ホモ・ルーデンス (中公文庫 D 4)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (477ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122000254

感想・レビュー・書評

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  • 若い時分から言語学に秀で、歴史学、文化史に功績を残したホイジンガの晩年の大作です。タイトルにあるホモ・ルーデンスとは「遊ぶ人」という意味です。ホイジンガの考えのなかでは、人間は遊んでこその存在。遊びの中の真面目さもよし、娯楽としての遊びもよし、命を賭けた遊びも認めます。そして本書の最後のほうでは、「すべては遊びなり」という言葉が本論を締めくくるのに「ふさわしい結語として湧きあがってくる」と書いてあります。

    遊びのなかに遊びとして文化が生まれる、と大きく、そして濃密に論じ始めて、それから法律、戦争、競技、詩、哲学、芸術といった相を「遊びの論」の観点から見ていくという流れです。なかなかややこしいですが、ここぞというところで肯かせられたり気付かされたりする部分は多く、ホイジンガと共に対話を重ねながら読者も考えを深めていくといった読書になりました。

    ホイジンガの定義する遊びとはどうなのか気になると思いますので、以下に引用します。
    _____

     もう一度だけ、遊びの本来の特徴と思われるものを数え上げてみよう。それはある時間、空間の限界のなかで何か意味をもって進められていく一つの行動である。それは、目で見てわかるある秩序にしたがい、自らの意志で受け入れた規則によって、物質的有用性あるいは必要性の領域の外で行われる。そのムードは熱狂と陶酔のそれであり、またそれが奉献のためにあるのか娯楽のためにあるのかに応じて、神聖なものになったり、単に祝祭的なものになったりする。高揚感と緊張がその行為に伴い、歓びと心のほぐれがそこに生まれる。(p276)
    _____

    つまり、時間や場所が限定されていて、決められたルール(あるいは、あらかじめ踏まえているルール)に則って行われるもの。生活上または仕事上などで必要だったり役に立つことだったりといった有用性はまず念頭におかれないのです。

    裁判も決闘も戦争も遊びの範疇であることが本論からわかるのです。しかし、本論自体にホイジンガであっても白黒つけられていない部分があって、そのために本論のそこかしこに揺らぎを感じます。なので、やっぱり「読みながら自分で考えてみる」という行為がつよく求められてきます。どんな本でもそういった性質をもっているものですけれども、本書は現代人の書くものに比べるともっと、出来あがっていないどろどろしたものを放り投げてくる感があります。

    僕のいう、その揺らぎの最たるものが「遊び」と「真面目」の二項対立の図式です。これは本書の「遊び論」についてまわっていることのなかで最大のテーマに位置すると思うのです。でも後半では、遊びの反対が真面目、というようにごく単純に語られる部分があって、反対に前半では、真面目は遊びのなかにでもあるものだが真面目のなかに遊びはない、だから遊びは真面目を内包するものであり真面目より大きなものだといえるというように論じている部分がある。こういうところは後世にその分析を委ねたのかなと考えるところですが、後世に生きる僕のような一般読者ではその分析は困難なのでした。

    子どものふざけあいから命を賭けた遊びまで、どうやら人は遊ぶことから始まる存在のようです。ただ、世界大戦の頃から言われる、現代の「全面戦争」は遊びとは言えないものになってしまった、と。名誉や誇りをかけて戦う近代までの戦争は遊びの範疇だと解釈できたのに、現代の全面戦争は遊びから逸脱してもはや遊びではないというようなことをホイジンガは言うのです。真面目にやってしまうことになり、陰惨さが増大した。

    ホイジンガによると「遊び」があってこそ文化は生まれる。そして「遊び」が失われるということは滅びへ向かっていくこととなる。たとえば全面戦争というものを考えると滅びへ向かうものだとよくわかる。また、僕の読解だと、全面戦争だけじゃなく、人の負の感情や、負の感情に寄り添ったりする行為も、遊びから逸脱したものなんじゃないか、とふと思ってしまう。悲しみや苦しみといった人間のマイナスの感情について考えを及ばせると、そこに「遊び」はないように感じるということです。すわちそれは滅びへ向かうものだと考えることができるし、実際そういう性質のものだとも思います。

    たいていのことが「遊び」だと知ると楽な気分で生きられるのではないでしょうか。僕はそういう気分になりました。しかしながら、「ほぼすべてのことは遊びである」と割り切った意識を常に強く持とうとすると、悲しみや苦しみの感情、共感、慈しみ、愛情などといったものが薄っぺらいもののように感じられてきます。これは遊びの大きな一面である「娯楽のイメージ」に引きずられることもありそうだけれども、それより遊ぶことの独善性が関係していないだろうか。そして、その姿勢では、たとえば小説は書けなくなるでしょう。

    「遊び」以外のものに目を向けると疲れるし、取り込まれる恐れもあるものだと思う。滅びの性質をもつものと自らはしっかり対峙して「遊び」の領域に立って臨めればいいのでしょう。そう考えていくと、小説とは、「遊び」以外のものを「遊び」とつなぐものなのではないのだろうか。「遊び」と「遊び以外」の境界線上に立ち、両者を断絶させない行為が小説を書くことかもしれない。たとえば他者のマイナスの感情に対してまっすぐ見つめるということをする。できるならば寄り添う、手を差しのべる、それは滅びから脱するため。小説を書くとはそういった行為なのかもしれない。

    閑話休題。

    十九世紀にはいってから遊びから真面目へと傾斜していったと語られています。その流れの下流にいま現代があるとしても、「それでいいのか?」感があります。真面目、真面目でやってくと行き詰りますから。さらに、本書の前半で「遊び」を無くして滅ぶことにも言及がありますし。じゃあ現代の一般大衆の遊びってなんだろう、とちょっと考えてみると、ゲーム機やスマホ、パソコンなどのゲームって盛んな分野だからそれで真面目から距離を置くような時間や体験になっているのかな、と思えます。

    遊びと真面目をしっかり弁別している現代であるがために、そうじゃないものを攻撃したり排斥したりする態度ってあるなあと思います。そこの窮屈さというか気持ち悪さはあるんですよねえ。汽水域みたいなところにも独自の価値や意味はあるように思いませんか。On-Off、ゼロ-イチじゃなくて。グラデーションとして考えてみる。

    グラデーションのイメージで思い当たることのひとつに量子コンピュータがあります。これが今後一般的になっていくと、その有り方も一般的に広まってコモディティ化していってグラデーション的なものがもっと市民権を得だす、という流れになったりするかもしれないですね。

    そうやって、遊びは真面目に負けそうになっても騙し騙し生き延びていくのかもしれません。もしくはどこかのタイミングで復権していくことだってあり得る。というところで、真面目な分野の最たるものについてホイジンガが述べているところを引用します。
    _____

     こういうわけで造形作品には、それが生命を吹き込まれ、享受されるための公的な行為の場が欠如している結果、この分野では遊びの因子のための余地が、もともとないように見えるのである。造形芸術家は、どれほど創造衝動に憑かれていようと、一人の職人のように緊張し、一心不乱になって働き、絶えず己れを検討しては改めてゆかねばならない。彼の感激もそれをいまだ構想しているうちは、まことに自由奔放で激しいであろうが、いったん制作の実行に移れば、彼はつねに、造形する手わざに服従してゆかねばならない。こうして作品の制作にあたっては、遊びの要素などどうやら存在しないように見えるし、また、それを眺める、鑑賞するという場合にいたっては、
    まったくそういう点がないのである。それには何ら可視的な行為というものが含まれていない。
     このように物を創る仕事、職業といった性格が、造形芸術に対して遊びの因子が働くのを阻止している。(中略)物を製作する人間の課題は真面目なもの、責任重大なものである。すなわち、遊びめいたものは、いっさいそれとは無縁なのである。(p342-343)
    _____

    これには建築も含まれると思うのですが、この引用文の内容をあてはめてみると腑に落ちますね。こういう業界って、ルーズさをまといながら、でも、真面目を尺度としていますし、そうじゃなかったら使うのに危険な建築物になってしまいます。そこで、文化を創る人間として、滅ばないための人間として、わきまえる知性が欲しいですし、この業界の外にもおなじ真面目な尺度を優先的にあてはめられだしたら敵わないな、という気がします。

    というところで御終いです。

    遊びを復権しうるものは、まずは知的好奇心と、そのあとの学びの行為にあるかもしれない、そういった予感のようなものがちょっと芽生えました。

  •  始めにもう本書の結論が提出されている。つまり文化の根源には遊びがありそれが創造的要因となり文化を形成していった、と。その後のページは言語や法律、競技、戦争、哲学、詩など多くの領域の具体例を援用してその主張を固めっていってるのだけれど、やはりこのスタイルの進め方は「金太郎飴」みたいになってしまい、「どの章を読んでも同じようなことを書いてる」ことになり読み手としては、退屈を強いられる。小熊英二×古市の対談において小熊(&うちのゼミの先生)はこんなことを言っている。

    「著者が自分のなかに予めある見解をそのまま出しましたという本は、好きじゃないんですね。その作品を作る過程で著者自身が変化していったり、化学反応を起こしているものが好きです。そういう化学反応がない人は、何を書いてもみんな同じになってしまう。」

    まぁ論証のスタイルについて文句を言ってもしょうがない面はある。内容に関して興味深かった点が特に一つ、ホイジンガは終章にて遊び要素が現代においては経済生活に導きいれられた、と書いている。この本が書かれたのが38年でこの上述の主張は経済のスポーツ化を指摘しているが、アップルやグーグルのオフィスの映像を思い出したとき、そこにはまさに遊びの空間が展開されていた。もしかしたらこれからの時代、閉塞を打破し時代を切り拓くのは遊びの創造的機能かもしれないのでは…と思う。

  • 遊びと文化を論じた名著

    無償の遊戯的活動こそ文化的活動の芽生える母胎となる

    数字をもとにエンジニアリング手法が主流になっている現代、〇〇に役立つから、などというものを忘れた活動を取り戻したい

  • 想像していたよりも深く、難しい内容だった。
    (「遊び」の歴史が主題であると思っていた)

    そもそも生物として人間が持っていた「遊び」の要素が様々な文化を生み出し、「真面目」に属すると思われるものについてもその根幹には「遊び」の要素があったりする…みたいな話なのでしょうか。

    「遊び」に基づくものが自然であり、「真面目」が行き過ぎるとそれらを歪めてしまうものであるというのは今も変わらぬ心理やもしれません。

  • きだみのるは人間をまず「定義できないもの」としたうえで定義したが、こちらもいろいろ葛藤の果てに遊ぶものとして人間を指したと思われる。
    アレア(機会) アゴーン(闘争) ミミックリー(模倣) イリンクス(幻惑)、これらはすべて神のミミックリーであり、魔術の根幹である。
    ロジェ・カイヨワがたたき台として使ったわけだが、本書はまだ面白い。

  • 人間のほとんどすべての活動を「遊び」という視点から見直してみた画期的な著。何より、著者の語学力と博識ぶりに驚嘆させられる。

  • 「遊び」こそ人間の本質という主張は、労働に支配された近代において大きな意味を持つと思う。遊びと学びと働きが行き来する高次の人間性に気づかせてくれる

  • いや、難しすぎやろ。全然意味が頭にはいってこない(笑)

  • 人類の活動はすべて「遊び」から始まると論じる内容。
    「遊び」として文化は生まれ、発展してきたと説く。

    豊富な事例を交えて説明しており、自分にはかなり難解であった

  • ありとあらゆる「全て」は遊びなのか

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著者プロフィール

1872~1945。歴史家、文明批評家。フローニンゲン大学卒業。フローニンゲン大学、ライデン大学で教授職を務める。ライデン大学学長。著書に『中世の秋』『ホモ・ルーデンス』『エラスムス』『わが歴史への道』などがある。

「2018年 『ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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