パンセ (中公文庫 D 8)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (644ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122000605

感想・レビュー・書評

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  • 物事の価値が両義的であることを、
    しっかりと捉えつつ、懐疑論に与しない。
    その代わりに、キリストへの愛をもって、
    人生の価値を担保しようとする。

  • 青年時代に三木清の『 パスカルにおける人間の研究 (岩波文庫) 』を読んで以来、キルケゴールやハイデガーの先駆者としての実存哲学風のパスカルの印象を長らく持っていた。それもパスカルの重要な一面であろうが、実際に読んで見ると『パンセ』はそれに尽きない魅力に溢れている。

    一例をあげると、パスカルは懐疑と独断のいずれにも全面的には与せず、両者の間で何とか平衡を保とうとする。この点で、極端を排する常識(コモンセンス)、あるいは良識(ボンサンス)を持った人に思える。「二つの行き過ぎ。理性を排除すること、理性しか認めないこと(断章253)」「われわれが徳の中に身を保っているのは、・・・相反する二つの悪徳の釣合によってである。それらの悪徳の一つを取り除くがいい。われわれは他のほうにおちこむだろう。(断章359)」「この世では、一つ一つのものが、部分的に真であり、部分的に偽である。・・・何ものも純粋に真ではない。(断章385)」『パンセ』には求道者パスカルとはまた一味違ったこうしたバランス感覚が随所に顔を覗かせている。

    もっとも、本書は元々キリスト教の護教論として構想された未完の書物の草稿群であり、信仰のない人生がいかに悲惨であるか、信仰と理性の適切な関係はどうあるべきか、といった問題が主要テーマになっている。そして後半は聖書について相当な知識がないとかなりつらい。注と聖書本文を照らし合わせて読まなければ、断片的な記述にどんな意図がこめられているのか殆ど理解不能だ。とは言え、その大半は前半の思索を聖書の具体的な言葉に関連づけて再論したものであり、前半だけ読んでもパスカルの全体像はある程度掴めるだろう。

  • キリスト教擁護論。ヤンセニスム寄り。

    でも
    訴えていることは
    恩寵ももちろんなのだけれど
    神様の愛

    ストーリーではなく
    いろんな思考の葉を重ね合わせたもの

  • 2016.10.25
    第8章までで断念。どうも宗教に関することは入って来にくい。が、学びは多くあった。実存哲学の先駆けとも言われるパスカルの人間洞察は、確かにと唸らせるものがある。人間は悲惨な存在であるという。考えたいのは、実存と愛について。
    人間存在、実存は、悲惨であるという。全てを知ることもできなければ、また全てを知らないということもできない。自分の存在の意味、生きる意味も知らなければ、生まれた瞬間に死が決定されている。このような自分の存在の悲惨さから目を背けるために、気晴らしをするのが人間だという。狩をするのは獲物を手に入れたいからではない。狩をすることで自分の存在の悲惨さを忘れるためである。そんな人間の悲惨さを救済するのが、キリスト教であるという。しかし多くの人間は、神の存在を認識できないが故に無神論者となり、また神とは〇〇であるとか、真理とは〇〇であると自分で決めつけることによって理神論者になる。ここには、自分の悲惨さを直視せず、神を信じないもしくは神に成り代わろうとする人間の傲慢がある。神が見つからないだけではなく、求めようともしないこのような人間にパスカルは閉口する。こうして人間の大半の状態は、絶望と高慢であるという。自らの存在の矮小さに苛まれる人間の絶望は、神なしでは絶えることはできない。自らの存在の汚さを直視しない傲慢さは、それもまた神から最も遠いという。人間が救われるためにはキリストを信仰せねばならない。神の存在は人間を超越している以上、人間の理性で神の存在を証明できるはずはない。しかし、求めるものは世界の中に神を見いだすことができる。この著の最初の部分に、理性的認識と感性的認識について書かれていたが、まさに神とは、幾何学や論理学のように証明できるものではなく、感じるもの、しかし確実にその存在を直感できるものであり、その直感の条件として、神を求めることが前提としてあるのだろう。故に、求めなければ、見えない。神の存在を知ることによって、人間は救われる。そのためにはまず、人間の高慢を改め、人間存在の矮小さを徹底的に自覚しなければならない。私はゴミ以下の存在であることを芯から理解せねばならない。気晴らしや、高慢になることなく。その上で救いを神に求めた時、神の愛に気がつく。私は神と一体であったことに気がつく。死後の永遠の生が約束される。絶望の深淵に降り立つとき、人はその絶望の原因を、乗り越えることができるわけである。このとき人間は、悲惨な存在でありながら、絶望も高慢でもない、という状態に行き着く。
    私は無神論者である。2億人いる仏教徒の一人である。私は宗教とは人間の生み出した発明だと思っている。そんな私が、このパスカルの宗教への帰依に深く共感したのは、私は神とは別の経験で、この状態を知っている、経験しているからである。それは私にとって、「愛されるためには」という問題であった。私は愛されるために、いい子であろうと生きてきた。しかしいい子であることで愛されてきた、というより、私は「好かれて」きたのであって、私でなく、私の能力や振る舞いなど性質が好かれたのであって、この私が愛されているのではないと、無意識的に感じてきた。その後、諸事があり、絶望に堕ち、いい子アイデンティティは崩壊した。しかしその崩壊した、つまり「いい子」ではない私になって初めて、それでも私と関係を持ってくれる他者に対して、私は「ああ、愛されてるな」と思えたのである。私にはこの問題が理解できなかった。人当たりがいいから愛される、これは論理的である。しかし、私は畜生であるという自己認識に陥った時、それでも私を好きでいてくれた人は、なぜそうだったのだろう、それがわからない、そして、それがわからなく、非合理故に、私は私の性質や属性が愛されているのではなくこの私という存在が愛されていると感じた、実感できたのである。メタ視点での愛されている状態とは、わかりやすくイメージできる、しかし主観に立った「愛されているという自覚を伴った経験」は、そうはいかない。それは理性や論理を超えたところにある以上、経験無しにはその存在にも気がつかない。こう考えると、私が愛されていると頭でわかるのでなく、主観的に実感できる条件とは、「その愛に理由がなく非合理で説明がつかない、つまり無条件の肯定」であるということがわかる。私はこの機能を、宗教が担っていたのではないかと考える。パスカルはいう、自分の悲惨さを直視し、自覚し、それでもなお神に救いを求めるものに、救いは与えられる、と。救いとは、愛とは、神からの恩恵なのであって、こっちが働きかけて得られるものでもなく、論理的に説明がつくものでもない。故に、私はこんなにもクソでカスでとても神の愛に値しないという絶望が、それでも神はあなたになぜか愛を与えることにつながり、無条件の肯定を受けた人間は、自分が悲惨な存在であることを知りながら、その存在のまま肯定してくれた神を崇め、高慢になることもないのである。私の「受愛の実感」という経験と、この神の愛の経験のパラレルは、何か意味があるのではないか。私は宗教は、人間の発明だと言った。もっと言えば、人間の実存的欲望が生み出した発明だと考える。人間の無意識的かつ根源的な欲望に、このような愛への欲求があるのではないか。この欲望が長い時間をかけて無意識的に、宗教という物語を創作したのではないか。またその受愛の実感の起源は、我々は赤子の時、何もなせず、一人では生きることもできなかったとき、親から愛されたという、まさに無条件の肯定の経験を起源にしているのではないか。なんて考えたりした。人間の実存として愛への渇望があり、その渇望を救済する装置として宗教が存在しているのであれば、私のような無神論者にとっても宗教は興味深いものになるな、と思う。
    加えて、もし無条件の肯定が受愛の実感の条件であり、人間がその存在の根底で求めているものがそれだとするならば、いい子、すなわち自分が正しいという理由で愛されるということは、愛ではなく「好かれる」ということであり、ここには求めていることと得ていることのズレがあることになる。思い出されるのは、大人しくていい子のブチギレ、そういう子に限って何をするかわからないという現代の風潮である。親に愛されなかった人間は、やはり愛の欠乏故に自己愛的になる、これは論理的にわかる、けど、いい子ねと育てられた人間もまた、自己愛的になる。なぜか、彼は彼の性質を愛されていたのであって、彼が愛されているという実感を持てなかったからである。その意味ではいい子の方が、自分が愛されているという勘違いを生みやすいという意味で悲惨である。一方は自分の努力如何に関わらず愛されなかった肯定されなかったという欠乏であり、もう一方は愛される努力をした故に、愛されたが、それは好かれただけだった、愛は受けられなかったという欠乏なのである。そしてこの意味での「受愛」の実感の有無と、自己愛は反比例する。つまり自己愛が高い人間ほど非合理的な愛の実感及び経験の記憶がなく、あるほどに自己愛は緩む。愛をめぐるこのような問題は、是非とも考えていきたい問題だと思った。あとはー、パスカルの人間洞察の皮肉な感じ、パスカルの賭けに見える信じるということの意味、人間は考える葦であるという有名な名言、理性的認識と繊細と呼ばれた感性的直感との違いとか、面白かった。「哲学を馬鹿にすることこそ真の哲学」だという意味は、頭だけで考えた哲学を、頭と心で、この目で見てこの体で感じたもので考えることで乗り越えろ、という意味と受け取った。そういう哲学人でありたい。

  • 人間は生まれたときに死へのカウントダウンが始まっている。
    でもそれを考えるのが怖いので、気晴らしを求める。

    昨日(2012/8/26)都内某所で自身初の哲学読書会を開催した。
    その記念すべき初回にパスカルのパンセを課題本として選びました。

    NHKの100分de名著6月号や、今年猫町倶楽部で暇と退屈の倫理学を
    呼んでパスカルのパンセに非常に興味を持ったので課題本とした。

    パスカルは恐るべし人間への観察力を持っていた。
    もともと数学の天才だった彼が論理的に物事を考える能力を駆使して
    人間を観察するもんだから、人間についてのコメントは300年も色あせない。

    僕が気になった断章。412と413。理性と情念について書かれている。
    人間は常に理性と情念の間で戦いをしている。
    こうして人間は常に分裂し、自分自身に反対している。

    例えば情念ではやりたいと思っていることを理性が止める。
    これっていいことだろうと思うけど、
    時にこの決断は僕を欲求不満にさせる。
    生理的にやりたいことを否定するわけだから。

    もう一つ気になったのは断章162
    。人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。
    原因は私にはわからない何かであり・・・。
    この章と断章163はグサリと心に刺さる。

    こうして人間は不幸である、死について考えるのが怖い、
    考えることが原罪であると言い切るんだが、
    考えて考えて考えまくる人間は尊厳だといい、
    人間は考える葦であるというあの名台詞へと至る。

    これ以外のことは参加者に解説としてお伝えすることができたので、
    ここではデカルトとパスカルについて述べ感想を終えよう。

    デカルトとパンセは当時犬猿の仲だった。
    パンセでは徹底的にデカルト批判をしている。
    でも我々の先輩方はデカルトの理性は万能であるという考え方を採用し、
    デカルトは近代哲学の祖といわれるまでになった。

    でも21世紀になってから、そのデカルト的な考え方にひびが入っている。
    その典型が原発事故。絶対安全だと政府は言ってきたので、
    国民はそれを信じてしまった。でも結果はご存知の通り。
    地震で安全神話は崩れた。パスカルは理性には限界がある、
    時には直感を信じないといけないといっている。
    あらゆる現象、出来事はメカニズムがあるというのはもはや一般人の
    我々でも信用することが出来ない。
    今こそパスカルの考え方に再度焦点を当てるべきではないか。

    (参考資料:NHKの100分de名著-6月号)

  • 644ページもあって,読み応え抜群で,ちょっとしんどかった.
    読むのに2週間もかかった.
    エリック・ロメール監督の映画「冬物語」で,登場人物がこのパスカルの言葉を引用しているシーンがあって,それが非常に心に残ったので読んだ.

    冬物語より,パスカル「賭の論議」
    「霊魂の不滅に賭けた場合,利得は大きく,確率の低さを補いうるし,不滅でないとしても不滅を信じることでよき人生を送れる」

    というものであった.
    私はこの出典がおそらく「パンセ」だろうと思って,読んだ.
    実はこのパスカルの「賭け」についてという議論は有名な話らしい.
    私が知らなかっただけだった.
    上の論議ではそのロジックがいまいち不明瞭だけれども,本の方ではもうちょっと詳しく書かれている(ただし納得できるものではないが).

    私は上のようなパスカルの考え方が好きだ.
    これは神の有無などの問題を考えるときだけの話ではない.
    何かをすべきかどうか,の判断で私がよく用いるロジックである.

    人間,何かをすべきかどうか迷う場面がよくある.

    する  → 後悔する
    する  → 後悔しない
    しない → 後悔する
    しない → 後悔しない

    の4通りがある.
    だから,してもしなくても,後悔するかもしれないし,後悔しないかもしれないということになる.

    ところで,この「後悔」とはなんだろうか??
    当然,「しなかったらよかった」という気持ちである.

    ここで重要なのは,なぜ「しなかったらよかった」と思うのか,である.
    それは,そこにうまくいく可能性が残されていたからである.

    この「可能性」というのがキーワードだ.
    「可能性」というものは事象の生起が時間的に先である場合にのみ意味をなすものである.ゆえに,事象の生起が時間的に既に後ろである場合,すなわち,もう済んでしまったことの場合,可能性は意味をなさない.

    これをふまえたうえで,最初の選択に立ち返ると,「する」という選択をした場合,「しなかった場合」の可能性は全て意味をなさない.

    ところが,「しない」という選択をした場合,「した場合」の可能性はまだ意味をなすわけである.

    ゆえに,どれだけ選択肢が多くとも,した場合の未来の可能性は,しなかった場合の未来の可能性よりも絶対に少なくなる.

    可能性の多さが後悔につながる以上,これらの理由から,しなかった場合の方が後悔する可能性が高くなる.

    ゆえに,「すべき」である.

    このロジックに反論するのは簡単である.
    しかしながら,その反論に反論するのも私は簡単にできる.

    ゆえに,私は「すべき」であるという結論を支持する.
    責任は持たんがね.

  • ロメールの『冬物語』を観たら、セリフの中でパスカルが出てきてそれが凄く面白かったので興味が湧いて買ってみた。もちろん未だ全部読んでいない。この本はベンヤミンのパサージュ論の如く死後に遺稿を整理、寄せ集めて構成したものらしい。そういう書物は全て読む必要がなくて何だか気楽である。
    そういえば中公文庫の1頁目に登場する怪しげな肖像は白井晟一によるものらしく、中公文庫渋いなあと思う年の瀬であります。

  • 762夜

  • 後半のキリスト教義についての章は未読だが、前半の箴言集を読むだけのために買って読んでも損はなかった。人間についての鋭い箴言がちりばめられている。断章は各々短く、内容も独立しているので、パラパラとどこから拾い読みしてみても良い。宝石箱のような箴言集だ。

著者プロフィール

一六二三―六二。フランスの数学者、物理学者、哲学者。幼少のころから数学に天分を発揮、16歳で『円錐曲線試論』を発表し世を驚嘆させる。「パスカルの原理」を発見するなど科学研究でも業績をあげる。後年は「プロヴァンシアル」の名で知られる書簡を通して、イエズス会の弛緩した道徳観を攻撃、一大センセーションをまきおこした。主力を注いだ著作『護教論』は完成を見ることなく、残されたその準備ノートが、死後『パンセ』として出版された。

「2018年 『パンセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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