを結束させるからであるー共通の恐怖は、不倶戴天の敵同士をも結ぶー。p224
公職で私腹をこやすことを不可能にすれば(体制は安泰であるばかりでなく)そのときには、そしてただそのときにのみ、民主制と貴族制との共存(結合)が可能となるのである。p248
国政に参与している度合の少ない階層ーすなわち、民主制においては富裕な人々、寡頭制においては貧乏な人々ーに、体制の中枢となる役職は別として、それ以外のことがらにかんしては、他と平等の待遇、ないしは他より優先の待遇を与えるということ、これが、民主制においても寡頭制においても国益に合致することなのである。p250
身体にたいする侮辱と若者の童貞にたいする侮辱はつつしむがうえにも、つつしまなければいけない。p283
国家は二つの部分から成り立っているのだから、すなわち貧しい人々の階層と富裕な人々の階層から成り立っているのだから、そのいずれもが、自分たちの安全はかれらの支配のおかげであり、また自分たちが他方のものから不正をうけないのもそのおかげであると考えるように仕向けなければならない。p284
最善の国制について適切な探求を行おうとするものは、まずもっとも望ましい生活とは何かであるかを規定しておかなければならない。p294
善には外部的な善と身体の善と精神の善の三つの種類があり、至福の人にはそれらのすべてがそなわっていなければならない。p295
幸福に生きるということは、外部的な善を必要以上に所有しながら徳において欠けている人々よりも、品性と知性を高度に練磨して外部的な善の所有はほどほどにしている人々にこそ、よりいっそうそなわっているのである。p296
人にはそれぞれ、その人のもつ徳と思慮に応じて、そしてまた徳と思慮に即した行いに応じて、まさにそれだけの幸福が与えられるのである。p297
最善の生活とは、個別的には個人の場合にも、公共的には国家の場合にも、特に即した行いをなすに足るだけの手段が用意されている徳、そういう徳をともなった生活である。p298
<注釈より>「外部的な善」とは富、名声などを、「身体の善」は健康、体力、美貌などを、「精神の善」は勇気、節度、正義、思慮などをさす。そしてアリストテレスでは「精神の善」が「徳」とよばれる。p299
<注釈より>「観照の生活」とは、実社会での活動を離れて、森羅万象の学問的な観察と考察をもっぱらとする生活のことである。p305
思考の場合にしても、行動から生じる実際的な結果を目的とする思考だけが行動的であるのでもない。むしろ、それ自身のなかに目的をもち、それ自身のためになされる観照や思考が、いっそうはるかに行動的なのである。p309
<注釈より>「気概(激情)」と訳した原語「テュモス」は一語の日本語におきかえることの困難な言葉である。テュモスは心の「感情のはたらき」をあらわすが、とりわけ、勇気、気力、怒りなどのような強くて激しい感情をさし、その座は胸にあると考えられていた。p324
【国家が必要とするもの】
①食糧
②技術
③武器
④内需と戦費を賄うために、かなりの額の金銭が融通できなければならない
⑤神事の世話、いわゆる祭祀
⑥公共の利益と市民相互の間の正邪についての判断を下す仕事 p327
⇒多数の農耕者、職人、兵士、富をもつ人々、神官、そして何が必要であり、何が利益であるかを判断する人々が必要となる p328
<注釈より>ギリシア人の常識では、ある制度の古さ(伝統の長さ)はその制度の正当性の証拠となる。p336